臨江へ向かう道は、川に沿って下る。
棠梨の谷を遠く後ろに置き、二人は桑畑の続く土地へ入っていた。厚く茂った葉の陰には実が黒く熟れ、楊文は道端の枝へ手を伸ばしては摘まんでゆく。夕方には親指と人差し指が紫に染まり、爪の際まで色が入り込んでいた。
「あんたも食え」

差し出された実を、沈曉は受け取った。噛むと甘い汁が広がり、あとにかすかな酸味が残る。棠梨村で分けた月餅を思い出しながら種を舌でよけていると、楊文が自分の指を日に透かした。
「……周敬師兄の指も、こんな色だったな」
指を曲げ、また開いてから、楊文は先へ歩き出した。
その夜は、桑畑の外れで火を焚いた。
楊文が火打ち石を打つ傍らで、沈曉は拾ってきた枯れ枝を折り、手の届くところへ揃えた。火口に移した火を楊文が吹き育て、細い枝の下へ差し入れると、やがて炎が立ち上がる。川風が通るたび、桑の葉の匂いに青い煙が交じった。
「あの月、あと幾日で丸くなる」
梢の上に、半ばを過ぎた月が出ていた。まだ満ちきらぬ片側を、薄い闇が削っている。
「五日か、六日ほどでしょう」
「見ただけで分かるのか」
「おおよそは」
「俺は日を数えねえと分からん。……中秋は、まだ先だな」
「まだ春ですから」
「そうだった」
楊文は崩れかけた薪を戻し、火の向こうへ目をやった。
「師匠はな、月が出ると堂の階に座るんだ。一番上で胡座をかいて、いつまでも見てる。中秋でも拝まねえ」
「供え物は、なさらないのですか」
「それはする。月餅も買う。麓へ行くのは俺だ。値段の話が長いから、俺に行かせりゃ安く済むってな。……前に買い出しを任されてた人がいてな。その人に頼むと、帰ってこねえ」
「買い物に出たまま?」
「月が出てもだ。師匠が、また麓で飲んでるなって。それで俺が行かされるようになった。十かそこらの頃だ」
十の子が包みを抱えて山道を上がる。その道を、沈曉も知っている。膝に置いた薪を火へ差し入れると、楊文は続きを話した。
「一度な、俺がもう買って帰ったあとに、その人も買ってきたことがある。月が出てしばらくした頃、門のところに、紅い包みを山ほど抱えて立ってた」
「皆の分を?」
「全員分。しかも言い値でだ。師匠が、もうあるのになんで買った、と訊いたら、月が出てたから、って」
楊文の口元が緩んだ。
「それで通っちまう人だった。結局、一人二つずつだ。師匠は黙って食うし、周敬師兄は、同じものを二度買うなと怒るし。その師兄も、二つ食った」
「残さずに」
「ああ。食い終わってから、また小言の続きだ」
棠梨村の月餅にも、焼き印のないものがあった。楊文がそれを二つに割り、片方を寄越したときには、沈曉はまだ、この人々の食卓を知らなかった。
「周敬師兄が紙に字を書くんだ。太陰星君、って。それを供え物の後ろに立てる」
「経も、お読みになりますか」
「読まねえ。読める者が――いや、師匠は読めたはずだな。読まなかったんだ」
「表文は」
「何だ、それ」
「願いを書いた文です。読み上げてから、火に納めます」
「それもねえな。香と、果物と、月餅と茶。それでおしまいだ。師匠は階にいて、俺たちは境内で食う。碁の二人なんか、月餅を賭けて打つんだぞ。負けりゃ自分の分がなくなるのに」
「翌年も、打つのですか」
「打つ。去年お前に食われたって、言いながらな」
火が落ち着き、薪の割れ目に熾が透けている。楊文は細い枝でそこを寄せながら、ふと思い出したように言い添えた。
「朝いちばんに怒鳴る奴も、中秋の晩だけは静かだった。翌朝、二倍怒鳴るが」
「師匠も、その間ずっと月を」
「見てた。一度、なんで拝まねえんだって訊いたことがある。そしたら、拝むのは上に届ける用のある奴だ、うちはねえ、と。……あんたには分かるか」
沈曉は、火越しに月を見上げた。
「お会いしたことがありませんから」
「そうか。俺にも分からん」
楊文は枝を火に置いた。
「あんたのいた観は、拝んだのか」
「ええ。香を焚いて、聖号を唱えて。太陰の誥を誦し、表文を読み上げ、火に納めます。供物をお供えして、拝礼を」
言葉につれて、袖の中で指が揃う。香を捧げる手つきになりかけたのを、沈曉は膝へ伏せた。
「よく覚えてるな」
「毎年、同じことをしておりましたので」
「唱える方だったのか、あんたも」
「……昔のことです」
楊文はしばらく待ってから、手元の小枝を折り、火へ入れた。
「その表には、どんな願いを書くんだ」
「国が安らかであるように。病が去るように。良い縁や、子を願う方もいらっしゃいました」
「道士がか」
「観へ来る方々の願いです。それを預かって、上げるのです」
「みんなの分を、あんたらが書くのか」
「はい。紙に罫を引き、一つずつ。最後に、祭を執る者の名を添えます」
「そいつが取り次ぐってことか」
「そうです。誰が願い届けるのか、記すのです」
筆を置く前に自分の名を書く。その数文字のために空けておく紙の下方を、沈曉は今もありありと思い出せる。
「焼いたら、届いたかどうか分かるのか」
「灰が高く上がると、届いたと喜ぶ方はおりました」
「上がらねえ時は」
「火の前で、風を待ちました」
楊文が川の方へ顔を向けた。今は風もなく、煙は細く立っている。
「うちじゃ、そんな祭はしたことがねえ。上げるのに、何か要るのか」
「私のいた観では、祭を執る者の位や、表に記す名にも定めがありました。勝手には、できません」
「格と名、か。立派な格も、表に書くような名も、うちにはねえな」
沈曉は膝の上で指を解いた。
「師匠が上げられなかったかどうかは、私には分かりません」
「上げる用がねえ、としか言わなかったからな」
「はい」
「……月餅は二つ食ってたが」
楊文は笑い、残った薪をくべた。
月が桑の梢を離れ、葉の重なる畑へ光が広がっていた。昼は道を歩く音に紛れていた川音が、火の衰えるにつれてよく聞こえる。
「その頃は、小竹もまだいなかったな。あいつが来たのは去年の秋だから」
沈曉は頷いた。門前を掃いていたという幼い弟子の牌には、号の代わりに、白澗観弟子と書き添えてある。
「初めての中秋に、月餅を四つに割ってた。人に分けるのかと思ったら、四つとも自分で食う。周敬師兄が、なんのために割ったんだって訊いたら、こうすると多く見えるってな」
「……なるほど」
「師兄も返す言葉がなくてよ。師匠は階の上で、それを見てた」
楊文は指に残る桑の色を擦った。
「去年の中秋は、みんないた」
火の中で、薪が折れた。
「あんたは、観を出てからはどうしてた。中秋だ」
「旅の途中にいることが多かったですね」
「月は見ただろ」
「見ました」
「月餅は」
「頂くことがあれば」
「なけりゃ、食わずじまいか」
「……買いに行こうとは、思わなかったのです」
楊文は沈曉を見ていたが、やがて大きく欠伸をした。
「先に寝る。朝方、代わるから起こせ」
「分かりました」
荷を枕に横たわり、しばらく火を眺めていた背が、やがてゆっくり上下し始める。川音の合間に、鼾が交じった。
師匠の鼾は雷より正確に六つ刻みだったと、山門へ上る道で楊文は話した。この男の鼾は、五つほどで一度つかえる。そのたび沈曉は顔を上げ、また続くのを聞いて火へ目を戻した。
十五枚の牌は、沈曉が削り、楊文が字を入れた。
太く、一画も略さずに書かれた名のなかに、今夜は月餅を二つ食う師匠がいる。叱りながら自分の分を平らげる周敬がいて、四つに割った欠片を大事に食べる小竹がいる。字を見ても浮かばなかった手つきが、楊文の話すうちに見えていた。
火の向こうでは、片手を投げ出して眠っている。その指先の染みは、夜になっても落ちていない。
自分のいた観の中秋なら、幾年分でも思い出せる。香の煙で霞んだ灯も、罫の内側に並ぶ願いも、表を焼いたあとの灰も。
その晩、誰と何を食べたかは、すぐには出てこなかった。
沈曉は火のそばへ薪を寄せ、湿った一本を乾かしながら、桑畑の上の月を仰いだ。満ちるまで、まだ幾夜かある。
鼾が途切れ、また始まる。枝先へ火が移るまで待って、沈曉は薪を静かに押し込んだ。
あとがき
中秋節なので、ちょっと中節っぽい話を。第一部で差し込めそうなところが(のちに中節の話がありますが)臨江行くまでの道のりだったので、春の満月を見ながら秋を思う話になりました。桑を育ててる街道を歩いて、人の畑の桑の実を少し拝借しながら歩いてるんでしょうね。だいぶ先まで話を考えているので、臨江まででどこまで情報を開示してたとか、距離感がどれくらいだったかとか、思い出しながら書いていました。
令節ごとにそれにちなんだ小話を書きたいと思っています。来年の中秋は小さな子供達がこの二人の中に増えてるかもしれないし、あるいは他の誰かたちが月を見てるかもしれません。

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