天理の石 — 第9話
第九話 還る
西日が谷の斜面を這い上がり、棠梨の白い花に最後の赤みを残すころ、小屋の前に二十人ほどの男が集まった。
手に手に縄や棒を携え、先頭には里正がいる。斜めに射す光が頬の窪みに影を刻み、三日前からさらに十も年を取ったような顔の、その口元だけが固く結ばれている。
「刻限だ」
老人は戸口を見据えた。
「約束は三日だ。今日の日暮れまでだった」
土間では楊文が足を開き、背にした格子を庇うように立っている。その向こうで、沈曉は阿石の胸に左の掌を置き、三つの灯りに手元を照らさせていた。袖の端に溜まった汗が、ときおり板へ滴る。
「まだ日は落ちてない」
「落ちる。四半刻もせんうちにな」
里正の後ろで、男の一人が広場を振り返る。昼のうちに組んだ祭壇には花と紅布が掛かり、脇には祝いの酒甕が据えられていた。その甕を二人の男が担ぎ上げ、小屋へ向かって歩いてくる。
何を混ぜた酒か、この場に知らぬ者はいない。
「支度は済んどる。今夜を逃せば、次の新月まで一月だ」
里正はそこで息を継ぎ、顎を引いた。
「儂らは、一月も待てん。……もう、待てんのだ」
ふた月、夜ごとの声に戸を閉ざしてきた村である。この三日は声がいよいよ高まり、昨夜は谷の外れまで届いて、泣く子を抱いた女も、朝になれば畑へ出る男も、まんじりとせず夜を明かした。道士の約束した三日を待ち、その三日を待ち果てた顔が、いま戸口に並んでいる。
「退いてくれ」
里正の声は、もう震えを抑えられずにいた。
「あんたらは、よくしてくれた。それは分かっとる。だが、これは村のことだ」
楊文は右手を鞘に添えたまま、敷居を越えてくる男を受け止めた。
一人が腕を掴み、もう一人が肩に手をかけると、土間を踏む足が半歩ずれ、踵が格子の下に当たる。そこから先へは動かず、押し寄せる体の重みを、開いた両足で支えている。
拳を振り上げる者はいなかった。荒い息と汗の匂いが狭い土間に籠もり、背後の板敷きまで軋ませる一方、沈曉の指に挟まれた符だけは、別の風を受けるように細かく震えていた。
「頼む」
押されながら、楊文が言う。
「頼む。もう少しだ」
「もう少し、はもう聞いた」
「見てくれ、後ろを。今、あの人が手を離したら、どうなると思う」
肩を押していた手が緩み、男たちの目が格子の内へ向いた。
沈曉の額を伝う汗は、眉を越え、頬を下って襟へ入る。左手で阿石の胸を押さえ、右手では印を結んでいるために、拭うこともできない。指の間では白い紙が小刻みに波打ち、朱の一筆が繊維を伝って滲んでゆく。
三日、眠らずに辿った二十七の結び目は、残り四つ。その四つが、胸のいちばん深いところに絡んでいる。
「今、手を離したら、この人は死ぬ」
楊文は、男たちの顔を見渡した。
「あんたらの薬でじゃない。糸が切れて、死ぬ」
腕を掴んでいた指がほどけた。
男たちは土間に居残り、格子の内を覗いては戸口の空へ目をやる。背を照らしていた西日が薄れ、足元に置かれた縄の輪が、次第に土の色へ紛れてゆく。
その人垣を割って、杏児が駆け込んできた。
髪を結う間もなかったのだろう、頬にかかった乱れ髪をそのままに、薄衣の裾を翻して格子へ取りつく。昼から家に留め置かれていた娘の素足には土がつき、小屋まで走った息が肩に残っている。
「阿石さん」
沈曉の背の向こうに、阿石の足が見えている。呼ばれた男は、掌の下で浅い息を続けていた。
追いついた父親が娘の腕を取る。
「帰れ」
「厭です」
「終わったんだ。もう決まった」
「厭です」
父親が二度、三度と腕を引くあいだ、杏児は格子を握り締め、木にかかった指の節を白くした。四度目に父の手から力が抜けると、その場に身を寄せ、冷たい木へ額を押し当てる。
「……先生」
名を呼ぶのと同じ低さで、娘は沈曉に問いかけた。
「間に合いますか」
左の掌の下で、糸が張り詰めている。沈曉は右の指先をわずかに送り、緩みかけた一筋を追った。唇を開く余裕は、いまはない。
「間に合う」
楊文の声が答えた。
二十七のうち四つ、と告げたときにも、この男は指を折らずに聞いていた。その声へ顔を向けた杏児は、一度だけ頷くと、格子の傍らの擦り切れた場所に膝を揃える。
目元は乾いている。両手を膝に重ね、内側の男を見つめる娘の髪から、夕映えが消えた。
日が落ちた。
戸口の先で谷の稜線が空に溶け、星明かりを含む白い花だけが、闇の深さを辛うじて分けている。新月の夜に、祭壇の紅布はもう色を持たず、格子の影ばかりが三つの火に揺れていた。
阿石の息が遠のいてゆく。
胸の上下が小さくなり、次の息までの間が延びて、やがて掌の下が静まった。夜になれば触れられないと告げた体に、沈曉はなお手を置き、右の指に残る糸の張りを探り続ける。
その胸が、不意に起き上がった。
沈曉は左腕に力を通し、重い上体を板へ押し戻す。掌一枚に縫い留められた体が激しく跳ね、板敷きから樫の格子へ震えが走ると、土間の男たちは押し合うように退き、誰かが膝をついた。
声が上がる。息継ぎを持たぬまま、どこまでも長く続くあの声が、今夜は腕の届くところから立ち上り、梁の下に満ちてゆく。
里正の喉から呻きが漏れ、酒甕の傍らで杓が落ちた。土を打った小さな音はすぐに掻き消され、拾う手も伸びてこない。
阿石の首が、灯りへ向かって捩れ始めていた。
三晩、光を避けていた顔が、いまは火の向こうにいる沈曉を捉えようとする。左の掌を深く据え直したとき、袖の縫い目が裂け、張り詰めていた布が肘を滑った。
「先生」
格子越しの声を聞きながら、沈曉は右手の印を変えた。
指をほどき、一節ずつ押さえ直すその間で、符が音を立てて裂ける。白い紙は炭のように黒く縮み、掌へ収まるほどになると、灰さえ残さず消えていた。次の一枚を挟み、同じ糸の先へ指を送る。
二枚目は四つ数える間に黒ずみ、三枚目は二つと保たず縮れた。筵にあるのは、あと八枚。沈曉はその端を指で押さえ、一枚を抜き取る。
高い声の途中に、短い息が混じり始めている。
息を使わず鳴り続けていた喉が、ときおり空気を引き込み、そのたびに声が裂ける。阿石の指は板敷きを掻きむしり、割れた爪の先を木目に引っかけながら、同じところを探っていた。
沈曉の額から落ちた汗が、鳩尾の痣に弾ける。
その下で、痣が動いた。
文字とも紋様ともつかぬ形が皮膚の内側をぬるりと滑り、気脈を伝って掌の縁へ逃れかける。背後で楊文が息を呑む気配がした。白澗観の骸では、一度として動かなかった痣である。
沈曉は逃げる先に指を添え、胸の奥で緩んだ箇所を確かめた。
「――あと半刻」
唇から出た声は、思いのほか静かだった。
「半刻、待ってください」
土間の男たちにも、格子に寄り添う娘にも届くように、顔を上げずに告げる。里正は何か言いかけ、口を閉じると、戸口の空を仰いだ。やがて灯りの中の掌へ目を戻し、半刻、と唇だけを動かす。
退けと言う者は、もういなかった。
楊文は格子の前に両腕を広げている。板の震えがその背まで伝わり、腰の剣がかすかに鳴る。親指が一度、鞘の口を押し上げかけて、ゆっくり元へ戻した。
符は四枚に減っていた。
沈曉は右手の指を順に送り、絡みの奥へ入ってゆく。闇の中で琴の絃を探るように、触れ、押さえ、わずかに離す。その細い動きに従って胸の痣が寄り集まり、阿石の喉を抜ける息が、少しずつ長くなる。
格子の外には、待つ者たちの顔がある。誰もが立ったまま、三つの灯りの下の手を見ていた。
半刻は、長かった。
杏児の膝に重ねた手は動かず、土間の男たちは、縄を下ろしたことさえ忘れたように格子を見つめている。楊文もいつしか両腕を下ろし、その腕が体の脇へ垂れたあとも、両足だけは同じ場所を踏んでいた。
筵に残る符が二枚になり、紙を取る沈曉の指先が、初めて筵の目を擦った。声はなお高く続くものの、合間に混じる息の荒さは、人の喉が立てる音に近づいている。
最後の一枚を指に挟むと、格子の向こうで楊文が顔を背け、すぐにこちらへ向き直った。
沈曉は印を結び終え、その右手を左の掌の下へ静かに滑らせる。鳩尾の痣を覆って両手が重なり、指の間に残った紙が、細く黒く縮んでゆく。
目を閉じ、胸の奥にある最後の結び目を捉えた。
両手を引く。
抜いたものの形は、灯りの下にも現れなかった。掌に引かれた何かが、閉じた指の内で音もなく消えた。
声が止まった。
梁の下に、三つの炎がまっすぐに立っている。
耳の奥にはまだあの声が残り、誰も口を開かぬ小屋の静けさが、かえって遠く感じられた。阿石の体は板敷きに落ちたまま、胸を上下させず横たわっている。
土間で誰かが、あっ、と漏らす。杏児が格子を掴み直したのを視野の端に留め、沈曉は掌の付け根で阿石の胸を強く打った。
一度、体が跳ねた。
開いた口から大きく空気を吸い込み、阿石は喘ぐように息を吐く。その息を追ってまた胸が上がり、沈曉の掌を押し返した。格子に手をついた楊文の指が、木へ食い込んでいる。
白澗観では、楔を解いた骸に死が追いついた。堰き止められていた日数が骨と肉を蝕み、抱えた体を、土へ還るものの軽さに変えていった。
同じ掌の下へ、いまは温みが戻ってくる。
阿石はふた月のあいだ、この体の内に生きていた。夜ごと息を奪われ、その息を奪うものが解けたあとに、ようやく自分の胸で夜の空気を吸っている。
沈曉は手をずらし、荒い呼吸が落ち着くのを待った。
それからも、しばらくは誰一人、小屋を離れようとしなかった。
阿石が眠りに沈むと、杏児は格子に額を寄せたまま、その寝息へ耳を澄ませる。男たちはやがて一人ずつ腰を下ろし、脇に置いた棒を足元へ寄せ、入口から吹き込む夜気の中で、互いに顔を見合わせていた。
沈曉は胸と手首を確かめながら、枕元に留まった。灯りの油が減ると楊文が足し、芯を直した火が明るくなるたび、格子の影は眠る男の頬を横切って元へ戻る。そのあいだも、息は絶えず続いている。
高窓の四角が灰色を帯びるまで、そうして過ごした。
谷のどこかで一番鶏が鳴き、少し遅れて別の家からも声が上がる。床の埃に薄い光が差し、板の傷を浮かべながら、阿石の顔へ届いてゆく。
その瞼が動いた。
開いた目はしばらく梁に留まり、木の節や煤けた隅を辿ったのち、ゆっくりと格子の方へ向いた。杏児は昨夜と同じ場所に座り、髪を直すことも忘れて、その目がこちらを見定めるのを待っている。
阿石の唇が動く。初めは息だけが漏れ、二度目には掠れた音が混じり、三度目に、娘の名になった。
「……杏児」
杏児はしばらく、口を開いたまま彼を見ていた。やがて両手で唇を覆い、指の隙間から細く息を洩らすと、肩の震えを支えきれず、格子へ額を押し当てた。
「はい」
木に触れた額の下を、涙が伝ってゆく。
「はい。……ここにいます」
昼の阿石は、ここにいる娘へ何度も帰れと言っていた。夜になればその口から人の言葉が失われ、杏児は返らぬ声へ語りかけて夜を明かした。
今朝、彼は自分から名を呼んだ。
格子を握る娘の指を見つめながら、もう一度、同じ名を呼ぼうと唇を動かしている。
知らせは小屋から母屋へ伝わり、戸口を出た者の声を隣家の者が聞きつけるうち、朝の道いっぱいに人が集まってきた。
背伸びをして格子を覗く者の脇を、粥の椀を抱えた母親が通る。阿石は助けられて身を起こし、母親の差し出す匙から少しずつ粥を啜っている。飲み下す喉の動きまで見届けたところで、入口の男が声を上げて泣きだした。
昨夜、杓を取り落とした男だった。
済まねえ、済まねえと繰り返し、膝を折って顔を伏せる。その背に手を置いた者も泣き、後ろで見ていた女が袖を目に当て、事情の分からぬ子供までが母親の裾にすがって泣いた。
里正は敷居に腰を下ろし、両手で顔を覆っていた。
傍らを幾人も通るあいだ、老人の肘は膝に据わったままで、誰もその手を取ろうとはしなかった。ふた月、村の訴えを聞き、阿石を送ると決め、縄を持たせた男たちをここへ連れてきた人である。脇を通る足だけが、敷居のところで少し遠慮がちになる。
やがて里正は両手を下ろし、膝を押して立ち上がった。
「祭壇を、解くな」
縄を拾いかけていた男たちが顔を上げる。
「解かんでいい。……あれは、そのまま使う」
戸口の向こうでは、紅布が朝の風に膨らみ、日を受けた花が白く光っている。昨夜の酒は捨て、甕を洗い、新しい酒を用意することになった。何人かが広場へ駆けてゆき、残った者が祝言の日を相談し始めると、泣き腫らした声に、早くも笑いが混じった。
二日後と決まるころには、小屋の前で互いの声を聞き取るのも難しくなっていた。
沈曉は、裏手の壁際に座っていた。
阿石を母親に任せ、人が押し寄せる前に外へ出たのだった。屋根に遮られてここにはまだ日が差さず、背を預けた壁から、夜の冷たさが薄い衣を通ってくる。
三日の疲れが、腰を下ろした途端に重くなった。指には最後の印の癖が残り、膝の上で開こうとすると、関節の一つひとつが鈍く痛む。
沈曉は両手を返し、掌を見下ろした。
二十七の結び目を辿れたのは、自分がその結び方を知っていたからだ。かつて紙に記し、人に教え、指を取って直させた順を、この三日は末から解いていった。紙は焼いたが、指には、その先の動きまで残っている。
小屋の表で、男が大きく鼻を啜った。
その音を聞きながら、沈曉は右の親指を掌に折り込む。四指が自然に曲がり、何もないところに、剣の柄を握るほどの隙間ができた。
あの夜も、明け方には手が強張っていた。
符を使い、印を組み、最後には剣を握った。逃げる者を追い、抗う者と斬り結んで、終わるころには腕を上げるだけで筋が震えた。その疲れの深さを、体は今も覚えている。
皆、知った顔をしていた。
名も、声も、こちらへ向き直った順も、目を閉じればまだ辿れる。途中で数えるのをやめるたび、その先にいた者の顔が浮かんで、閉じた瞼の裏からこちらを見ていた。
数え切れば、本当のことになる。
そんなふうに指を止める自分を、沈曉は十年、同じところに見出している。あの人たちは、もうあの夜に死んだ。この手に殺され、いつもと変わらぬ彼の顔を、最期に見た。
表から笑い声が上がり、誰かが阿石の名を呼んだ。
沈曉は、折り込んでいた指を伸ばした。
指の腹には符の紙で切った細い傷が重なり、古いものは乾き、新しいものは開くと薄く血が滲む。その手で剣を握り、同じ手を一人の胸に置いて、今度は朝まで息を見守った。
あの夜にも、できたのだろうか。
剣を置き、別の道を探ることが。
あのとき下した判断には理由があり、今もそれを覆す言葉は見つからない。十年、そこへ戻るたび、沈曉は同じ理由を確かめ、同じ手で荷を背負い直してきた。
ところが今は、掌に阿石の胸の温みが残っている。
三日かけ、二十七の結び目を解いた先で、娘の名を呼ぶ声を聞いた。その声が、あの夜から動かぬ顔の一つひとつに触れてゆく。
――ならば、あの人たちには、何が足りなかったのか。
時間か、自分の腕か。あの場で待つことができたのか。それを確かめる前に剣を取った手が、いま膝の上にある。
沈曉は掌を伏せ、衣の皺へ指先を押し当てた。
問いに答えようとすると、あの夜に至るまでをすべて口にしなければならなくなる。壁の向こうには阿石がおり、粥を持つ母親と、ようやく泣けた娘がいる。沈曉は閉じた口をそのままに、膝に伏せた指の強張りが解けるのを待った。
小屋の表で、楊文が彼の名を呼んでいる。
人の声に遮られて一度途切れ、少し近づいたところから、また呼ぶ。裏手にいることをまだ知らず、人垣のあいだを探しているのだろう。昨夜、格子を背にして間に合うと言った声が、朝の騒ぎを抜けてここまで届く。
呼ばれている名は、彼の名ではなかった。
沈曉は目を閉じ、壁に手をついて立ち上がった。
屋根を越えた朝日が足元へ差し込み、衣についた埃を照らす。彼は強張った指でそれを払い、裂けた袖を撫でつけて襟を直すと、声のする方へ回っていった。
壁の角を曲がるところで、もう一度、名を呼ばれた。