出塞
第2話 水攻め
裴崇義はその朝、夜明け前に目を覚ました。
目を覚ましたというより、ほとんど眠っていなかった。
初めて任された独立の一隊。初めて自分の名で挙げる功。名門・裴家の名を負ってこの戦に出た彼にとって、今日という日はその両方が懸かった日だった。
従者に手伝わせず自分で甲冑を着け、締め紐の一本ずつを確かめる。幼少から叩き込まれた手順は身体が覚えている。覚えている手順をなぞっているあいだだけ、胸の張りがいくらか和らいだ。
天幕を出ると、露に濡れた軍旗が白み始めた空の下で重たげに垂れていた。三千の兵はすでに粥を終え、渡渉の支度にかかっている。よい兵たちだった。裴家の郎党を核に、統一戦を渡り歩いた古兵を混ぜてある。若い将に付けるにしては手厚い編成で、裴崇義はそこに総大将の期待を見た。
半分は正しく、半分は若さゆえの読み違いだった。期待されていたのは事実だが、仮に失っても本隊の背骨には響かぬ一隊——という計算もまた、その編成には織り込まれていたのだ。
斥候の報せはこうだった。淮南南西、両沢のあいだの隘路。守りは薄く、田は乾き、渡渉は容易。この一帯を抜ければ淮南の腹に刃を届かせられる。総大将は北から本隊を進める。自分は南のこの隘路から敵の脇腹を突く。地図の上では、それはまっすぐで、疑いようのない道筋に見えた。
「将軍。田が乾きすぎているように思います」
傍らで馬を寄せてきたのは彼より二回りも年上の副官だった。統一戦を古くから戦ってきた叩き上げの男である。裴家の郎党ではない。軍から付けられた目付役も兼ねているのだろうと裴崇義は思っており、この男の慎重さを時に煩わしく感じていた。
「乾いていて何が悪い。渡りやすくてありがたい」
「この時季の淮南でこれほど乾いた田は……妙です。水の国が水を捨てている」
「捨てているのではない。引く手が足りぬのだろう。国が傾けば田も乾く」裴崇義は前方を見据えたまま言った。理は通っていると自分では思った。名門に生まれ幼少より兵法を叩き込まれた彼にとって、乾いた田は「守りが崩れた徴」という教本通りの解釈にきれいに収まった。
「念のため、物見を上流へ」
「よい」と裴崇義は遮った。
「物見を待てば半日遅れる。本隊は今日、北で仕掛ける。脇腹を突くのが明日では意味がない」
それに、と彼は胸の内で付け加えた。ここで半日を惜しんで慎重を通せば、また言われる。裴の若殿は石橋を叩いて渡らぬ、と。名門の子が用心深いのは美徳ではない。臆病と呼ばれる。功を挙げて初めて、用心深さは美徳に格上げされる。だからまず功だ。順番が逆であることに、この時の彼は気づいていなかった。用心深さが功を運んでくるのであって、功が用心深さを許してくれるのではない。
隊列の中ほどから、若い声が上がった。裴家の郎党の末の子で、これが初陣だった。
「若……いえ、将軍。淮南の兵は弱いというのは、まことですか」
「弱い兵はいない」裴崇義は振り向かずに答えた。父の受け売りだった。
「弱い使われ方をした兵がいるだけだ」
郎党たちが小さく笑い、隊列の空気がほどけた。よい朝だった。風は南から、田は乾き、道はまっすぐで。
副官はそれ以上言わず、ただ隊列の間隔を少し詰めさせ、荷駄を後方へ下げさせた。老兵が長生きする理由のような、小さな手当てだった。
*
同じ乾いた田を、白明遠はまったく違う言葉で読んでいた。
彼は堤の上にいた。淮南の水路の要——三つの用水を束ねるいちばん上流の堰である。足元には堰を切るための杭と綱がすでに配されている。眼下の隘路は彼が十日をかけて「乾かせた」土地だった。上流でひそかに水を溜め、下流の田から水を抜く。渇いて見える田は罠の絵図だ。敵は乾いた土地を「守りの崩れ」と読む。読むようにこちらが仕向けた。詭道である。兵は詭道なり——彼はその言葉を道徳の話としてではなく、単なる技術の話として理解していた。
支度は策よりも人手だった。まず隘路沿いの三つの村から人を退かせた。水がどこまで上がるか、絵図の上では読めても水は絵図を読まない。次に堰の受け持ちを決めた。杭を打つ手、綱を引く手、合図を継ぐ手。農夫たちは堰の扱いなら兵より正確だった。彼らは毎年この水と暮らしている。
「田が駄目になります」と、堰を預かる古老が最初に言ったのはそれだった。敵が来ることでも、戦になることでもなく、田のことだった。
「なります」と白明遠は認めた。
「今年の稲は流れる。ですが田は残る。水が引けば土は肥えて、来年はかえってよく実るでしょう。……人は違う。流れたら、来年は生えてこない。だからあなたたちを退かせました」
古老はしばらく黙って、それから杭の受け持ちを配りに行った。承知した、とは言わなかった。この国の年寄りは、承知できないことを承知する時、何も言わない。
前の晩、白明遠は一人で堤の上を端から端まで歩き、月明かりの下で杭の位置と綱の張りを確かめ、それが済むと空を見上げた。星は動くべき場所にあった。天は明日も晴れる。水は溜まりきっている。整えられるものはすべて整えた。あとは敵が絵図の通りに歩いてくれるかどうかだが、こればかりは敵の側の仕事だった。
策とは半分が自分の仕事で、残り半分は相手にやってもらう仕事だ。だからこそ相手を知らねばならない。彼を知り己を知れば百戦殆うからず——己の方は、知っているつもりでいた。
夜明けから二刻。隘路の彼方に土煙が立った。
「来ますか」と古老が訊いた。
「来ます。もう来ています」
白明遠は彼方を指した。土煙は細く、まっすぐに立ってる。
「見てください。埃の立ち方が几帳面だ。隊列を崩さず速さも一定で進んでいる。あれは統率の取れた指揮です。慌てていない。つまり罠を疑っていない。——几帳面な将ほど几帳面な罠にかかる。教本通りに進む者は、教本通りに溺れる」
彼は笑っていた。悪びれもせず、心底おもしろそうに。国の存亡がかかったこの局面で彼が感じていたのは悲壮ではなく、国と国とを押し流していく大きな流れに、指先が届いているというあの充足だった。この一手が通れば、自分は中原という広い水面にたしかに一石を投じたことになる。波紋がどこまで広がるかは分からなくても、投じたのは自分だ。ちっぽけな人間ではないと思える。ほんの束の間だけ。
土煙が乾いた田の中ほどに達した。隊列は白明遠が引いておいた見えない線を越えた。
「切ってください」
古老が手を挙げた。堤の各所で杭を打つ音が同時に響いた。綱が鳴り、堰が内側から裂けた。
*
裴崇義が最初に感じたのは音ではなく、馬の様子だった。
脚元の馬がいっせいに耳を伏せ、脚を止めた。次に地が鳴った。遠雷に似た、しかし雷ではない、地の底を這うような重い響き。副官が何かを叫んだが、その声は続いて来たものにかき消された。
水だった。
乾いた田の彼方——さっきまで守りの崩れだと思っていたその方角から、褐色の壁が横倒しの山のように押し寄せてきた。理屈で理解するより先に、身体がこれは死だと知った。裴崇義は反射的に手綱を引き、高みへ、と叫んだ。だが隘路に高みはなかった。高みがないようにこの土地は選ばれていた。
そう気づいた時には、水はもう馬の脚を、腰を、胸を奪っていた。
あとのことは断片しか残らなかった。
濁流に巻かれて天と地が入れ替わり、口に泥が入り、誰かの手が自分の袍を掴み、その手がすぐに離れて二度と掴み返してこなかったこと。兵の名を呼んだが水を飲んだだけだったこと。倒木にしがみつき、それがどこかへ流れ着くまでただしがみついていたこと。名門の跡取りとして幼少より決して失ってはならぬと教えられてきたもの——面目、指揮、兵の命——その全部が褐色の水に浚われていった。
流れ着いた岸で彼は泥を吐いた。何度も吐いた。吐きながら、もう立ち上がっている。声の出る限り兵の名を呼び、動く者を岸へ引き上げ、動かない者も引き上げた。鎧が水を吸って一歩ごとに重く、それでも脱がない。将の姿が見えるかどうかで、生き残った兵の足の動きが違う。
夜になっても松明を絶やさせなかった。水は夜半にゆっくりと引き始め、引いた泥の上に、朝、置き忘れたような形で兵たちが残された。拾い上げた者を並べ、筵を掛け、数を数えた。数えるという仕事があることが、この夜はせめてもの救いだった。手が動いているあいだは、頭が止まっていられる。
集まってきた生き残りは千に足りない。荷駄を後方に下げてあったおかげで、糧だけは残っていた。あの小さな手当てをした男の姿は、いくら探しても見つからなかった。袍を掴んで離れていったあの手の主が誰だったのか、裴崇義は確かめる術を持たない。
三日目に本隊から伝令が来た。淮南を囲む。貴隊は後方の守りに回れ——事務的な短い文面で、叱責の言葉は一つもなかった。一つもないことが、どんな叱責よりも重かった。責める価値もないと言われたに等しい。裴崇義は伝令を返し、残った兵に飯を炊かせ、自分は最後に食った。泥に汚れた軍旗は洗わせたが、破れはそのままに掲げ直させた。失ったものを隠さないと決めた。もとより隠しようもない。
父ならこういう時どうするだろうと考え、考えるのをやめた。父はそもそも、こういう時を作らない。
生きているという実感より先に、辱められたという感覚が腹の底から込み上げた。誰にやられたのか。どこにいる、その顔も知らぬ相手は。
*
堤の上から白明遠はそれを静かに見ていた。
水が隘路を満たし、土煙が消え、あとにはただ広い水面だけが残った。近くでは堰を預かった古老たちが声を上げて喜んでいる。会心の一手だった。局地の戦としてはこれ以上ないほどの。
だが白明遠は喜ばなかった。喜びが湧かなかったのではない。湧いた喜びの上にすぐ別の計算が乗ってきたからだ。
同じ水でも、これが大河の流れであったならまだしも——。大河は尽きない。上流から絶えず注ぎ、汲んでも減らず、堰かれてもいずれ乗り越える。ああいう水を味方にした者が、天下を取る。だが今日の水は違う。溜めて、放った水だ。放てばそれきりで、二度は落ちない。淮南の持っていた水は大河ではなく、ため池だった。ため池の水で獲れるのは、せいぜい一隊。この戦の全体から見れば、指の先ほどの傷にすぎない。相手はその傷をいくらでも埋め戻せる。こちらはこの堰を二度は切れない。詭道は種明かしをされれば、ただの水に戻る。
勝ちには二通りある、と白明遠は思う。次に繋がる勝ちと、繋がらない勝ちだ。今日のは後者だった。それが分かっていて切った。切らなければ淮南は講和の席にすら着けない。一度は痛いと思わせなければ、値の付かない国の言い分など誰も聞かない。つまり今日の千人は、まだ開かれてもいない講和の席の、手付けだった。その席が結局開かれなかったらどうなるか——考えは自然とそこへ進み、彼は珍しく、進んだ先で考えるのをやめた。
彼は遠くの北の空を見た。
水面に映る空は近く、静かで、勝者のものだった。だがその水面の向こう、地平の際に霞む北の山なみは、遠く、動かず、まだこちらを見下ろしていた。近くの水に勝ち、遠くの山に負ける。今日の勝利の意味は、たぶんそれに尽きた。
「見事な戦でした」と古老が声をかけてきた。
「ええ、今日はね」
「……あとどれほど、もちますか」
訊いたのは古老の方で、田を惜しんだあの声と同じ、静かな声だった。白明遠は少し驚いて、それから正直に答えることにした。この人たちには、その資格がある。
「一月はもちません。刈り入れの前に、決まるでしょう」
「……そのあと、この水路は誰が守ってくれますかな」
「新しい旗です。旗が誰のものであれ、米は要る。水路を守らない支配者はいません。……あなたたちの仕事は、なくなりませんよ」
古老はうなずいた。泣きも怒りもしなかった。ただ水面を眺めて、来年の田の話を一つして、堰の始末に戻っていく。白明遠はその背中を見送りながら、自分の策が守ったものと流したものを、帳尻の合わない帳簿のように胸の内で繰った。
彼は水面のどこかで生き延びたであろう、顔を知らぬ将のことをふと思った。あの几帳面な埃を立てていた男は生きているだろうか。生きていたらこの屈辱をどう始末するだろう。——それをまだ、彼は自分に関わりのある問いだとは思っていなかった。
天はもう、二人の道を同じ岸へ寄せ始めていた。