天理の石 — 第2話
第二話 街道の男
夜が明ける前に、目は開いている。
戸の隙間もまだ暗いうちに、|沈曉《シェン・シャオ》は床を離れ、着替えを済ませて灯を点す。伏せた小鏡の前で髪に二指を添えると、根元から毛先へ、指の通ったところを墨色が満たしてゆく。結い上げた髪の端が襟に収まり、灯を吹き消したあとにも、その黒さは薄闇に残っていた。
戸を開ければ、東の稜線の上に夜が低くかかり、井戸端の水甕には星が二つ三つ映っている。縄は夜露を吸って冷たく、掌に通すたび、撚り目の湿りが指へ移る。釣瓶を下ろすと水を打つ音が響き、眠っている家々の間を、その音だけが通った。
桶に八分目で汲むのをやめ、釣瓶を戻して家へ帰る。担いだ水は足の運びにほとんど揺れず、桶の縁に切り取られた夜明けの空が、戸口までついてくる。
薬草を洗って竈へ火を入れ、湯が沸く間に、前の日に使った|薬研《やげん》の目を検める。その頃には戸の向こうも白み始め、軒の雀が鳴き交わす声に、ごり、ごりという音が重なる。
街道筋の家々は、それを聞いて朝の支度に取りかかる。雨に濡れた戸を開ける日にも、霜を踏んで畑へ出る日にも、先生の家ではもう薬を挽いているので、あの音が止んだら先生に何かあった時だと、村の者は笑っていた。沈曉がこの街道に居着いてから、まだ一度も、その冗談を確かめに来た者はない。
畑へ出る前の客が、軒下へ影を落とす。
「先生、爺さまの咳がまだ抜けんのだわ。明け方になるとずっとごほごほと咳をしとる。何とかならんかね」
「では、前のものより少し強めのものを出しましょう。熱い湯で溶いて、寝る前に飲ませてください。……三日分で足りますか」
「足りる足りる」
三日分の薬を量ってそれぞれ紙へ移し、端を折って用法を書き添える。乾くのを待つ墨は、包みの上で細く艶を帯び、癖のない楷書が三つとも同じところに収まっている。
飲み終えた紙を伸ばして取っておく家が、村には何軒かあった。字が良いから破れた窓に貼るのだと聞かされた時、沈曉は礼を言ってから、自分の書いた包みをもう一度見た。以来、その家の分だけ、心持ち小さく書いている。
薬代を告げると、客は袖を探り、台の上へ銭を並べる。その枚数が足りる日より、ひと言添えられる日の方が多い。
「先生、今日は五文しか持っとらん」
「では、五文で大丈夫です」
「……あんた、それではお店が立ちゆかんよ」
「足りております」
薬を手に入れた客が今度は店の身代を案じ、帰りかけた足を戻して説教を始めるので、勘定が済んでからの方が話は長くなる。隣の婆はそれに飽き足らず、沈曉の縁談まで持ってきた。
「いい年をして独り身はいかんよ、先生。あんたみたいな美人で器用な男なら、引く手数多だろうに。わしがまだ若かったら婿に貰っておったわい。そういえば、三つ先の村にな、器量のいい後家さんが」
「婆さん。湿布は、いつも通り七枚ですか」
「……七枚」
「切らさぬよう、少し多めに包んでおきます」
切り揃えた湿布が紙に重なり、婆の話が三つ先の村へ届く前に、包みは仕上がった。両手に受け取ってからも何か言いたげな口を、沈曉は台を拭きながら待っている。婆は結局それを抱えて帰ったが、三日と置かずに顔を見せた。
薬を売る同じ台で、札も書く。戸口の厄除け、竈の神、年の改まる折の書き替えと、頼みに来る者は季節ごとに同じ用向きを持ち、日取りを見てもらったついでに、家の軽い祓いを頼む者もいる。街道筋では、道士の先生のところへ行けば薬も出してもらえる、ということで通っていた。
墨を磨る間は、客も畑の話や天気の話をしている。沈曉が紙を広げ、穂先を揃える頃になると、声は自然に低くなり、筆が下りると止む。袖をよけた手首から一画が延び、曲がるところで細く返って、次へ続く。その端然とした運びを、客は台に両手を置いて見守っている。
先生は書く前に、口の中で何か言っとる。そんな話も耳に入る。浄めの句は声にせず、唇の内に収めているはずなのだが、通い慣れた者は案外よく見ているものだった。
書き上がった札を差し出せば、ありがたみがあるよ、と客は両手で受け取り、折らぬよう胸の前に持つ。その黒さも字の形も、去年渡したものと変わらない。
「去年のは、どうすればええかね」
「竈で焼いてください。灰は、戸口の外へ」
毎年の問いに毎年の答えを返し、出ていく背を見送る。家の札を頼みに来る顔は相変わらずで、弔いの用向きだけが、この数年で少なくなっていた。
客の引く昼には、軒先の筵へ薬草を広げる。日に温められた葉を裏返すと、乾き始めた青い匂いが立ち、茎の陰に残っていた水気が指につく。先に乾いたものから取り込み、刻み、|篩《ふるい》へ落とせば、軽い屑が器の底にさらさらと溜まってゆく。
棚の引き出しには一つずつ名札が下がり、季節によって中の草が替わっても、沈曉の手はいつもの高さへ伸びる。振り返った時、店先に小さな額が覗いていることがある。刃の下りるのを飽かず眺める子供は、台に顎を届かせようと、少しずつ背伸びをしている。
沈曉は刻んだ|甘草《かんぞう》の欠片を、時折その近くへよけておく。引き出しへ薬を収めて戻ると、台の端は空になり、子供の影も消えている。翌日にはまた同じ場所へ影が来て、刃の上下につれて、小さな頭もわずかに動く。
ある昼下がりには、銭を鳴らす音に顔を上げると、腰に剣を帯びた旅の武人が立っていた。北へ急ぐので傷薬を、それも上等なのをと言う。沈曉は棚から二種を出し、片方を勧めた。
「そっちは安い方だろう」
「効く方です」
鼻を鳴らした男の手が、勧めた方へ伸びる。包んで渡す時に、沈曉は小さな貼り薬を添えた。
「なんだこれは。頼んでおらんぞ」
「左の膝に。先を急がれるなら、今夜のうちにでもお使いください」
男は包みを見、膝を見て、もう一度沈曉へ目を戻した。寄っていた眉が、そこで少し開いた。
「……なぜ分かった」
「歩き方を見ておりました。あなたがここに来る時、右へ体が寄っておられました。なので、膝を庇っておられるのかと」
剣客は足もとを確かめ、荷の紐を肩へ掛け直した。
「ふん、余計な目利きだ」
「余計でしたか」
「……いや」
余分に置かれた銭を押し戻すと、男は妙な顔で笑った。薬を懐へ収めて北へ歩いてゆく背は、街道の照り返しに輪郭を薄め、やがて腰の剣も、肩の荷も、ひとつの影に紛れてしまう。
行商も巡礼も、江湖を渡る侠客も、同じ道を通っていく。行き先を告げる者には道を教え、薬を求める者には棚を開ける。客の来歴へ話が及ぶ前に商いは済み、沈曉の身の上についても、婆の縁談のほかには、さして話題に上ることがなかった。
夕方には筵を仕舞い、一汁一菜を竈の前へ運ぶ。円座に腰を据えると背後に火があり、|燠《おき》の明かりは、向かいの土壁に淡く揺れている。箸を動かす間にも、ときおり薪が爆ぜる。そのたびに灯影が跳ね、沈曉は背を向けたまま、その数を聞いていた。
夜の灯を一つに落とし、翌日使う包み紙を揃えると、手を膝へ戻す。昼には薬や銭の触れ合っていた台も、今は木目の半分を闇に沈め、炎の届くところだけが静かに浮いている。
その明かりの端に、古い|葛籠《つづら》があった。朝の掃除で蓋の埃を払い、傍を通るたび裾が触れるほど近くに置きながら、この家へ来てから一度も開けていない。灯が細くなるにつれ、蓋と身の境が見えなくなり、最後には隅の暗がりとひとつになる。
沈曉は灯心を摘んだ。
村のどの家よりも先に、その戸から明かりが消える。早寝の先生だという評判は、朝の薬研とともに、街道の暮らしへ馴染んでいた。
そんな日々の続く、ある春の午後、沈曉は隣村へ薬を届けに出た。
寝付いた年寄りの煎じ薬を十日分、頼まれた日には手元へ渡せるよう、店を早く閉めてゆく。梅の花はもう終わりに近く、乾いた道へ風が草の匂いを運び、田に張ったばかりの水には、山と雲とが逆さに浸っている。畦を越えた風がそこへ触れると、雲の端から細かくほどけて、向こう岸まで波が渡った。
畦にいる子供二人は、泥の中の何かを追うのに忙しい。先生、と声だけが飛んでくるので、沈曉も歩きながら手を上げた。帰る時にもまだここにいそうな手つきで、二人は袖をたくし上げ、膝まで泥に入っている。
年寄りの家には煎じ薬の古い匂いが籠もり、枕元へ屈むと、藁や日向の夜具の匂いが重なってくる。沈曉は薬を一つ嫁に渡し、包みを開かせて、煎じる手順を伝えた。
「朝と晩、食事の前に飲ませてください。苦がるようなら、飴をひとつ含ませてもかまいません。ですが、果物は控えるように」
「先生は薬売りのくせに、甘いものを勧めるんだね」
「薬を飲んでいただく方が大切です」
「うちの爺さまは、甘いものは女子供のものだと言うんだよ」
「では、甘いものも薬のうちだとお伝えください。この薬には入ってはおりませんが、甘草も棗も薬になります」
嫁は声を立てて笑い、棚の奥から紙包みを取り出した。幾重にも巻いた紙をほどくと黒砂糖の欠片が見え、最後の一枚にはこぼれた粉まで大事に残してある。
年寄りは半ば眠りながら聞いていたが、帰り際になって夜具から手を出し、沈曉の袖を取った。枯れ枝のような指が二度ほど布を握り直す。沈曉はその手を受け、自分の掌で包んだ。
「先生の手は、温いなあ」
薄い皮膚の下で、指の節が一つずつ掌に当たる。沈曉は手を重ねたまま、ひと呼吸おいた。
「……それは、何よりです」
帰り道に、一度だけその手を開いてみた。夕日が掌の細かな皺に差し、指の縁が薄く赤い。さっき握っていた手の細さを確かめるように、沈曉はゆっくりと指を畳んだ。
畦の子供はもう帰り、田の水には傾いた空が映っている。街道へ出れば轍の片側に長い影が溜まり、日暮れまでには家へ着くと、いつもの足が刻限を測る。
道の端の黒い点に、足が止まった。
しゃがんで指を近づけると、乾いた土の上で、そこだけがまだ湿っている。夕日を受けた縁に鈍い赤みがあった。
血だった。
点々と続く跡は、進むほどに間を詰め、街道を横切った先で草むらへ入っている。人ひとりが倒れ込んだほどの幅に茎が折れ、風が穂先を揺らしていっても、根元へ伏した葉は地面に貼りついていた。
沈曉は立ち上がり、道の前後を見渡した。日は稜線にかかり、人影はどちらにもない。袖をまとめ、踏まれた草の間へ足を入れた。
鉄気が鼻につく。草の湿った匂いに混じって、窪地へ近づくほど濃くなってゆく。その浅い底の灌木の陰に、男が倒れ伏していた。
旅装の腰には剣がある。背の衣が大きく裂け、布の端から下の土まで、血を吸って黒ずんでいる。沈曉は膝をつき、裂けたところへ指を近づけた。刃を引いた口ならこうは開かない。衣をよけると、肉の裂け目も同じ向きに走っていた。
首筋へ指を移した。
脈が触れる。浅く速い息が肩を動かし、耳を近づけると、草を擦る音の下に呼吸が聞こえる。
沈曉は薬箱を下ろして傷を検め、押さえる布を当てた。西日が二人の影を草の上へひとつに延ばし、灌木の葉がその顔を斑に覆う。男の腕を自分の肩へ回し、背負って立つと、その頭が頸の傍へ落ちた。
見かけより、重かった。
鍛えた腕と胸が背へ預けられ、衣越しに湿った熱が伝わってくる。歩くたびに髪が頸へ触れ、息が同じところを温める。その息の続くのを聞きながら、沈曉は家までの半里を休まず歩いた。
土間へ筵を敷き、男を寝かせて灯を二つに増やす。灯心の火が落ち着くと、道では血と影に紛れていたものが、一つずつ手元へ浮かんでくる。沈曉は鋏で衣を開き、左肩から腰まで斜めに走る傷を洗った。
深さはあるが、腱は保っている。傷の縁を寄せ、焼酒を含ませた布をよけて、針を通した。
指が弧を描くたび、開いた肉が少しずつ合わさってゆく。細い糸が灯を受け、引き切ると艶を失って肌に沈む。男の背は呼吸につれてかすかに上下し、沈曉はその動きに手を添わせながら、針目の間隔を揃えていった。
膏薬を延べて晒しを巻き終え、裂けた衣は血のついた方を内へ畳んで、竈の脇へ置いた。目が覚めれば、本人がどうするか決めるだろう。
額を拭うと、汗の乾いた白い筋が布へ移る。二十四、五ほどか。濡れた髪をよけた下には真っ直ぐな眉があり、苦痛に寄ったその形に比べ、頬から顎へ続く線はまだ若い。拭い残した雫がこめかみを伝い、沈曉は布の乾いた端で、それを受けた。
薬を煎じ始める頃には、表はすっかり暮れていた。戸板を風が叩くたびに二つの炎が揺れ、ひとつの体から延びる影が、筵の上で離れては重なる。薬湯の匂いは竈から棚へ、家の隅までゆっくり満ちてゆく。
遠くで犬が一度吠えた。あとは土鍋の煮える音が低く続き、男の息は、その合間から聞こえていた。
夜半を過ぎて、熱が上がった。
すぐ戻る、と男は言う。待ってろ、とも。閉じたままの目で誰かを追うように眉が動き、言葉が途切れると、乾いた唇から息が漏れる。
沈曉は額の布を替え、唇を湿らせてから匙で薬湯を含ませた。飲み下すのを確かめて円座へ戻ると、竈の燠が背後にある。いつもの位置から男の呼吸を数え、細ってきた灯には油を足した。
男の手が、ふいに宙へ伸びた。
何かを掴みかけた指が閉じ、力が抜けると掌が上を向く。二度目も同じように空を掴み、その手首が筵へ下りてきたところで、沈曉は掛け布を重ね、指先まで覆った。
明け方には、息が落ち着いていた。
戸の外を足音が通り、近くの家で朝の支度が始まっても、沈曉は薬研へ手を掛けずにいる。裂いた晒しの残りを揃え、水を替え、音の立たぬ用を筵の傍で済ませた。村の者が冗談にした、薬研の鳴らぬ朝が来ていた。
戸の隙間から差す光が土間を斜めに切り、やがて男の足もとへ届く。梁の下を埃がゆっくり昇り、灯の色が昼の明るさに紛れる頃、男が目を開けた。
天井を見たまま二度三度と瞬き、首を動かすにつれて、その目が梁から薬棚へ、薬棚から竈へ移ってゆく。最後に沈曉のところで止まった。
江湖を歩く者なら、見知らぬ場所ではまず得物を探す。この男の手は先に背へ回り、巻かれた晒しを確かめていた。指がその端を辿り終えると、もう一度、沈曉を見た。
「……あんたが、拾ってくれたのか」
「通りがかっただけです。傷に障りますから、そのままで」
白湯を差し出すと、男は肘をついて半身を起こした。途中で顔が歪むので沈曉が器を引いて待つと、足を引き寄せ、ようやく座る形になる。まだ差し出されぬ器より先に、頭が下がった。
「|楊文《ヤン・ウェン》という。白澗の山の|白澗観《はくかんかん》の門下だ。この恩は必ず——」
「白湯が冷めます」
頭を上げたところへ器を戻す。男は口上の先を探すように一度唇を動かし、結局、両手で受け取った。長い指が器を包み、ひと口ずつ飲む合間に、湯気の向こうから沈曉を窺っている。
「……あんた、名は」
「沈曉と申します。しがない道士です。いまは、薬を商って暮らしています」
「道士様か。……どうりで」
器へ目を戻すまで、今度は少し間があった。沈曉は水の入った盆を脇へ寄せ、楊文が背を庇って傾く方へ、畳んだ布を置いた。
「……ここは、どのあたりだ」
「白澗の山からは、南へ十里ほど下った街道筋です」
「十里」
楊文は器の縁を見つめ、持った指を一本だけ動かした。目を上げると、続けて尋ねた。
「俺は、どれくらい眠ってた」
「見つけたのが昨日の夕方ですので、一晩と、半日ほどかと」
一晩と半日、と繰り返す口が閉じるより早く、器が筵へ下り、楊文は立とうとした。詰まった息を聞いて、沈曉はその肩に掌を当てた。
「傷にさわるとお伝えしたはずです。今のでひらいたかもしれません。傷を検めます。話は、それからでも」
座り直させて晒しを解くと、縫い目は保っていた。膏薬を替える間、楊文は力を抜いて身を預け、触れる手に合わせて肩の向きを変える。門派で育った者には、手当てを受ける時の体の置き方も馴染んでいるらしい。
目だけは竈の脇へ向いている。畳んだ衣の端から、血で固まった裂け目が覗いていた。
「……あんた、あれを見て、何も聞かないんだな」
「話したくなれば、話すでしょうから」
楊文の口もとが笑う形に緩み、短い息が漏れた。沈曉は晒しを留め、自分の碗にも白湯を注いで、向かいに座った。
「薬の買い出しで、山を下りてた。二日だ。たった二日、留守にしただけだった。戻ったら山門が開いてた。開いてることは不思議じゃない。参拝客だって来ることがある。だが、門の中が静かだった。静かなわけがない。朝はいつも忙しいし、それに誰かしらが怒鳴ってる。庭に兄弟子がいて、いつも呼ぶみたいに名を呼んだ。呼んだら、振り向いた。振り向いたんだ。……なのに」
楊文はまた器を取り、胸の下に抱えていた。話す間に水面が小さく揺れ、その揺れが収まるのを待つように、縁へ目を落としている。
「息をしてなかった。息をしてないのに、立って、歩いてた」
沈曉の指が止まった。
碗の熱が指の腹に当たっている。向かいでは、楊文がひと息継いでいた。背負った時に耳元で聞いたのと同じ呼吸が、昼の土間にはっきり聞こえた。
「囲まれて、気づいたら山門の外にいた。剣は——」
楊文の目が腰へ落ちた。器を抱える手のすぐ下に、剣の柄が見える。
「抜けなかった。あの顔に向けて、抜けるわけがない。逃げて、走って、どこをどう来たのかも覚えてない。……門下の癖に、剣も抜かずに逃げた。情けない話だが」
「抜いていたら、楊文殿は今ここにいません」
自分の声は低く、平らに響いた。楊文が顔を上げ、何かを言いかける。その目が沈曉に留まる間、二人の間には薄い湯気が昇っていたが、やがて楊文は口を閉じ、残りを飲み干した。
空になっても、指は器を抱えている。爪の際まで白くなったその手を見ながら、沈曉は碗に掌を添えたまま待っていた。
表を荷車が通る。鶏が鳴き、遠くで誰かが呼び返し、車輪の音が過ぎると、いつもの昼下がりに戻る。土間を切る日の帯も筵の端まで延びてきた。
「戻る」
楊文は器を置いた。その手が筵に下り、拳になった。
「歩ければ、明日にでも。放っておけるか。あそこには、まだみんなが——」
言葉が切れたあとも、顔は戸の方を向いている。拳で筵を押すと背の晒しが張り、沈曉はそこへ目をやった。
「あなたの傷は深い。三日は塞がりません」
「三日も待てるか」
「傷が開けば、山の前で倒れるかもしれません。少なくとも、参道を登るのはお辛いと思いますが」
楊文は身を起こすのをやめた。置いた器へ手を戻しかけ、縁に触れる手前で止める。やがて指をほどき、膝の上へ下ろした。
竈の燠はとうに白くなり、薬棚には日の当たる名札と、陰の中の名札とが並んでいる。朝から挽かずにいた薬も、使わずに済んだ包み紙も、昨日までと同じところにある。
沈曉は自分の碗を置いた。
白湯は冷めていた。掌を離すと、碗の丸みを包んでいた指の形が、そのまま残る。
名を呼べば、振り向く。
楊文の話した顔は見たことがない。それでも昨夕検めた傷の口が目に浮かび、肩から腰へ指を運んだ時の、裂けた肉の深さまで手元へ戻ってくる。沈曉は指を曲げ、膝に置いた。
部屋の隅へ、視線が流れた。
灯を消したあともそこにある葛籠は、昼の光の中では、蓋の木目まではっきりと見える。今朝拭ったばかりのその蓋から、沈曉は筵の男へ目を戻した。
「——案内して欲しい」
先にそう言ったのは、沈曉の方だった。