序章 乱
火は、稜線の向こうにあった。
麓の農家へ薬を届けた帰りである。礼にと持たされた蒸し餅の包みが懐でまだ温かい。少年は山道の入り口で足を止めて、空を仰いだ。夜の底が赤い。祭の篝にしては高すぎ、野焼きの季節でもない。
あの赤の下に、|玉雲観《ぎょくうんかん》がある。
包みが手から落ちた。拾わなかったことに気づくのは、ずっと後のことになる。
使いは持ち回りで、その晩はたまたま彼の番だった。行きたくないと言えば、誰かが代わってくれたはずの、その程度の用である。
少年は駆け出した。
石段は、三百と六段ある。
七つの年に数えた。数え終わるまで隣で歩を合わせてくれた人がいて、麓と山門とで段の高さが違うわけを、その人は登りながら教えてくれた。人の脚は登るほど草臥れる、だから上の段ほど低く刻んである。刻んだ者の名は残っていないが、心遣いだけは残っている――そういうことを、あの人はいつも急がない声で話す人だった。
その三百六段を、少年は数えずに駆ける。
提灯は持っていない。要らない。この山の道なら、爪先が覚えている。
いつもの夜なら、と考えるともなく考えていた。いつもの夜なら、暮れ六つの鐘のあと、山の上には決まった順で灯りがともる。まず正殿、それから庫裏と薬房、最後に回廊の角の常夜灯。白壁がその灯りを受けてほのかに浮かび、黒瓦の連なりは山の稜線と見分けがつかなくなる。風向きによっては麓の集落まで香の匂いが降りることがあって、村の者はそれを山の匂いと呼ぶ。物心のつく前にこの観へ上がった少年にとって、それは家の匂いだった。観は、家族の数だけ灯りのある場所である。
半ばを過ぎたあたりで、匂いが変わった。
木の焼ける匂いに、別のものが混ざっている。薬房の棚を端からすべて火にくべたような、幾種類もの薬草と丹砂の焦げる匂いだ。薬房の当番を何年もやってきた少年に、それが何の匂いかは分かる。なぜその匂いがするのかだけが、分からない。
息が肺の奥で音を立てる。脚は止めなかった。
山門は、開いていた。
見上げる扁額に、火明かりが揺れている。玉雲観の三字は開祖の手になると聞かされ、正月には皆で梯子をかけて埃を払ってきた。その字が、いま下から炙られて赤い。
風鐸が鳴っていない。この門をくぐって、あの音のしなかった夜を、少年は知らない。風は吹いている。頬を炙る熱を運ぶほどには、確かに吹いている。それでも軒の風鐸は黙ったままで、代わりに火の爆ぜる音だけが、観の声のように高い。
少年は敷居の前で一度だけ立ち止まり、それから、またいだ。
中庭が明るかった。夜なのに、影の置き場がないほど明るい。正殿の屋根はすでに骨だけになって、梁の落ちるたび、火の粉が柱のように立ちのぼる。朝な夕なに皆で磨いた石畳の上を、熱でうねる大気が水のように流れ、回廊の朱は端から黒へ塗り替えられていく。中庭の真ん中には、腰の高さの銅の香炉が据わっている。倒れもせず、いつもの場所に、いつものかたちで。ただ、立てる者のいなくなった香だけが絶えていた。
三十幾人が寝起きする山の上で、人の声がひとつもしない。誰かの名を呼ぼうとして、最初に浮かんだ名が誰のものだったのか、それすら声にならなかった。
前庭に、倒れているものがあった。
ひとつではない。
少年は跨がなかった。跨げなかったので、遠回りをする。遠回りをしながら、顔は見ない。数えない。数えてはいけない気がした。数えてしまえば、それが本当のことになる気がした。
草履の裏に、乾いていないものを踏む感触があった。少年は下を見ずに歩いた。
丹房の前に、人が立っていた。
焔を背にして、剣を提げている。
あの人だった。
少年が最初に見たのは、顔である。煤も、返り血も、あったのかもしれない。見えていたのは顔だけだった。書き取りの筆の持ち方を直してくれる時の。熱を出した晩に、額へ手を置いてくれた時の。静かな、いつもの顔。
それが、一番分からなかった。
燃える観も、倒れている兄弟子たちも、分からないなりに目の前にある。だがあの顔だけは、この庭のどこにも繋がっていない。昨日の夕餉の膳の向こうにあった顔が、そのまま、火の前に立っている。
少年は名を呼ぼうとした。
声は出ない。喉は動いたはずだった。ただ、音にならない。
あの人が、こちらを向いた。
目が合った、と思う。合ったのかどうか、本当のところは分からない。あの目に自分が映っていたのかどうか、十年経っても、少年には分からないままである。
剣が上がるのを、少年は見ていた。
見ていて、動かなかった。動けなかったのか、動かなかったのか、それも分からない。逃げるという考えが浮かばなかったことだけは覚えている。あの人から逃げるという形の動きを、彼の体はそれまでの生涯で一度も覚えたことがない。
一太刀だった。
熱より先に、胸の奥で何かが砕ける感触がある。骨ではない。もっと内側の、名を知らないものだ。砕けた瞬間、体の中を巡っていた温かいものが、行き先をなくして止まるのが分かった。
痛みは遅れて来る。来た時にはもう、地面が近かった。
倒れながら、少年はまだ、あの人の顔を見ていた。剣を引いたあの人が何を見ていたのかは、傾いでいく視界の外である。
何か言おうとした。今度も、言葉にならない。
あの人も、何も言わなかった。
足音が遠ざかったのかどうか。火の音に紛れて、それも聞き取れない。
そこから先を、少年は覚えていない。
覚えているのは、断片がひとつきりである。
頬の下で、土が冷たい。火の熱はもうどこか遠くにあって、体の右半分だけが、濡れたように重い。夜が薄れて、山の稜線が白い。その白い空から、白いものが降ってくる。
雪だ、と思った。
雪の降る月ではないことは、分かっている。それでも、雪だと思った。降りしきるそれは音もなく袖に積もり、触れたそばから黒く崩れる。灰だと分かってからも、少年は雪だと思い直すことを、やめなかった。
目を閉じる、その時まで。
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趣味でかいてた小説を引っ張り出してきました。せっかくなので投稿してみようかなと。
元々勉強のために試作で考えたwebtoonの原作です。とくに連載する予定もないので文字で残しておこうかなと。自分の書いた文章も絵も、あとから見返すと、上手くは無いけどなんか好きな味がするんですよね。
そういう感性を、忘れたくないなぁと思って、半分くらいりしている作品をせっかくなので残しておこうと思いました。せっかくブログを作ったのでね。
また、せっかくなのでカクヨムにも投稿してみました。
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