出塞 — 第2話

第二話 水攻め

2026.09.16 5,514字 ・ 約10分
表示 — 文字 —

 裴崇義は、起きよと呼ばれる前に身を起こした。
 ほとんど眠っていなかった。幕の外では馬が鼻を鳴らし、煮炊きの煙が隙間から入ってくる。従者が差し出した甲冑を受け取り、自分で身に着けた。締め紐を結び、引き、もう一度引く。最後の一本まで済んでも、胸の内の張りは収まらなかった。
 初めて、一隊を自分の名で動かす。
 幕を出ると、夜露を含んだ軍旗が重く垂れていた。その下で兵たちが粥をかき込み、空になった椀を重ねている。裴家の郎党に、幾度も戦を渡った古兵を加えて三千。列の中には、屋敷で見知った顔もあれば、まだ名と顔の合わぬ者もいた。
「将軍。支度は整っております」
 副官が馬を引いてきた。裴崇義より二回りは年上の、日に焼けた男だった。軍から付けられた者で、裴家の人間ではない。屋敷の者が言い直してもなお口にする「若殿」を、この男は一度も使わなかった。
 裴崇義は鐙に足をかけた。副官はその背後で、若い兵の肩からずり落ちた荷を直していた。

   *

 淮南の南西には、二つの沢に挟まれた細い道がある。
 先に出した斥候は、浅瀬も道も通れると報じた。守りは薄い。田は乾いている。ここを抜ければ、北から押す本隊と呼応して、城を脇から衝ける。裴崇義は昨夜、灯の下で何度もその道をなぞった。絵図の上では、指一本で渡れた。
 朝の光の中で見る道も、よく乾いていた。
 前を行く兵の足に薄い土煙が立つ。畦には刈り残したような草があり、その向こうに稲が倒れ伏していた。人影はない。田の水口には、泥に汚れた板が斜めに残っている。
「将軍」
 副官が馬を寄せた。
「田が乾きすぎております」
「斥候の報せどおりだ。渡りやすい」
「道は見ております。水の来る方は、まだ」
 裴崇義は前方を見た。道は両沢の間へ延び、その先で低く窪んでいる。
「国が傾けば、水を引く手も足りなくなる。民は逃げたのだろう」
「逃げたのであれば、何を恐れて逃げたのか。上流へ物見をお出しください」
「戻るまで、どれほど待つ」
「半日は」
「本隊は今日、北で仕掛ける」
 声が少し強くなった。裴崇義にも分かった。
 半日待てば、本隊だけを戦わせることになる。何をしていたと問われて、乾いた田が気にかかったとは答えにくい。裴家の子には過ぎた兵を与えた、と誰かが言うだろう。昨夜はそれを言わせぬために、何度も絵図を確かめた。
「このまま進む。遅れて着いても役に立たぬ」
 副官はすぐには引かなかった。馬上で身をかがめ、もう一度田の方を見た。
「では、荷駄を後ろへ残します。あの高い道に沿わせたい」
「好きにせよ」
 副官が下がると、肩の力がわずかに抜けた。裴崇義は自分でそれを煩わしく思った。この男が黙るたび、許しを得たような気になる。
 
 隊列から若い声がした。
「若……将軍。淮南の兵は弱いと聞きますが」
 郎党の末の子だった。槍を握る手に力が入り、歩くたび穂先が揺れている。
「弱い兵はいない」
 裴崇義は父の言葉を返した。
「弱い使われ方をした兵がいるだけだ。おまえも前を見ろ。槍が隣に当たる」
 傍らの古兵が笑って槍を押し戻す。若い兵も笑った。後方では、副官が隊列の間隔を詰めさせていた。荷駄の車だけが列を離れ、高い道へ向きを変えてゆく。
 風は南から吹いていた。軍旗の露が乾き、裴の一字が朝日にひらいた。

   *

 その旗を、白明遠は堤の上から見ていた。
 三つの用水を束ねる堰だった。背後には溜めた水があり、足元には杭と綱が並ぶ。十日かけて水を絞った下流の田を、今、承の兵が歩いている。
 兵は詭道なり。能なるも、これに不能を示す。
 田は荒れ、民は逃げ、水を扱う者はいない。そう見えるように、人を退かせ、水を止めた。隘路の兵を薄くしたのも同じ理由である。敵の物見に隠すものと、わざわざ見せるものを、一つの絵図の上で揃えた。
 
 だが、絵図を引いてからの方が長かった。
 隘路沿いの三つの村から、まず人を移した。家財を取りに戻ろうとする者があり、飼っている豚が動かぬと言う者もいた。白明遠は日暮れごとに、退いた家の数を確かめた。最後に残ったのは、堰を扱う農夫たちだった。
「今年の稲が流れますな」
 堰を預かる古老が言った。支度を始めた日のことだった。
「流れます」
「せめて、少し刈っておくわけには」
「刈った跡があれば、人の手が入っていると知れます」
 古老は田を見ていた。穂はまだ青みを残していたが、もう頭を垂れ始めていた。
「来年は、作れますか」
「泥をさらい、堰を直してからです。今までどおりとは、お約束できません」
 白明遠は言った。
「だから、堰を知るあなた方には残っていただかねば困る。切ったら、すぐに上の道へ。水の走り方を見に戻らないでください」
 古老は腰の綱を締め直した。それから人を呼び、杭を打つ者と綱を引く者を分け始めた。誰も歓声など上げなかった。受け持ちを聞いた者から、自分の田とは反対の方へ歩いていった。
 
 前夜、白明遠は堤を端から端まで歩いた。月明かりで杭の位置を確かめ、綱の張りを確かめる。古老が一か所、綱を掛け直した。白明遠が理由を尋ねると、引く者の足場が悪いのだという。
 絵図では見落としていた。
 白明遠は礼を言い、そこから上の道まで、もう一度歩いた。

   *

「来ますか」
 古老の声に、白明遠は眼下へ目を戻した。
「来ています。あの土煙です」
 朝が進み、旗の後ろに続く列も見えるようになった。土煙は細く、途切れずに動いている。
「歩みが揃っている。よく仕込まれた兵だ」
 白明遠の声が弾んだ。
「あの速さなら、合図も測りやすい」
 ただ、最後尾が思った形と違っていた。荷駄が遅れている。道を外れ、高所寄りに止まるらしい。誰かが用心したのだろう。白明遠はしばらくそれを見ていたが、先頭は止まらずに進んだ。
 列の中ほどが、窪地へ入った。
 白明遠は片手を挙げた。古老が隣で同じように手を挙げる。堤の端へ、端へと合図が渡った。遠い男の腕まで上がるのを見届けて、白明遠は眼下の道へ目を戻した。
 昨夜まで紙に引いていた線の上を、人と馬が進んでいる。
 数千の足を、自分がここへ運んだ。
 風が頬を打った。広い沢も、遠い土煙も、一度に見渡せる気がした。口元に浮かんだ笑みを隠そうとは思わなかった。
「切ってください」
 杭を打つ音が走った。
 綱が張り、木が軋み、堰の下から泥水が噴いた。古老が男たちを怒鳴って上の道へ追う。白明遠も退いた。振り向く間に、足元にあった堰の縁が消えた。

   *

 馬が足を止めた。
 裴崇義は手綱を締め、前方を見た。先の馬も耳を伏せている。蹄の下から重い響きが上がってきた。
「引き返せ!」
 副官の声だった。
 裴崇義が腕を上げたとき、田の向こうが盛り上がった。
 水だった。
 褐色の面に草と枝が浮き、それが立ったまま押し寄せてくる。畦が消えた。先頭の旗が傾いた。馬首を返そうとした騎兵が横倒しになり、後ろの兵を巻き込んだ。
「高みへ!」
 叫んでから、高みが遠すぎることを知った。左右の沢へ水が溢れ、道のあった場所を覆っていた。馬が後脚で立ち、泥水が腹を打ち、鐙から足が抜けた。
 天地が返った。
 口を開けば泥が入った。腕を伸ばすと何かにぶつかり、掴む前に流された。誰かが袍を掴んだ。布が喉に食い込み、その重みがふっと消えた。手を伸ばし直しても、もう何もなかった。
 水の上へ顔が出た。一度だけ兵の声が聞こえた。名を呼ぼうとした口に、また水が入った。
 倒木に縋りついたあとのことは、よく覚えていない。
 
 岸で泥を吐いていた。肩が痛んだ。膝も痛んだ。四つ這いになって息をつくと、近くに兵が伏せていた。
 裴崇義はその肩を掴んだ。兵が咳をした。
「立てるか」
 うなずくのを待たず、腕を自分の肩へ回す。二人でよろめきながら水際を離れた。置いて戻ると、葦に人が引っかかっていた。今度は、返事がなかった。
「誰か、手を貸せ」
 声が擦れた。兵が一人、二人と近づいてくる。腕を取り、帯を掴み、泥の上へ引きずり上げた。裴崇義の甲の隙間から水が落ちていた。下の衣が水と泥を含んで、歩くたび腿に絡んだ。
「将軍、お怪我は」
「あとだ。綱を持ってこい。歩ける者は水際へ。歩けぬ者を、あの木の下に寄せろ」
 近くの兵が声を継いだ。「綱を」「木の下だ」。その声の先で、座り込んでいた者が立った。
 裴崇義は副官を呼んだ。
 返事はなく、代わりに下流から、また人を見つけたという声が上がった。

   *

 堤の上では、農夫たちが声を上げていた。
 水が隘路を満たし、承の旗が消えていた。敵が来た道も、自分たちの田の境も、もう見えない。古老は喜ぶ男たちを押し分け、崩れ残った堰に近づかぬよう縄を張らせた。
 白明遠は使いの兵を呼んだ。
「敵の一隊を破った、と宮へ。それから、使者を出すなら今だと。先日の献策のとおりに」
「戦果は、どのように」
「分かっているところまででいい。数はまだ書くな。向こう岸に上がった者もいる」
 兵が去ると、急に水音が大きく聞こえた。
 堰のあった場所から、なお水が落ちていた。しかし、背後の水位はもう下がっている。じきに底が現れる。敵の本隊が来る頃には、崩れた土と、種を明かした隘路が残るだけだ。
 一隊を破った。承には、その先がある。
 白明遠は北を見た。遠い空は朝と変わらず、山際に雲がかかっていた。こちらが水を使い果たしたことは、向こうの将にもほどなく知れる。
「見事な戦でした」
 古老が戻ってきて言った。
「ええ。今日は」
「あと、どれほどもちますか」
 白明遠は古老を見た。老人の脚絆は泥だらけだった。左手には、使わずに余った綱を握っている。
「一月はもちません」
「そうですか」
「それまでに、話をつけてもらわねば」
 宮の方角を見たが、ここから高殿は見えなかった。勝報だけ聞いて使者を留められては困る。白明遠は帰って申し上げる言葉を考え始めた。今日の一勝で足りぬことを、勝ったその日のうちに説かねばならない。
「そのあと、この水路は誰が守りますかな」
「新しい旗でしょう。あちらも米は要る」
「直す手間までは、ご存じないでしょうな」
「知らなければ、教えてやってください」
 古老は水面を見た。田のあったところを、小さな屋根の一部が流れてゆく。
「春の水は、待ちませんからな」
 それだけ言い、綱を肩に掛けて戻っていった。別の男が鍬を持ってついてゆく。二人は崩れた岸の少し手前で止まり、泥の上に線を引き始めた。
 白明遠は足元の絵図を拾った。隅が濡れていた。水の広がる範囲を引いた墨は、紙の上ではまだ細い線のままだった。

   *

 日が落ちても、裴崇義は松明を絶やさせなかった。
 流れは夜半から弱まり、葦の間や泥の窪みに、人の形が現れた。二人で一人を運び、足りなければ三人で運ぶ。筵がなくなると、着ていたものを脱いで顔に掛けた。
 拾った兵の一人は、まだ槍の折れた柄を握っていた。指を外そうとして、裴崇義はやめた。そのまま胸の上に置いた。顔に覚えがあったが、名が出てこなかった。
 少し離れたところで、兵がその名を呼んだ。
 裴崇義は呼んだ者をそばへ寄せ、もう一度聞いた。口の中で繰り返した。聞き違えていないと確かめてから、次へ移った。
 副官は戻らなかった。
 下流から担ぎ戻すたびに、裴崇義は顔を見た。袍を掴んだ手が誰のものだったのかも、ついに分からなかった。
 明け方、荷駄の兵が糧を運んできた。
「上の道に置いておりましたので。車も、無事です」
 俵を下ろす男の袖は乾いていた。裴崇義はその袖を見て、昨日の副官の声を聞いた。
 荷駄を後ろへ残します。
 自分は何と答えたか。好きにせよ、と言った。
「飯を炊け」
 それだけ言うのに、喉がつかえた。
 集まった兵は千に足りなかった。軍籍は荷駄に残っていた。名を呼ぶ者の前に、一人ずつ立たせる。立てぬ者の分は、同じ組の兵に答えさせた。居場所の分からぬ者には、まだ印をつけさせなかった。
 竈を作る者、薪を拾う者、水を汲む者。さっきまで泥の上に座っていた兵たちが、呼ばれるたびに動いた。
 椀を受け取った若い兵が、両手でそれを包んでいた。顔の泥に、涙の筋ができていた。誰も慰めなかった。隣の兵が自分の椀を持ってきて、黙って腰を下ろした。
 裴崇義も、最後に一椀受け取った。
 米は炊けていた。湯気も立っていた。口へ運ぶと、喉の奥に残った泥の味がした。

   *

 三日目、本隊から軍令が届いた。
 淮南を囲む。残兵をまとめ、後方の守りにつけ。
 叱責は一字もなかった。裴崇義は文を開いたまま、しばらく動かなかった。自分の一隊が潰れても、北の軍は予定どおり進んでいる。
「返書を、お待ちしますか」
 伝令が尋ねた。
「待て。戦の報告を添える」
 筆と紙を持ってこさせた。負傷者、戻った者、遺体を収めた者。まだ探している者。荷駄の箱を二つ寄せて卓の代わりにし、書き付けを並べた。
 外で、洗った軍旗を揚げ直していた。裾が裂け、風が通ると、そこだけが別の向きにはためいた。
 裴崇義は紙に隘路を描いた。
 田が乾いていた。敵の守りは薄かった。こちらの進む道は空けられていた。どこまでが偶然で、どこからが相手の手なのか。堰の位置は、まだ確かめられていない。
 淮南にこれを仕組んだ者がいる。
 腹の底に怒りが戻った。あの水を切った者に、流された兵の名を一人残らず聞かせてやりたかった。筆を握る手が強ばった。
 その手の下に、自分の進んだ道があった。
 上流へ物見を、と言った声を思い出した。あのときは、目付役の差し出口に聞こえた。
 裴崇義は紙を脇へ寄せ、戦況を書き始めた。出発の刻限。道の様子。斥候の報せ。行を改めるところで筆が止まり、墨が溜まった。
「副官、上流の検分を請う」
 口に出して書いた。
「採らず。進軍を命ず」
 少し離れて待つ伝令が顔を上げた。裴崇義は筆を止めなかった。
 書き終えて名を記すと、墨が乾くまで両手で紙を押さえた。外では兵の名を呼んでいた。答えのない名を、呼ぶ者がもう一度繰り返した。

◂ PREV
第一話 最後の日
第一部 南の水
第2話 第二話 水攻め(このページ)

◂ NOVEL 一覧へ戻る