夏の市は、朝の暗いうちから立つ。
空が白むより先に、川が明るみ、夜のうちに下りた霧が水の上に残って、対岸の篝の火をひとつずつ丸く滲ませている。渡し場には荷舟がもう並び、櫓の軋みの間に、天秤棒の音と鶏の声が混じり始めていた。
風は、まだ夜の温度である。その中を、水の匂いと、刈り草の匂いと、どこかの竈の煙が順に流れてくる。年に四度しかない朝だった。
沈曉が麓へ下りたのは、日の出の少し前である。境内を出る時はまだ暗かった。石段を下りるにつれて、足元より先に音が明るくなり、麓の目覚めを、耳が先に知った。
薬を配る先が十四軒ある。市の日は、留守の家がいちばん少ない。買い出しは阿禾と小鵲に替わったので、楊文はこの日、鍛冶と縄屋を回る役になっていた。
二人は石段の下で分かれた。
「昼過ぎに、渡し場だ」
「はい」
「先に着いたら、座ってろ。立って待つな」
「立っている方が、楽な時もありますよ」
「いいから座ってろ」
沈曉は頷いた。この頃、そういう言い方をされることが増えている。
十三軒目が、油屋だった。
店は間口が狭く、奥が長い。表に甕が三つ並んでいて、いちばん手前のものだけ縁が欠けている。そういう物を客の手の届くところに置くのは、奥に触らせないためだと去年教わった。
中から女が出てきた。
二十五、六ほどだろうか。この家の嫁で、去年の秋に夫を亡くしたばかりだ。流行り病で、沈曉が薬を持って通ったのは、その最後のひと月だった。
「お待ちしておりました」
「朝早くに、失礼いたします。市の前に、と思いまして」
女は両手で薬を受け取った。
「上の子の咳が、あれから随分と良くなりました」
「それは何よりです。あの子は、薬を嫌がりませんでしたか」
「それはもう、嫌がりました。大騒ぎで」
「でしょうね。苦い薬です。……今日の分には、蜜を少し足してあります」
「ああ、それはあの子も喜びます。先の分もいただけますか。今日は市ですから、次にいついらっしゃるか分かりませんし」
「では、三包み置いてまいります。それで長引くようでしたら、もう風邪ではありませんから、その時は使いをください」
「まあ。脅かさないでください」
「薬屋の挨拶のようなものです」
沈曉は懐から薬を出し、包み紙に用い方を書いた。女はそれを覗き込んだ。
「あなたの字は、うちの人が生きていた時から取ってあります」
「さようですか」
「こんな綺麗な字を書かれるんですもの。捨てられません。もったいなくて」
「……薬の名と、飲み方しか、書いてございませんのに」
「それでもです」
沈曉は筆を止めた。
同じことを、この四年で三軒に言われている。
女は薬を棚に上げ、それから前掛けで手を拭いた。
拭き終えたところで、動かなくなった。
「あの」
「はい」
「山を、下りるおつもりはございませんか」
沈曉は包み紙を畳んだ。
「といいますのは」
「うちに来ていただけないかと」
女は前掛けを握っていた。
「店は、私と姑と、子が二人です。夫が亡くなってから、人手が足りません。それに、薬のことを分かる方が一人いてくださると、麓の者はずいぶん助かります。あなたは、字も書けますし、勘定もお出来になるでしょう」
「勘定は、あまり」
「お出来になります」
女は言い切った。
「それに」
そこで一度、言葉が切れた。
その先を、彼女は自分で継いだ。
「私は、あなたがいいと思っております」
店の奥で、子供が何かを倒した音がした。
女はそちらを見ずに立っていた。
沈曉は、長く黙っていた。
黙ったのは、返事を考えていたからではない。何を言われたのかを、遅れて理解したからである。
この四十年、彼は人に望まれたことがない。役に立つと言われたことはある。助かると言われたことも、ありがたいと言われたこともある。それらは全部、彼が何かをした後に来る言葉だった。
いま来たものは、何もしていないのに来ている。先払いの銭のようなもので、彼はその受け取り方を知らなかった。
彼女がこの半年、何を抱え込んできたのかは察しがつく。ひとりで背負う店の重さも、残された子と姑を養う不安も、張り詰めた糸のような心細さも。倒れないために寄りかかる柱を、この女は切実に求めているのだろう。
その切実さを察せられないほど、人を知らないわけではなかった。
「……ご丁寧に。お申し出をいただいたことは、忘れません」
「お断りになるのですね」
「はい」
「理由を、伺ってもよろしいですか」
沈曉は、店の古い梁を見た。継いだ跡が二箇所あって、継ぎ方が丁寧だった。この家は、物を長く使う家なのであろう。長く使う家に、彼の話は向かない。
「私は、長くいられません」
「ですが、山にはもう四年いらっしゃると」
「四年です」
「なら」
「四年で、いちばん長いのです」
女の口が、少し開いた。
「私は、どこにも長くおりません。そういう質です。ここに来れば、いずれ、この家に一人ぶんの穴を空けます。あなたが求めるような柱になることは、できません」
言ってから、彼は頭を下げた。
「あなたには、穴を埋める役をなさる方が要るはずです」
女は前掛けを握ったままだった。
握ったまま、頷いた。頷き方が、しっかりしていた。
「分かりました」
「申し訳ございません」
「謝らないでください。私が勝手に申し上げたことですから」
彼女は棚の方を向き、薬の包みを一つ、置き直した。
「でも、覚えておいてください」
背中で、彼女は言った。
「あなたを欲しいと思った者が、この麓に一人いたことを」
戸口を一枚くぐると、市の音が湯のように押し寄せた。店の中の静けさが、その一枚で保たれていたことを、出てから知った。
甕の三つ並んだその脇に、楊文が立っていた。腕を組んで、鍛冶の包みを足元に置いている。
いつからいたのかは、訊かなくても分かった。
「早かったな。行くぞ」
「はい」
彼はそれだけ言って、包みを担いだ。
渡し場までの道を、楊文は喋らなかった。
この男は歩きながら喋る。特に荷が重いと余計に喋る。それは、出会った頃から変わっていない。
今日は、一言もなかった。背中だけが、担いだ荷より重いものを負って歩いているように見えた。
渡し場で舟を待つ間も、市の帰りの人が四方で騒いでいる中で、彼は川を見ていた。
「……今日は、舟が混んでいますね」
「ああ」
それきりだった。
この男との間で、話の種が一度で枯れるのは、珍しいことではないが、枯らしたのが楊文なのは珍しいことだった。
楊文は川を見たまま、足元の石を爪先で一つ、位置を変えた。
石段に入ってから、二度だけ声があった。
「持つか」
「持てます。まだ、その程度は」
それが一度目である。
中腹で、二度目が来た。
「休むか」
「いえ、まだ」
休みたかった。
この頃、石段は上の方が長く感じる。昔は上の段ほど低く刻んであるのが有難かったが、いまは低くても足が上がらない。
彼は休まなかった。休むと言えば、この男が荷を全部持って、一人で先に行ってしまうような気がした。
石段には夕の色が差して、段の縁だけが一段ずつ金に光っている。三百の段が、沈む日を上から順に手放していくところだった。
三百段を過ぎたところで、楊文が振り向いて、こちらを見た。
見ただけで何も言わずに、それから前へ向き直った。
沈曉は、その背中を見上げた。
この男が振り向くのは、こちらの息を聞いている時である。聞いて、遅れていれば歩を緩めて歩幅を合わせてくれる。だが、今日は緩めなかった。緩めずに、見た。
ただ、見られたのは、初めてに近い。足元の地面がわずかに傾いているような、ひどく据わりの悪い心地がした。
観に着いたのは、日が落ちてからだった。
弟子は四人とも起きていて、荷を運び、飯を出し、市の話をした。阿禾が値切りの成果を報告し、小鵲が横で数字を訂正した。楊文は普段通りに聞いて、普段通りに褒めた。
沈曉は薬房で残りの薬を片づけると、湯を使って、房へ戻った。
夏なので、火は入れない。湯を使った体は、拭いても熱が抜けず、窓を開けても風が来ないので、首の後ろに湿りが残っていた。
灯りだけを点けて、帯を解きかけた、その時だった。
足音は、なかった。
廊下の途中で一度だけ大きくなる、あの合図がない。戸が開いた時、沈曉はまだ帯を手に持っていた。
「楊文」
返事はなかった。
楊文は戸を閉め、閂を落とした。それも初めてだった。この山で戸に閂を落とす者は、いない。
小さな音だったが、その音で、部屋の温度が一度だけ変わった気がした。
彼は近づいてきて、灯りを吹き消した。
夏の夜は、灯りが消えても目が慣れる。慣れるまでのわずかな間、沈曉は自分の顔の前に熱があることで、この男の位置を知った。
息が届く距離である。
昼のあいだ石段を上ってきた体だから、熱がまだ引いていない。汗と、鍛冶屋の煤の匂いがした。市の埃と、川の水の匂いも混じっている。
沈曉の側は、湯上がりの熱が引きかけて、指先だけがもう冷えていた。
その手を、取られた。
いつもは手首である。今日は腕の上を、上から掴む形だった。掌の硬いところが二箇所、肌に当たった。剣の柄が当たる場所と、斧の柄が当たる場所である。同じ手で箒も持つので、指の内側も硬い。
「あの」
言い終わる前に背が壁に当たる。音が思ったより大きく、沈曉は隣の房のことを考えた。だが、それを言う間はなかった。
口づけは、乱暴だった。
合わせるというより、押しつける形で、歯が当たり、下唇の内側が擦れた。乾いた唇が擦れる感触の下から、口の中の熱が届く。外側は夏の乾き方で、内側は湯より温かかった。
息が続かなくなって、沈曉は顔を横へ逃がした。
逃がした先を、追われた。
顎の線を辿って首筋へ下り、脈のあるところで唇が止まった。止まって、そこを吸われた。それから噛まれた。
声が出そうになって、彼は自分の手の甲を口に当てた。
当てた手を、楊文が外した。
外して、指を絡めて、壁に押さえつけた。指の間に、熱い指が入ってくる。掌が合わさったところだけ、汗で滑った。
「聞いてた」
耳のすぐ横で、彼は言った。
声が低く、掠れている。
「油屋で。全部聞いてた」
「はい」
「なんで俺に言わなかった」
「申し上げることでは」
「あるだろ」
もう一度、噛まれた。
さっきより下で、鎖骨の上である。今度は、痕が残る強さだった。噛まれたところが熱くなって、その熱が首の後ろまで回った。
沈曉は、抗わなかった。
抗わなかったのは、諦めたからではない。この力の意味が、彼には読めた。優しくされている時、彼は毎回それを取り違える。何をされているのか分からなくなる。今夜のこれは、分かる。
求められている。
それだけが、はっきりしている。
二度目の口づけは、押しつける形ではなかった。
唇の合わせ目を舌で開かれて、そこから入ってこられた。乾いていたところが、二度目には湿っている。深いところは、さっきよりもっと熱かった。喉の奥で音が鳴りそうになって、彼はそれを飲んだ。
自分の体が、遅れて温まりはじめる。
この頃、彼の体は何をされても半拍遅い。朝の指が動かないのと同じ遅れである。熱が来るまでのその半拍を、彼はいつも持て余していた。
今夜は、持て余す間がなかった。
噛まれた場所と、押さえられた手と、腰に回った腕が、順ではなく一度に来ている。熱は、遅れないまま追いついた。
楊文の動きが、そこで一度止まって、額を額に当ててきた。
息だけが聞こえる。荒い。荒い息が、濡れた唇の上を通っていく。
この止まり方を、沈曉は知っている。この男は、乱暴なことをする前に必ず一度、自分の手を確かめる。四年前の、最初の夜から今までずっと、そうだった。
沈曉は、待たなかった。
空いている方の手を上げて、楊文の髪に指を入れた。生え際は汗で濡れていて、指がすぐ滑った。滑ったところで掴んで、引いた。
息が、止まった。
「……いいのか」
「はい」
「痕、つくぞ」
「隠せる場所に、してください」
楊文が、低く息を吐いた。
吐いた息が、首筋の濡れたところに当たって冷たい。冷たいと感じるほど、そこが熱くなっている。
「あんた、そういうことを言うな」
「なぜですか」
「効くんだよ」
言い終わる前に、指が髪の中へ入ってきた。
耳の上である。隠せなくなってきた白いものが増えている、その場所だった。この男はいつもそこに触れる。今夜も、触れた。荒い手つきの中で、それだけが変わらなかった。
帯が、床に落ちた。
重ね合わされた衣が開かれる。外の空気が肌を撫でる間もなく、熱い体温が覆い被さってきた。
隠せる場所に、という言葉は、半分だけ守られた。襟元から露わになる首筋へ、鎖骨へ、わざと痕を刻みつけるような口づけが落ちてくる。
「ん……っ、」
熱を帯びた鋭い痛みが走るたび、沈曉の喉から押し殺した息が漏れた。
半拍遅れていた体は、とうに男の熱に飲まれている。
荒々しいのに、どこかひどく慎重な手つきが、沈曉の内側にあるどうしようもないものを引きずり出していく。
重なる肌から汗が滲んだ。深く、息の根を止めるような重みと波が下腹部へ押し寄せてくる。
「ぁ、……楊文」
沈曉は耐えきれず、すがるように腕を回した。
掴んだ先は、汗ばんだ楊文の背中だった。行き場のない熱に目の前が白く明滅し、声にならない声を上げたとき、沈曉の指先は無意識のうちに力強くひきつった。
整った爪が、分厚い背中の筋肉に深く食い込む。
熱が、骨の髄まで焼き尽くすように弾けた。
その手が何をしたかを、彼は覚えていない。
離れたのは、暑さのせいだった。
触れているところに汗が溜まる。どちらからともなく身を剥がして、それでも足首の上には、楊文の足が載ったままだった。載せているのか、置き忘れているのかは分からない。どけられなかったので、そのままにした。
やがて楊文が起きて、水屋から瓶を提げて戻ってきた。
碗は一つである。先に注いで、こちらへ寄越した。
生ぬるい水が、喉を通る時だけ冷たかった。半分で返すと、楊文は残りを一息に空け、二杯目を満たして、また寄越した。
それから、首筋に貼りついた髪を剥がされた。
剥がす指が、噛んだところの際を避けて通る。避け方で、場所を正確に覚えているのが分かった。
「……悪かった」とは、言わなかった。その言葉を、彼はこの男の口から一度も聞いたことがない。悔いることのない性根で、それを彼は隠しもしない。
代わりに、こう言った。
「明日、襟を高くしろ。阿禾が気づく」
「そうですね。あの子は、なんでも帳面をつけていますから」
「……そうだった。気づいたら、俺が言われる」
沈曉は、そこで少し息を漏らした。
声にはならない。鼻から抜けるだけのものである。
「なんだよ」
「いえ」
「なんかあるだろ」
「……あなたが叱られるのだな、と思って」
「叱られるんだよ。あいつら、あんたの味方だ」
「良い弟子を、お持ちです」
「他人事みてえに言うな」
楊文は瓶を引き寄せて、壁に背を預けた。
しばらくして、彼が言った。
「あんた、あの女に何て言った」
「長くはいられないと申し上げました」
「他には」
「四年で、いちばん長いと」
楊文が、こちらを向いた気配がした。
「……そりゃ、断り文句か」
「本当のことです」
「本当のこと、か」
「……はい」
風が一度だけ部屋へ入り込み、汗ばんだ肌をひやりと撫でて、すぐ止まった。先ほどまでの熱が、そのわずかな風で急に奪われ、現実に引き戻されるような心地がした。
「俺はあの女に、腹が立ったんじゃねえ。あの女は、いい人だ。一人で店を切り盛りして、あんたに、店を手伝えって、子供がいるって言った。それだけだ。あんたの名も、歳も、どこから来たのかも、何も知らねえで、それを言えた」
沈曉は、手の中の碗を見ていた。
「俺には、もう言えねえ。あんたが何をした人か、俺は知ってる。あんたが何を焼べたかも知ってる。知ってて、それでも欲しいと思う。だが、あの女みたいに軽くは、もう思えねえ」
彼はそこで止まった。
止まって、それから短く付け足した。
「軽く思われるあんたを、見たくなかった」
沈曉は、少し考えた。
考えて、正確に答えることにした。
「軽く思われたのだとは、思っておりません。あの人は、私が長く留まれない事を知らなかっただけです。知らないことは、軽いことではありません」
楊文が何か言った。
小さくて、聞き取れなかった。訊き返すのはやめた。
朝、沈曉は襟を高くしてみた。
鏡はないので、窓の水鉢に映して確かめた。首の横に一つ、鎖骨の上に一つあり、水の上のそれは、墨を一滴落として滲んだように見えた。鎖骨の方は襟で隠れた。首の方は、角度によっては見える。
彼は襟の内側を折り込み、もう一度確かめるだけで、襟を緩めた。
薬房へ行くと楊文が先にいて、棚の前で、膏薬の壺を両手に一つずつ持っている。どちらがどれか、決めかねている手つきだった。
「何に、お使いですか」
「傷痕に効くやつ」
「痕に効く薬は、ございません。傷の治りを良くするものはありますが、痕は残るか、日が消してくれるだけです」
「……役に立たねえな」
「はい。痕は、薬より長持ちいたしますので」
「薬の先生がそれを言うか」
「薬の先生だから、申せます」
楊文は壺を持ったまま、こちらを見た。
見て、首の横に目を留めた。留めたまま、動かない。
沈曉は襟を直さなかった。
この男は、謝らない代わりに、自分がつけたものをきちんと見る。しばらくして、楊文が目を逸らした。
「……襟を、高くしろって言ったろ」
「していました。……あなたの前では、意味がありませんので」
楊文の耳が赤くなったのを沈曉は見た。
楊文が壺を棚へ戻しに、手を伸ばした。
伸ばした拍子に背の布地が引かれ、緩んでいた襟首から肩甲骨の肌が覗く。それを見て、沈曉の手が止まった。
「楊文殿」
「あ?」
「背を、見せてください」
「なんでだ」
「いいから、見せてください」
楊文は棚から手を下ろし、少し考える顔をした。それから、背を向けた。向けただけで、衣は脱がなかった。
「怪我をなさっているのでは」
「……これは、いい」
「よくありません」
沈曉は手を伸ばして、肩口の布を背の方へ滑らせた。
四つあった。
肩の下から、斜めに走っている。二つは浅く、二日で痕もなく消えるだろう。二つは少しばかり深い。深い方は、縁がもう乾いていた。
その下に、古いものがある。
白く細い似たような線が、幾筋か。長く残ったものの色である。雪の上に古い箒目が透けているのに、似ていた。
「これはどうされたのですか」
「……あんただ」
「私が?」
「あんたが、毎回やる」
楊文は背を向けたままである。
「気づいてねえのか」
「……存じません」
「知ってたろ」
「本当に、存じません」
自分の声が、少し掠れた。
「いつからですか」
「四年前の、最初の夜から」
沈曉は、襟を持っていた手を下ろした。
「なぜ、仰らなかったのですか」
「言ったら……言ったら、あんた、やめるだろ」
沈曉は薬箱を開けた。
膏薬を出し、布を出し、水を汲む。手が正確に動いた。
拭くと、楊文の背が一度だけ強張った。
「痛みますか」
「痛くねえ。冷たいだけだ」
沈曉は膏薬を薄く伸ばした。
深い方の二つは、消えないかもしれない。古い線と同じ色で残る。自分が残したというものがこの背に何本あるかを、彼は数えなかった。
「楊文」
「あ?」
「次は、手を握らせてください」
「……なんでだ」
「そうすれば、背に腕を回せませんので」
楊文が、肩で笑った。
笑った拍子に、膏薬を塗ったところが動いた。
「駄目だ」
「なぜですか」
「俺の両手がふさがる」
沈曉は布を畳み、薬箱へ戻した。
その日の午後、二人で薪を割った。
割るのは楊文で、沈曉は積む役である。背に響くからやめておけと言ったが、聞かなかった。
割られたばかりの薪の白い面が、積むそばから日を吸って乾いていく。
三十本ほど積んだところで、沈曉が言った。
「昨日、油屋で」
「あ?」
「歳を訊かれました」
楊文の斧が止まった。
「訊かれて、答えました」
「本当の?」
「はい」
彼は薪を一本、向きを変えて置いた。
「あの人は、笑われました。冗談がお上手ですね、と」
楊文は斧を下ろした。
下ろして、切り株に腰を掛けた。
「……そりゃ、笑うだろ」
「私は、冗談というものを、生まれてこの方、一度も申し上げたことがないのですが」
「それがいちばん笑えるんだ。あんたの本当は、夢物語か冗談のように聞こえる」
「……そうですか」
「そうだよ」
沈曉は次の薪を積んだ。積んでから、手を止めた。
「この世で、あの数を聞いて笑わない者は、一人だけです」
楊文は答えなかった。
答えずに、斧を取って、次の一本を割った。割る音が、いつもより高かった。
夕方、阿禾が薬房に来た。
「沈曉さま。首、どうしたんですか」
沈曉は薬研の手を止めた。そういえば、襟を高くし直すのを、すっかり忘れていた。
少し考えてから、答えた。
「……虫です」
「虫」
「夏の虫は、質が悪いようで」
「先生も同じこと言ってました。二人とも、同じ虫に噛まれるんですね」
「そのようです」
阿禾は納得した顔で、走っていった。
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