天理の石 — 第10話
第十話 祝言
阿石が杏児の名を呼んだ、その翌朝には、村の道をまっすぐ歩くことさえ難しくなっていた。
軒から軒へ渡す紐が頭の上を通り、膳を抱えた女たちが角で行き合い、どちらが先に通るかを決めるうちに祝言の相談が始まる。膳は何枚足りぬ、豚はどの家のを出す、酒はもう一甕要るだろう――声が声を呼び、明日の支度は道いっぱいに広がっていた。
土地廟を出た沈曉は、その騒ぎに足を止めた。振り返ると、神前に挿された花が一枝、開いた戸からの光を受けている。昨日まで空いていたところに、今朝は白い花の影が落ちていた。
「そこの若いの! 米を頼む!」
「おう」
先を歩いていた楊文が、もう呼ばれた方へ向かっている。
米俵を届けて戻ると、次は祭壇に足す板が待ち、井戸へ水を汲みに行けば、帰り道の家から別の用がかかる。傷のある左肩を避けて荷を掛け直す、そのわずかな間にも、声は遠慮なく飛んできた。
「そっちの棚も頼めるかね」
「任せろ」
「若いの、この樽も」
「よし来た」
昼前には子供たちまで名前を覚え、楊文が通るたびに後をついて走っていた。
沈曉は薬の包みを持ち、寝込んだ者の家を回った。
三日の騒ぎで床を離れられなくなった年寄りが二人、泣きすぎて頭が痛むという女が三人。脈を取り、薬の使い方を話すあいだにも、台所から祝いの品が運ばれてきて、帰るころには空いたはずの籠が埋まっている。戸口で断りかけると、後ろからまた包みを載せられた。
広場の隅へ戻ったとき、楊文は饅頭を両手に一つずつ持っていた。片方を受け取り、並んで腰を下ろすと、花を飾る女たちの向こうから阿石が歩いてくる。
ふた月のうちに落ちた肉はまだ戻らず、足を運ぶたび、膝に少し力を入れている。それでも頬には血の色が差し、母親の粥を三杯食ったと話す声には、昨日までなかった張りがあった。
楊文の隣に座ると、阿石は祭壇の方へ顔を向けた。
女たちの輪の中に杏児がいる。誰かが紅布を持ち上げると、その下をくぐって花を挿し、何か言われて肩をすくめる。ふた月、気の触れた娘だと囁かれていた女が、今日は皆に呼ばれながら働いている。
「……なあ、あんた」
阿石は広場を向いたまま、声を落とした。
「杏児に、何か言われたか」
「何かって」
「なんで毎晩来るのか、とか」
楊文の手が、饅頭を口へ運ぶ途中で止まる。
「聞いた。……最後まで、言わなかったな」
「そうか」
膝の上で組んだ阿石の手は、痩せた腕に比べて大きく見えた。指の節を親指で擦りながら、男は祭壇の娘を目で追っている。
「あいつは、言わねえよ。昔から」
少し間を置いて、その顎が広場の端へ向いた。
「七つの年に、そこの木の下でな」
大きな棠梨が枝を張り、花房の重みで細い枝先を垂れている。祭壇に花を運ぶ娘たちは、幹の下へ来るたび、落ちた花を踏まぬよう裾を摘まんでいた。
「言ったんだ。俺が。大きくなったら、お前を嫁にする、って」
楊文は膝に饅頭を置いた。
「あいつ、返事しなかった」
阿石の目は、木の根方に留まっている。
「怒りもしねえ、笑いもしねえ。ただ黙って、俺の顔を見てた。俺は恥ずかしくなって走って逃げた。……それきりだ。二十年、どっちもその話をしたことがねえ」
風が枝を渡り、花が散った。女たちの髪や肩に降りかかる白いものを、隣同士で払い合って、笑い声がこちらまで届く。
「祝言の話が決まった時も、俺は何も聞かなかった。親同士が決めた話だ。あいつが厭がってねえかどうか、聞く度胸がなかった。……で、俺がああなった」
組んだ手に目を落とし、阿石は一度、唇を湿した。
「牢に入って、三日目の夜だ。……その明くる朝、俺が目を覚ました時、格子の外に、あいつが座ってた」
低い声が、そこで掠れる。
「灯りも持たねえで。上掛け一枚で。……朝までいたって、後から母ちゃんに聞いた」
楊文の膝に、饅頭の皮が小さく剥がれて落ちた。男はそれにも手をやらず、阿石の続きを待っている。
「俺は、帰れって言ったよ。何度も言った。来るな、忘れろ、いい人を見つけろ。あいつは、はい、って返事だけして、次の晩も来た」
阿石は掌を開き、膝を押してゆっくり立ち上がった。
「二十年、返事を待ってたわけじゃねえんだ。忘れてたつもりだった。……でも、あの朝に、分かった」
広場の花を、男は見ていた。
「返事は、二十年遅れて、そこにあったんだ」
楊文は膝の上へ目を落とし、剥がれた皮を指で拾った。食べかけの饅頭を持ち直したあとも、しばらく口へ運ぼうとしない。
「……阿石さん」
「なんだ」
「あの朝、あんたが最初に呼んだ名前、聞いてたか」
「覚えてねえ」
「そうか」
楊文は顔を上げ、笑わずに言った。
「なら、俺が覚えてる」
午後、残りの薬を届けた帰り道に、沈曉は小さな足音を聞いた。
塀の陰に子供の頭が一つ見え、足を止めると引っ込む。歩き出せばまた覗き、次の角では二つに増えている。井戸の前へ来るころには五人になって、一列に、彼の歩く速さに合わせてついてきた。
沈曉が振り向くと、五人とも足を揃えた。
試みに数歩進んでみると後ろも動き、立ち止まれば衣の擦れる音までやむ。三度目に、彼は井戸端へ籠を下ろした。
「……何か、御用ですか」
いちばん小さい子が隠れ、その隣の子に背を押されて、大きい子が一人、前へ出る。
「なあ先生。おっちゃんが言っとった。先生は、鬼を素手で退治したって」
「素手ではありません」
「じゃあ、退治したんか」
「……退治も、していません」
子供たちは顔を見合わせ、押し出された子は困ったように爪先で土を擦った。その後ろから小さい手が伸び、沈曉の袖を引く。
「先生、字ぃ書ける?」
「書けます」
「書いてみせて」
沈曉は道端から棒切れを拾い、土を平らに均した。言われたのは名に使う字らしく、一画ずつ引いてゆく手元へ、五つの頭が寄ってくる。
「……これ、なんか変だ」
「変ですか」
「変っていうか」
子供は首を傾げ、隣の子の顔を見た。
土に引いた線の曲がり際や、払いの先に、沈曉には馴染み深い筆の癖がある。村の戸に貼られた札とは違うその字を、子供たちは、遠くから運ばれてきた物でも眺めるように取り囲んでいた。
「もっぺん書いて」
「同じ字を?」
「うん」
隣にもう一つ書くと、二つの字の曲がりも払いも同じところへ収まった。子供が片方を指でなぞり、もう片方へ指を移して、急に声を上げる。
皆が棒を探し始め、井戸端の土はたちまち細い線で埋まった。真似たはずの一画が|蚯蚓《みみず》のように曲がり、笑われた子の顔が歪むと、沈曉はその手から棒を受け取って、隣の土へ先を置いた。
「ここで、一度止めます」
「とめる?」
「筆を、置くように。……止めてから、次へ」
子供は真剣に頷き、今度は棒を押しつけすぎて小さな穴を掘った。傍らでまた笑いが起こり、本人が土を消しかけたところへ、沈曉は棒の先を伸ばす。
窪みの隣に点を打ち、曲がった線の左右へ細く翅を引くと、字の途中から|蜻蛉《とんぼ》が現れた。
子供たちは互いの肩を掴んで笑い、尻餅をついた一人がそのまま土に転がる。沈曉は棒を持って待ち、ようやく静まったころ、隣の字にも翅を足した。
また歓声が上がった。
彼の口元も、わずかに緩んでいた。
それからは、福を書け、寿を書け、今度は自分の名をとせがまれるまま、膝の前に字を並べてゆく。井戸へ来た女が立ち止まり、自分の子の名を教え、棒を握る小さな手へ声をかけて通り過ぎた。
いちばん小さい子が「先生の名前も」と言ったとき、沈曉の手が止まった。
棒の先から土が一粒落ちる。彼は空いているところへ腕を伸ばし、沈曉、と二字を書いた。
「先生、なんで字ぃそんなに上手いん」
「長く、書いてきましたから」
「どんくらい」
「……たくさん」
子供たちはそれで頷き、地面の名と、その名を書いた手とを見比べている。袖を引いた子が、彼の膝へ身を寄せた。
「うち、先生の弟子になったら、そんくらい書ける?」
沈曉はその顔を見た。
子供の頬には土がつき、先ほど笑った口が、返事を待って少し開いている。井戸の縄が鳴り、水を満たした桶が石の縁に置かれるまで、彼は棒を持ったまま座っていた。
やがて子供に棒を渡し、握った手の上から自分の手を添える。
「毎日、書けば」
細い指を包み、一画目をゆっくりと引いた。
「上手くなります。……私よりも」
子供は引いた線を確かめると、棒を手に跳ね起きた。ほかの子も後を追い、見て、と呼ぶ声が角の向こうへ遠ざかってゆく。
沈曉が顔を上げると、荷を担いだ楊文が、少し離れたところに立っていた。
目が合った。
楊文は何も言わず、荷を掛け直して広場へ歩いてゆく。沈曉は籠を取り、立ち上がりかけて、足元の字を踏まぬところへ足を置いた。
夕暮れには、ようやく道の荷が片付いた。
楊文は村の婆たちにあんちゃんと呼ばれながら、最後の空籠を返してくる。沈曉と連れ立って土地廟へ戻ろうとしたところを、阿石に呼び止められた。
杏児も隣に立ち、後ろには母親と里正、村の年寄りが幾人かいる。子供たちまで遠巻きに集まって、沈曉が籠を下ろすのを待っていた。
阿石が深く頭を下げ、杏児も同じ深さで礼をした。
「命の恩人です」
大きな肩が、その言葉とともに沈む。
「この村に、返せるもんは何もねえ。だから、これだけは言わせてくれ。俺の命は、あんたにもらったもんだ。俺は、それを忘れねえ」
沈曉は、下げられた二人の頭を見つめた。
薬が効いたと礼を言われることはあった。符に守られたと言う者へも、恐れ入ります、と頭を下げてきた。そのいつもの言葉を探すあいだ、阿石の襟から覗く首筋に、夕日が当たっている。
あの夜、掌に戻ってきた温みが、そこにも通っている。
沈曉は唇を開き、言葉の代わりに身を折った。籠の持ち手から離した指を衣に沿わせ、二人へ深く礼を返すと、隣で楊文がこちらを向く気配がした。
「先生」
杏児が顔を上げている。
「はい」
「……ありがとうございました」
もう一度下げられた頭へ、沈曉も礼を返した。顔を上げるころには夕日が屋根に隠れ、阿石と杏児は並んで、薄明の中に立っていた。
人家を離れると、道端の花がほの白く見えた。
夕空の明るみが谷の上に残り、小屋から運び出した板の匂いが、楊文の衣にも移っている。二人は提灯を掛け終えた軒を通り、土地廟へ続く坂を上った。
「そういえば」
「はい」
「あんた、字が綺麗なんだな」
沈曉の足が半歩遅れ、並んでいた袖が離れる。
「……子供らの手習いの、真似事です」
「そうか」
楊文は坂の上へ顔を戻し、明日は祝言だな、と言った。軒先に吊られた新しい提灯が風に回り、まだ灯の入らぬ紅い紙を、二人の頭の上で擦り合わせていた。
婚礼の朝、花は風を待たずに散り始めた。
枝を離れた一片が、次の一片に追いつかれながら落ちてゆく。谷の斜面には葉の色が透け、代わりに道も屋根も水路の縁も白くなって、村人の箒の先へ、掃いたばかりの花がまた降り積もった。
やがて箒は壁に立てかけられ、皆、花を踏んで支度を続けた。裾にまとわる花びらを笑って払い、頭に載ったものは隣の者に取ってもらい、阿石の家へ出入りする足は朝から途絶えない。
祭壇にも新しい紅布が掛かり、対の提灯には張り直した紙が明るい。村の入口で色褪せていた飾りも、今日のうちに替えるのだという。
古い飾りを外したのは、里正だった。
梯子を一段ずつ上り、枝に絡んだ紐をほどき、破れた提灯を潰さぬよう胸に抱えて降りてくる。通りかかった男が足を止めたが、老人がそれを抱え直して歩き出すと、道の端へ退いた。
里正は自分の家の裏へ運び、そこで焼いた。屋根の向こうから細い煙が上り、広場へ花を運ぶ者が何人か、足を緩めてその方を見ていた。
夕刻、篝に火が入った。
軒の提灯が次々に明るくなり、紅布のひだを深く照らしてゆく。西の空には細い月が掛かっていたが、その下の村は、家々の火だけで道を渡れるほど明るい。
膳が並び、酒甕の蓋が開く。里正は最初の一杯を土地廟へ運び、神前の花の傍らに供えてから広場へ戻った。その姿を待っていた者たちが杯を取り、互いに酌をし始める。
豚を焼く火から脂の匂いが流れ、甘い酒の香と、踏まれた花の匂いとが夜気に混じっている。年寄りも赤子も広場に出て、まだ歩けぬ病み上がりの者は戸板で運ばれてきた。席を空けるために膳が動き、肩を叩く手に杯の酒がこぼれ、そのたび、あちこちで笑いが起こる。
花婿と花嫁が現れると、声がやんだ。
紅い衣を着た阿石は、窮屈そうに肩を収めている。杏児は伏し目に歩みを揃え、二人が並んで止まったところで、年寄りの席から鼻を啜る音がした。
礼が交わされ、杯が回るにつれ、静まっていた広場にも声が戻ってくる。三度目の杯を干した阿石は、皆の方へ向き直り、大きく息を吸った。
口を開けたまま、次の言葉が出てこない。
杏児がそっと袖を引くと、阿石は隣を見、頭を掻いて、空の杯を高く掲げた。広場じゅうから歓声が上がり、楽の音がそれを追って、膳の間を料理の皿が渡り始めた。
沈曉は勧められた上座を離れ、広場の隅へ移っていた。
それでも人は来る。手を握って礼を言う者、孫の熱を相談する者の隣では、先生の手は祈っとったんじゃねえ、結んどった、と小屋で見た指を真似る男がいる。隣の者に違うと直され、二人とも指がほどけなくなって笑い出す。
沈曉は順に話を聞き、熱を出した子の様子を母親から聞き直した。差し出される酒には少しずつ口をつけ、その椀を置く隙間へ、また新しい皿が運ばれてくる。
ようやく人が引いたころ、楊文が両手に椀を持って現れた。
片方を差し出し、隣へ腰を下ろすと、酒の匂いが近くなる。朝から働いた分をそっくり酌で返されたらしく、顔は耳まで赤い。
「あんた、飲めるのか」
「たしなむ程度です」
「たしなめ」
沈曉は受け取った椀を口に運んだ。喉を通ったあとから熱さが広がり、少し息を置いて、膳へ戻す。その手元を楊文が横目で見ている。
広場では村人が輪になり、足の拍子を外しては隣の肩へぶつかっていた。楽を奏する方も笑ってしまうので、そのたびに調子が崩れ、輪の端からまた足を踏み出す。
「……いい夜だな」
楊文は踊りを眺め、椀を傾けた。
「白澗を出てから、こんな夜は初めてだ」
「はい」
「阿石さんが、さっき言ってたぞ。この村じゃ、あんたを祀るとか祀らんとか」
「困ります」
「困れ」
大きな笑い声に、近くの席からも顔が向く。楊文はそちらへ椀を上げ、沈曉は膝へ落ちた花びらを指で払った。
篝の火の粉が昇り、枝から散る花と行き違う。楊文は酒を空けて注ぎ足し、しばらくは二人で、途切れてはまた始まる踊りを見ていた。
三杯目の途中で、隣の椀が止まった。
「あんた」
酒に大きくなっていた声が、近くへ戻る。
「昔は、何をしてた人なんだ」
沈曉は椀の中へ目を落とした。地酒の面に篝の火が映り、持った手のわずかな揺れで、縁へ寄っては離れている。
阿石の胸に掌を置いていたとき、背後で息を呑む音がした。いまも耳に残るその音に、初めて言葉が続いたようだった。
楊文の手は、椀を持ったまま膝に下りている。
「……薬を」
沈曉は火の映る酒を見ながら答えた。
「作っていました」
「薬売りじゃなくてか」
「売る前の話です」
椀を膳へ戻すと、酒の面が大きく揺れた。指で縁を押さえ、静まるのを待ってから、彼は続けた。
「人を救う薬を、作ろうとしていました」
嘘ではなかった。
そのために筆を取り、炉の前に座った日々がある。書きつけた紙の端も、火を見ながら待つ夜の長さも覚えている。そこから先を口にしようとすると、椀の内に映る火が、別の夜の色を帯びた。
沈曉は縁に添えた指を動かし、椀のざらつきを確かめた。
どんな薬かと聞かれたら、どう答える。誰のために、なぜやめたのかと続いたら。最初に返す言葉だけは用意して、隣の男が口を開くのを待っていた。
「そうか」
楊文は椀を飲み干し、息を吐いた。
「……救う薬か。あんたらしいな」
沈曉の指は、まだ縁にかかっている。
「うまくいかなかったのか」
「はい」
「そうか」
二度目の声は低く、楊文は空の椀を膳に置いた。
風に篝が傾き、二人の膝へ花が落ちる。楊文がその一片を摘まんで広場へ弾くと、白いものは火明かりを斜めに渡り、踊る足元へ紛れていった。
「聞いてやるよ」
花を追っていた目を広場へ戻したまま、楊文は言った。
「いつか、あんたが言いたくなったらな」
椀の縁を辿っていた指が止まった。
踊りの輪から声がかかり、楊文が、おう、と片手を挙げる。火に照らされたその横顔を、沈曉はしばらく見ていた。
言いたくなったら。
次の問いに備えた言葉が、口の中に残っている。彼は椀を持ち上げ、冷めた酒を少し飲んだ。隣では楊文が輪に入れとせがまれ、膝に手を置いて腰を上げかけている。沈曉はそのために少し席を空け、椀を両手で持ったまま、遠ざかる背を見送った。
宴が更けるにつれ、踊りの輪は小さくなった。
酔い潰れた者が|筵《むしろ》に横たわり、片付け始めた女たちが、その足を跨いで膳を運ぶ。西の月はとうに山の端へ沈み、低くなった|篝《かがり》の下では、|熾《おき》の赤が散り敷いた花の縁を照らしていた。
沈曉が席を立ちかけると、人垣の向こうで紅い袖が動いた。
阿石が椀を手に、こちらを招いている。襟を寛げ、頬には酒の色を上らせているが、手を振る仕草には、祝いの挨拶とは違う急き方があった。
「先生! 楊文!」
踊りの輪を抜けてきた楊文と連れ立ち、沈曉は人垣の間へ入った。阿石は椀を置き、掌で顔をこする。遠くで誰かが笑い、楽がもう一度鳴り始める。その音を背にして、花婿は声を落とした。
「今、思い出したんだ。……なんで今まで忘れてたのか、分からねえ」
楊文が隣で足を止めた。
「そういえば、数ヶ月前――」