天理の石 — 第12話

第十二話 円

2026.09.16 8,741字 ・ 約15分
表示 — 文字 —

 朝、鍋の粥は焦げていた。
沈曉が目を開けると、楊文は火の傍で鍋底を掻いている。匙が底に引っかかるたび、柄を握り直して少しずつ剥がし、こちらに気づくと、済まん、焦がした、と言った。
差し出された椀には、焦げの欠片が混じっていた。二人はそれを食べ、鍋を洗い、昨夜から残った薪の火を消して林を出た。
麦の穂が朝日に銀色を返し、濡れた靴先も街道へ出ると乾き始める。四半刻ほど歩いたところで、楊文が空を見上げ、今日は暑くなるな、と言った。
「はい」
「餅、傷むかな」
「なら今日のうちにでも」
「だな」
包みを掛け直す楊文の袖が、沈曉の腕に触れた。彼は少し脇へ寄り、並んで歩ける幅を空けた。

 次の宿場で茶を頼むと、楊文は椀の来る前に帳面を出した。
これまでは都から来た若い道士の行方を尋ね、その答えを地名の下に書きつけていた。今朝は新しい頁を開き、湯を運んできた親父へ顔を上げる。
「このあたりで、妙な話はないか。何年でもいい。人が一度に大勢死んだとか、死んだ者が歩いたとか」
沈曉は差し出された茶を受け取った。椀の縁から湯気が昇り、向かいの男の口元をかすめる。
「そりゃあ、あるさ」
親父は湯を足したあとも立ち去らず、空いた卓の端に片手をついた。

 最初に出たのは、|双柳鎮《ソウリュウチン》の武館の話だった。
「あんたら、剣を提げとるから言うがね。西へ二日、双柳鎮に武館があったろう」
「聞いたことがある。柳の下の武館だな」
「そう、それだ。門人が九人。師範代が、確か鎮の顔役の甥っ子でな。……一年半前の秋だ。ある朝、豆腐屋が桶を届けに行ったら、誰も出てこん」
親父は盆を引き寄せ、伏せてあった碗を一つずつ起こした。
「中へ入ったら、道場にな。こうだ」
九つの碗が、輪を作った。
「九人が、こう座っとった。膝を揃えて、内を向いてな。まるで、稽古の前だ。……全員、死んどった」
「斬られてか」
「そこよ。刀傷が一つもねえ」
最後の碗を置いた指が、その縁を叩く。
「鎮の役人が調べた。毒でもねえ。首を絞められた跡もねえ。表の戸には内側から|閂《かんぬき》がかかっとって、裏木戸は開いとった。銭も、剣も、何ひとつ盗られとらん」
「……それで、道場破りか」
「他に何て言うんだ、あんた」
親父は肩をすくめ、盆の上の碗を一つ取り上げた。
「江湖には点穴の達人がおるって言うじゃねえか。触れずに人を殺すのが。九人まとめてやれる腕の持ち主が、なんで名乗り出ねえのかは、誰も説明できんがね」
沈曉は茶を口に含んだ。碗を一つ抜かれた輪の隙間から、盆に残った濡れ跡が見える。
「豆腐屋のじいさんは、その日から寝込んだ。……いや、寝込んだのは、屍のせいじゃねえ」
親父は隣の卓へ目をやり、声を落とした。
「じいさんが言うにはな。前の晩、道場の前を通ったら、灯りが点いとって、中で足音がしとったんだと。稽古してるんだと思って、通り過ぎた。……九人が座って死んどったのは、その夜のうちの話らしいんだ」
楊文の椀が、卓に触れた。
「足音が、していた」
「じいさんの寝言だろう。歳が歳だ」
奥から客に呼ばれると、親父は盆を抱えてそちらへ向かった。碗がぶつかり合い、小さく鳴った。

 その晩、楊文は宿の灯りを机に寄せ、帳面の続きを書いた。
「双柳鎮の話は、俺も聞いたことがある」
「はい」
「一年半前だ。江湖じゃ、しばらく騒がれた。あの頃は、俺も、たいした話だと思ってた」
双柳鎮、一年半前、門人九人。刀傷なし、と書いた筆が、一行分空けたところで止まる。
「あんたは、どう思う」
「座ったまま、というのが」
沈曉は灯りに向けた帳面へ目を落とした。
「揃って座っていたのなら、動く必要のない場所へ、置かれたのかもしれません」
「置かれた」
「解けた後で、崩れるまでに時が要ります。歩き回った末に、道場の真ん中に戻って座ったのかもしれない。……推測です」
楊文は穂先を紙から離し、そのまま沈曉を見た。
「上手いな」
低く言って、筆を机に置く。
「一年半前は、座らせるところまでやってる」
沈曉は灯芯を少し戻した。明かりが低くなり、紙の上へ落ちた筆の影が濃くなった。

 翌日、街道筋で乾した魚を商う女が、塩汲みの集落の話をした。
二年ほど前の夏、南の海辺で十数人が一度に死んだという。女の傍らには魚と塩の袋が並び、話すあいだも天秤が小さく揺れていた。
「疫病だってさ。夏場だからね」
片方の皿へ塩を足し、釣り合うところで手を止める。
「あたしの亭主が、あの塩を仕入れとったのさ。あそこの塩は、白くてね。いい塩だった。……仕入れ先が、ひと夏で消えちまった」
「生き残りは」
「一人だけ。塩汲みの若い衆で、その日は舟で沖に出とったんだと」
女は|錘《おもり》を替え、次の紙を広げた。
「戻ってきたら、村がおかしい。みんな、浜に出て、歩いとったって。呼んでも返事をしねえ。近づいたら、じいさんが……あすこの村の、いちばん年寄りのじいさんがさ。若い衆の顔を見て、こう、掴みかかってきたんだと」
「掴みかかって」
「爪が、腕に食い込んだって。血が出るほど。だけど、じいさんの顔は、寝てるみたいだったって言うんだよ。目を開けたまま、寝てるみたいだったって。……変な言い方だろ」
天秤の皿が揺れ、やがて静まった。
「若い衆は、舟に逃げて、沖で二晩、待った。三日目に戻ったら、村の連中は、みんな倒れとった。腐っとったってさ。夏場だからね」
女は塩を包み、紙の角を指で折り込んだ。
「役人が来て、疫病だってことになった。数だけ書いて、名は一つも書かずに帰ったってさ。若い衆は、村じゅうが歩いとったって言い張った。言い張るもんだから、頭がやられちまったってことになってさ。今はどこかの寺で世話になっとるそうだよ。可哀想にね」
出来上がった包みを脇へ寄せ、女はまた袋に手を入れた。
「あたしゃ、あの塩が惜しいよ。今どき、あんな白いのはねえ」
楊文は紙に日付を書きつけ、集落の名を尋ね直した。女は首を傾げ、亭主なら知っているかもしれないと言った。

 夜、帳面には南方の塩の集落、と記された。
二年前、夏、十数人、生き残り一人。その下に、みんな歩いていた、と書き、楊文は聞いたままの言葉を一つずつ足してゆく。爪が食い込む。目を開けたまま寝ているような顔。
「三日、しか保ってねえ」
「はい」
崩れた、と書いた一行の傍に、筆先が留まる。
「白澗の楔も、こんなふうに勝手に解けかけてたのか」
「いいえ。あちらは、留まっていました」
楊文は筆を置き、前夜の頁を繰った。
「浅かったんだな。二年前は」
開いた二頁に、双柳鎮と塩の集落が並んでいた。

 三つ目の話は、|洛尾《ラクビ》の渡しで聞いた。
船頭が|櫓《ろ》を押すたびに舟べりへ水が寄り、離れると、細かな泡だけが川面に残る。上流の岸を顎で示されて見ると、木立の切れ目に黒い土台があった。
「見えるかね。あすこに、船宿があった」
「焼けたのか」
「焼いたのさ」
沈んだ櫓先が、水の下でゆっくり返った。
「二年半前の春だ。宿の一家が、六人。朝、荷を届けに行った者が見つけた。……病だと思った。皆そう思った。だが、傷も、吐いた跡も、何もねえ。親父も、女房も、婆さんも、子供が三人も、寝床に寝たまんまだ」
「寝たまま」
「そう。寝る時の衣のままでな。寝てる格好のまんま、死んどった。だから初めは、寝てるうちに何かあったんだろうと」
船頭は櫓を止めた。舟が流れに身を任せ、黒い土台が木々の向こうへ少しずつ隠れてゆく。
「弔いの支度をしとったら、日が暮れた。その晩だ。……渡しのこっち岸から、宿の窓に灯りが見えたって者がおる」
舟底を擦る水の音が、近かった。
「見に行った者はおらん。次の晩も、灯りが点いた。三晩目に、窓を人が横切ったのを、こっち岸の三人が見た。僵尸だと、皆が言うた。わしは見とらんから、言わん」
「灯りは、誰が」
「誰が点けたんだろうねえ」
再び櫓が動き、岸に沿っていた舟の先が対岸へ向いた。
「四晩目に、若い衆が松明を持って行った。……八人だ。八人で行って、戸を開けもせずに、家ごと焼いた」
「中に、まだ」
「まだ、六人が寝とった」
楊文は舟べりへ手をかけた。
「確かめずに、か」
「確かめられるかい。あんた、確かめられるか」
船頭は櫓を握ったまま、楊文を見返した。
「わしの従兄弟が、その八人の一人だ」
低い声の合間に、櫓の軋む音が戻る。
「あいつは、その年から酒ばかり飲むようになった。焼く前に、家の中で音がしたと言うんだ。何の音だとは、死ぬまで言わなんだ。……もう死んだよ。まだ四十だった」
対岸の杭が近づき、船頭は櫓を小さく動かして舟を寄せた。
「今でも、あの村じゃ誰もその話をせん。八人のうち、もう四人は死んどる。生きとる者も、あの岸を見ようとせん」
銭を受け取り、降りる二人へ船頭が声をかけた。
「旅の人。夜、川沿いは歩かんことだ」
沈曉は岸から上流を振り返った。木立が重なり、船宿の跡はもう見えず、川面に日の光が流れている。

 渡し場の先の石に腰を下ろし、楊文は帳面を開いた。
二年半前、春、洛尾の上流。船宿の一家六人。死後の灯り、人影、村人が家ごと焼いた、と書くうちに、筆の運びが遅くなる。
「……あんた」
「はい」
「あの村の連中は、間違ってたのか」
沈曉は川の方を向いていた。水に濡れた杭の先へ鳥が降り、すぐにまた飛び立つ。
「もし私が、あの村を通りかかっていたら、六人は焼かれずに済みました」
「そういう話じゃない」
「……いえ」
沈曉は荷を取り、肩へ掛けた。
「そういう話です」
楊文が帳面を閉じる音を聞いてから、道へ足を戻した。

 その先でも、茶を飲むたび、宿で湯を貰うたび、楊文は同じ問いを口にした。
三年ほど前の秋、東の|黒水峠《コクスイトウゲ》の|駅逓《えきてい》で人夫が八人、一夜に死んだという。傷はなく、疫病として埋められた。その冬には、北東の|鷹帰山《ヨウキサン》の山寺から僧が十二人消え、雪解けとともに骸が現れた。土地の者は狐の祟りと呼んだ。
一年前の冬、西の|梅嶺《バイレイ》で炭焼きが七人。雪に道を閉ざされ、春まで訪ねる者もなかったという。
半年前には、北西の|古渡《コト》に住み着いた流民が姿を消した。幾人いたかを尋ねると、話し手は首を振り、元から幽霊の出る廃村だ、夜に入れば道が塞がって朝まで出られん、と、古くからの噂を繰り返した。
楊文は聞いたことを頁に分け、場所が曖昧なら余白を残した。死んだと聞いたのか、見かけなくなっただけかを尋ね直し、傷がないという話の脇には、誰が体を見たのかを書き添える。
飢饉や野盗の話も混じった。人が一度に死ぬ話は、この国では珍しくない。茶屋の卓に肘をつき、片方の話を聞き終えてからもう片方へ向き直る、その背後を、銭の足りぬ客や荷を急ぐ馬方が通ってゆく。
帳面を開くたび、前の宿で書いた文字が乾いていた。
楊文の筆から次の地名が生まれるのを、沈曉は傍らで見ていた。歩きもせずに死んだ者から、夜ごと灯りを点ける者へ。三日で崩れた者から、白澗観の、深く留められた骸へ。
頁の間を辿る指に、鳩尾へ触れた感触が蘇る。
上達している。
さらに地名を聞くたび、沈曉の内には別の道が開けていった。東の峠、北東の山寺、南東の船宿。南の集落から南西の鎮へ、西の炭焼きから北西の廃村へ。
棠梨村と、白澗観。
十年のうちに通った街道、川を渡った場所、荷を下ろして暮らした村が、その間に収まっていた。
楊文が頁を繰る音に、沈曉は茶の椀を置いた。まだ地図を広げてはいない男の前に、新しい白紙が現れた。

 三日目の午後、雨に追われた。
初夏の雨は麦畑を白く煙らせ、街道にいた二人へたちまち追いついた。廃屋の軒へ駆け込むと、落ち残った屋根の端から水が溢れ、土を打つ音で互いの息も聞こえなくなる。
楊文は濡れた袖を絞り、荷を乾いた柱の際へ寄せた。そこから帳面と、宿場で買った街道の地図を取り出して、|庇《ひさし》の奥の床板に広げる。
山も川もおおまかな絵で、細い山道は途中で途切れている。楊文は帳面を脇に置き、墨を含ませた穂先を整えてから、最初の頁へ戻った。
「双柳鎮」
一つ、印を打つ。
「洛尾。……塩の集落は、名がねえな。この辺か」
海辺の辺りには、小さく幅を持たせて記した。
「黒水峠。鷹帰山」
紙の東側に二つ、印が増える。
「梅嶺。古渡」
西へ筆を移し、六つ目を打ったあと、古渡の上で手が止まった。
「……これは、入れていいのか」
「迷いますか」
「流民が住み着いてた廃村だ。何人いたのかも分からん。元から幽霊が出るって言われてた場所で、話が全部そっちに吸われてる。……そもそも、人が死んだのかどうかも怪しい」
楊文は筆を持った手を浮かせたまま、帳面へ目を戻した。
「入れなきゃ、話は綺麗になる。入れると、汚れる」
「入れておいて、後で外せます」
「そうか。そうだな」
七つ目は薄く打ち、傍に小さな点を添えた。
八つ目の棠梨村では、谷へ通じる道を確かめ、筆を丁寧に下ろした。九つ目を探すときには、紙を押さえる左手が少し動いた。
白澗観は載っていなかった。
楊文は街道から谷の口を測り、山を一つ指で越えて、その奥へ印を打った。墨が乾くまで指を傍に置き、それから静かに手を引く。
沈曉は軒の外へ顔を向けていた。雨に叩かれた道の窪みが、水を湛え始めている。
「……なあ」
背後で、地図を引き寄せる音がした。
「これ、見てくれ」
沈曉は振り返った。

 九つの印が、紙の上に散っていた。
東と北東、南東、南、南西。西と北西へ目を巡らせると、その内側に棠梨村があり、北の山に白澗観がある。
「並んでる」
楊文は印を指で辿り、紙の中央へ視線を移した。
「ぐるっと、この辺りを囲んでる。……偶然か?」
沈曉が口を開く前に、楊文は荷紐の余りを取り出した。麻紐の端を紙の一点に押さえ、東の峠まで伸ばし、そこを爪で挟む。
押さえる場所を少し変えて測り直し、次に山寺へ、次に渡し場へと端を移した。遠い印には紐を伸ばし、近い印では余りを指に巻く。
「円だ」
楊文は巻いた紐をほどいた。
「一つじゃねえ。大きさの違う円が、この辺りに重なってる」
「距離は、揃いませんね」
「ああ。だが、ここを真ん中にすると――」
言いかけ、帳面を引き寄せた。
「年だ」
雨が庇を叩き、頁の角が湿った風に震える。楊文は片手でそれを押さえ、筆の柄を最も遠い印へ当てた。
「黒水峠が三年前の秋。いちばん古い。鷹帰山が、その冬。……この二つが、外側だ」
柄が南東へ渡った。
「洛尾が二年半前。塩の集落が二年前。双柳鎮が一年半前。梅嶺が一年前」
帳面と地図を交互に見比べるうち、声が少し速くなった。
「古渡が半年前。棠梨村が数ヶ月前」
北の小さな印で、柄が止まる。
「白澗観が、ひと月前だ」
楊文は紙を見下ろしたまま、沈曉へ問いかけた。
「あんた、分かるか。新しいやつほど――」
「内側です」
「そうだ」
古い三件は広く外側にあり、塩の集落から武館、炭焼きの里へと、印はおおむね近づいてくる。少し外へ戻るものもあるが、半年の間に起きた三件はさらに奥へ寄り、最後の白澗観が、中央の余白のすぐ近くにあった。
楊文はもう一度、麻紐を東の峠まで伸ばした。その長さを指で挟んだまま、白澗観へ向け直すと、余った紐が紙の上へ長く垂れた。
「……三年で、ここまで縮んでる」
沈曉の目は、その紐の端を押さえる指へ移った。
街道が二本交わり、川が一本流れている。細かな村名の省かれたところに、楊文の爪が当たっていた。

「探してるんだ」
楊文の声が低くなった。
「この犯人は、何かを探してる。……いや、誰かをだ」
沈曉は膝に手を置いた。濡れた袖が冷たく肌へ貼りついている。
「考えてみりゃ、初めからおかしかったんだ」
楊文は帳面を閉じ、膝に載せた。
「門派を滅ぼす理由がねえ。金が目当てなら、白澗観は貧乏すぎる。恨みなら、名乗るはずだ。名を上げたいなら、江湖で言いふらす。……あの晩、あの山から盗られたものは、何ひとつなかった。人だけが死んだ」
地図へ手を戻し、外側の印をなぞる。
「術を試してるんだと思ってた。実験だ。腕を上げるための。……それは、そうなんだろう。実際、上手くなってる。二年前は三日で崩れた。白澗の楔は、あんたが解くまで留まってた」
指が内側へ滑り、途中で止まった。
「だがな、腕を上げるだけなら、どこでやってもいいはずだ。都から遠い山奥でも、南の島でもいい。人の少ない土地の方が、都合がいいに決まってる」
楊文は顔を上げた。
「なんで、この円なんだ。なんで、こんなに几帳面に、内側へ寄ってくる」
庇から落ちる雨が、幾筋もの糸を引いていた。
「この真ん中に、そいつの探してる誰かがいる。……そう考えると、筋が通る」
沈曉は雨の糸を見ていた。
「三年前、そいつは大雑把にしか場所を知らなかった。この辺りにいるはずだ、というくらいだ。だから外側からやった。やりながら、聞いて回った」
楊文の手が、自分の帳面に重なる。
「人が死ねば、噂が立つ。傷のねえ死体が歩いたなんて話は、必ず流れる。……俺たちが今やってるのは、それを拾い集めることだ。そいつは、それを撒いてる」
沈曉の目が、帳面を押さえる手へ戻った。
「噂が立てば、その土地の道士が動く。祓いに行く。|浄宅《じょうたく》だの|押煞《おうさつ》だの、それぞれのやり方でな。腕のねえ奴は失敗して、話が大きくなる。腕のある奴が来れば、鎮まる」
楊文はそこで声を落とした。
「鎮まったら、分かるんだ。ここに、それを鎮められる奴がいる、と」
雨垂れの落ちるところに小さな穴が穿たれ、溢れた泥水が道へ流れている。
「そいつは、待ってるんだ。反応を。誰が動いたか。誰が、鎮めたか。……誰も来なけりゃ、そこにはいないと踏んで、次を試す。来た奴がいれば、そいつを調べる」
沈曉は、動かなかった。
「三年、繰り返した。そうやって、探す範囲を狭めたんじゃねえか」
楊文の指が、紙の中央を押さえた。
「近づいてる。……見つけかけてる」
沈曉は、その余白を見ていた。
指の置かれた辺りから真南へ十里ほど。地図には載らぬ村に、雨戸を落とした家がある。棚を空け、戸口に貼った紙には、当分、とだけ書いた。
あの紙も、今日の雨で端が濡れただろうか。
糊の剥がれた隅が戸を打ち、その家に用のある者が、まだ立ち止まって読むだろうか。
「あんたは、どう思う」
呼ばれて、沈曉は地図から目を離した。
「……理に、適っています」
「だろ」
楊文は短く笑い、額へ落ちてきた髪を払った。その指が紙へ戻るころには、口元の笑いも消えていた。
「気に食わねえのは、ここからだ」
「はい」
「その真ん中の誰かは、たぶん、犯人と同じものを知ってる。この術を知ってる誰かだ」
楊文は片手を上げ、指を折った。
「師匠か。仲間か。敵か。あるいは、術を教えた本人か」
四本目で止まった手を、沈曉は見ていた。
「……どれにしても、生きてる」
楊文は指をほどき、地図の外側へ掌を置いた。
「生きてて、隠れてる。三年も探されて、まだ見つかってない。よほど上手く隠れてるか、よほど、静かに暮らしてるかだ」
軒を渡る風が冷えた。沈曉は袖の端を膝へ引き寄せた。
「なあ、あんた。もし俺たちがその人を先に見つけたら、話を聞けると思うか」
「……何を、聞くのですか」
「全部だ」
楊文は地図に目を落とした。
「犯人が誰か。何を探してるのか。なんで、こんな術がこの世にあるのか」
指先が白澗観の印に触れた。
「それから、頼む。囮になってくれ、と。事情を話せば、分かってもらえるはずだ。何人死んだと思ってる。その人にだって、責任は――」
その指が止まった。
楊文は口を閉じ、しばらくしてから首を振った。
「……いや。責任はねえな。悪いのは、殺してる方だ」
地図の折り目を探り、外側から畳み始める。
「その人だって、逃げ回ってるんだ。三年も追われて、生きた心地がしねえだろう。それを俺が、囮になれとは。……勝手なもんだ、俺も」
九つの印が、一つずつ紙の裏へ隠れていった。

 沈曉は膝の上に手を置いたまま、最後の折り目が伏せられるのを見ていた。
ここにいます、と言えた。
地図へ落としたあの指を、こちらへ向ければいい。楊文は顔を上げるだろう。火を挟んで問うたあの夜と同じ目で、沈曉を見るだろう。
この手が楔を解くことを、男は知っている。その結び方まで知る理由を、自分の口から話せばよかった。
紙の端を揃える楊文の指には、薄く墨がついていた。
周敬の指にも墨がついていたと、あの夜、この男は言った。名を呼んで土を掛け、小竹の号のない牌の前にも立った男が、いま、その山を襲った者の行方を辿っている。
沈曉は濡れた袖の内で、親指を掌に押し込んだ。
楊文は畳んだ地図を懐へ収め、こちらの荷が雨に濡れていないかを確かめている。つい先ほど、その円の内にいる者を追いつめるのは勝手だと、言った口で。
屋根を叩く雨が弱まり、軒から落ちる滴の一つひとつを聞き分けられるようになった。沈曉は口を閉じたまま、袖を整えた。

 雨上がりの街道には、遠い山の稜線まで見えていた。
濡れた土から薄く湯気が立ち、道端の草に溜まった雫が、二人の裾へ触れて落ちる。庇を出てしばらくすると、楊文はまた地図を取り出した。
「中心の圏内に、何がある」
乾いた道端へ寄って立ち止まり、川に沿って指を動かす。
「村がいくつか。山が二つ。……街道が交わってるな。宿場が、ここと、ここ」
川の曲がるところで指が止まった。城壁を示す四角の傍に、ほかの町より大きな字がある。
「|臨江城《リンジャンチェン》」
楊文はその名を読んだ。
「でかい街だ。人も、物も、噂も、いちばん集まる。……もし俺が誰かを探すなら、まず、ここへ行く」
沈曉は、その字を見ていた。
水の匂いのする街である。十年前、夜明け前の門をくぐったとき、まだ暗い城壁の下を、川からの湿った風が吹き抜けていた。

◂ PREV
第十一話 包み
NEXT ▸
第十三話 臨江へ
第一部 懐璧の咎
第1話 第一話 乱
第12話 第十二話 円(このページ)

◂ NOVEL 一覧へ戻る