天理の石 — 第3話

第五話  同行

2026.09.16 6,225字 ・ 約11分
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 発つ前、二人は山門の扉に片方ずつ手を掛けた。
 三日のあいだ開いたままだった門が、木の軋みを山へ響かせながら、内側の景色を細くしてゆく。昨夕に掃いた石畳、堂の白壁、十五の牌が立つ裏山へ続く径――最後に残った隙間から、朝の光がひと筋、誰もいない境内の奥へ差し込んでいた。
 扉が、合わさった。
 楊文は閂を落とすと門に向き直り、拱手して深く頭を下げる。春の風が、そのまま動かぬ男の裾を幾度か揺らして通り過ぎた。
 長い礼だった。
 やがて上げた顔は、もういつもの顔である。
「行こう。……いや」
 閉じた門へ、言い直す。
「行ってきます、だな」
 石段を下りる楊文の背は、一度も山門へ向き直らず、その決意のぶんだけ肩のあたりが硬い。道の脇に増えてゆく標石を、二人とも数えずに過ぎた。

 街道へ出ると、まず沈曉の家へ寄る。
 旅に要る薬と符の紙を包み、筵の薬草は乾いた分から仕舞い、薬研を拭って油を引く。棚の引き出しをひとつずつ検め、名札を揃え直すころ、手伝いを申し出た楊文は、座っていてください、と初めて断られた。狭い家には、一人で暮らした者の手順しかない。
 仕舞い終えた棚から売り物の薬をすべて下ろし、戸口の貼り紙を書き替える。しばらく、の文字を消したあとへ当分、と置き、その下に続ける言葉を探して筆を浮かせたものの、結局、何も足さなかった。
 墨の乾くあいだ、空の棚、拭き上げた薬研、埃だけ払われ続けた葛籠のなくなった場所を見渡す。十年ぶんの暮らしは、半日で仕舞えるほどの嵩しかない。その少なさを量るように、沈曉の目はもう一度、空になった棚へ戻る。
 表の物音を聞きつけて、隣の婆が出てくる。
「先生、出かけなさるか」
「ええ。少し、遠くへ」
「いつ帰りなさる」
「……分かりません」
 その答えだけが、いま言えるいちばん正直な言葉だった。婆は沈曉の顔から楊文の顔へ目を移し、何かを勝手に得心する。
「湿布、置いていきなされ。ある分だけ」
 沈曉は棚から下ろした薬を、湿布ごとすべて渡す。戸を閉ざした薄闇の中には、空の棚が並んでいる。婆は勘定を持ち出さず、包みを抱えて、達者でな、とだけ言った。いつもの縁談も、今日は口にしない。
 戸に錠を下ろした沈曉は、戸板へ掌を一度だけ当てる。
 十年、変わらぬものだけで組み上げてきた家である。次にこの戸を開ける者が自分だという証は、探してみてもどこにもなく、掌はほどなく戸板を離れた。
 村外れの坂まで来たとき、足が半歩だけ遅れる。振り返りはしなかったが、その半歩を楊文は見ていたらしい。
「いい村だな」
「ええ」
「戻る場所ってのは、あるうちに分かっとくもんだ」
 それが誰に向けた言葉なのか、楊文自身も決めていない言い方だった。

 尋ね人の手がかりは、都へ続く街道筋にしかない。二人は宿場ごと、村ごとに足を止め、ひと月ほど前、都の言葉を話す身なりのよい若い男を見なかったかと訊いて回る。
 歩くほど問いから余分な言葉が落ち、相手の記憶が脇道へ逸れぬ長さに磨かれてゆく。獲物の通り道にだけ罠を置く、狩りの仕方に似ている、と楊文は言った。
 聞き込みは、もっぱら楊文の仕事になる。茶屋の親父とは茶の値段から、馬方とは馬の|疝気《せんき》から話を始め、四半刻もすれば相手の方が勝手に喋っている。人懐っこさが銭の要らぬ手形になる男の半歩後ろで、沈曉は要ることだけを拾って覚える。
 その日の茶屋では、話が薬のことになる。
「都じゃ、また炉を焚いてなさるそうだよ」
 湯を運んできた親父が、聞かれもしないのに言う。飲めば老いぬという薬を、上のお方が、もう何年になるかね、と。
「効くのかい」
「効いてりゃ、三十年も焚き続けとるわけがねえ」
 馬方は笑い、そのまま鼻を鳴らした。
「効かんから、人を替え、炉を替えて、まだやっとる。あれじゃ祭りだ。……うちの村からも、去年、二人取られてる。一人が長く生きるのに、なんぼ要るんだかね」
 罰当たりを言うな、と親父が声を低め、それきり話は途切れる。何に取られたのかを訊く者もなく、沈曉は湯呑みに口をつけずにいる。
 底のほうで、茶葉が二枚、沈みきっている。
 都から下る旅人も、若い男も多く、ひと月前の一人を覚えている者は少ない。それでも否まれるたび、名も顔もない人影には、派手な装いではない、供を連れていない、と輪郭が一本ずつ加わってゆく。目立つ男なら、誰かの記憶に残るはずだった。
 同じ男を、追っている。
 楊文は仇として追う。沈曉は――何として追うのか、その空白に収まる言葉をまだ選べずにいる。二人の理由にある僅かなずれは、並んで歩く片方の胸にだけ伏せられていた。

 日が重なるにつれ、街道には二人ぶんの歩き方ができてゆく。
 歩幅の大きな楊文は、気づけば沈曉の三歩先にいて、そこで歩みを緩める。緩めすぎれば、今度は沈曉が追いつきかける。その繰り返しも二日目には間遠になり、三日目、互いに歩幅を直すことなく足音が揃った。
 足音が揃うと、沈黙にも間が生まれる。
 先にそれを知ったのは、楊文の方らしい。喋る量は変わらぬまま、言葉のない時間を急いで埋めることがなくなる。街道の両脇には菜の花が続き、日向の匂いへ花の香が混じり、蜂の羽音は道の上を低く漂っていた。明るい季節の中を暗い用事で行く二人の影だけが、花の黄を分けて東へ延びる。
 夕暮れには、西の空が菜の花と同じ色に燃えた。
 燃える空の下を、二つの影が東へ長く伸びて歩く。影の丈は違うのに、足の運びだけが同じだった。
 野営の夜には、いつしか手が分かれていた。薪と水は楊文、火と鍋は沈曉。焚き火を挟む位置さえ、二晩目から沈曉は火を背にし、楊文はその向かいへ腰を下ろす。
 居場所が決まれば、闇の中で相手を探す手間が消える。目を遣らずともそこにいる相手を、沈曉は久しく持たなかった。楊文は横になると同時に眠り、予告通り鼾が大きい。夜の番は自然と沈曉が先に立ち、後を受けるはずの男が起こされぬまま、火の灰ばかり白む朝が続いた。
「おい、また通しで起きてたのか」
「よく眠れる質ではないので」
「質って、あんたな」
 楊文は文句を言い、言いながら朝の火に薪を足した。それ以上は追わない。その加減を、この男は肌で知っている。

 峠の茶屋は、街道が尾根を越える鞍部にある。登り詰めれば風が変わり、汗を冷ます気配が首筋を撫でた。眼下には越えてきた道が糸のように畳まれ、遠い田の水が鈍色に光っている。
 腰掛けが二つ、渋茶と蒸かし芋。昼下がりで他に客はなく、話し好きらしい主人は、注文を運びながらもう喋り始めている。どこから来なすった、北か、北は今時分まだ冷える――
 楊文が調子を合わせ、話は街道の様子に移った。
「そういや、お客さんら」
 主人は盆を抱えたまま、声を落とした。
「夜道は気をつけなせえよ。近頃この街道は、物騒でねえ」
「物騒って、追い剥ぎか」
「それならまだ、いいんだがね」
 芋の湯気の向こうで、主人は首を振る。
「北のどこかの山寺が、一夜で空になったって話だ。人がみんな消えたんだと。狐の仕業だの、祟りだの、いや生き残りが一人いたの……まあ、旅の者の与太だろうけどもね。ここ数年、そういう妙な話が、妙に増えた」
 碗を持つ楊文の手が、止まっていた。
 沈曉は、先に目を伏せた。
 ここ数年、という言葉だけが耳に残って、消えない。
 十年前ではない。ここ数年、である。二つの言葉の間に横たわるものを、彼は碗の中の茶柱ごと、静かに見下ろしていた。
 峠を、風が越えていく。
 主人は二人の様子に気づかず、湯気の向こうで、まだ喋っている。

 峠を下りて二日目の夕方、最初の宿場町へ着く。
 町へ入る手前から、煮売りの鍋の湯気、浴堂の煙、馬糞と藁が混じり、山にはなかった匂いが押し寄せる。軒下に掛け提灯が灯り、宿の女たちは往来へ声を投げ、荷駄の馬が鈴を鳴らして二人を追い越してゆく。音のない山と野営の日々のあとでは、雑踏そのものが身を浸す湯のようで、楊文の背筋からも、歩くうちに強張りがひとつ抜けていった。
「今夜は屋根の下だ。あんたも枕を高くして眠れるぞ」
「野営でも、枕は同じ高さです」
「ものの喩えだよ。……あと、俺の鼾のことなら謝らんからな」
「三晩とも、数えられる調子でした。雷より正確です」
「数えるな。あと誰が雷だ」
 宿を取り、帳面を繰ってもらう。
 ひと月前の頁に、都から下った客の名は三つあった。商人がふた組と、薬種問屋の隠居がひとり。どれも供連れで、歳が合わない。番頭は申し訳なさそうに頁を戻した。
「お尋ねの若い方は、うちには。……もっとも、街道の宿はうちだけじゃございませんし、野宿の口もありますからな」
「だな。順に当たるさ」
 楊文は礼を言って、番頭に酒手を渡した。渡し方が堂に入っている。人に物を尋ねる作法を、体で知っている男である。

 翌朝、宿場の通りに市が立つ。
 両側へ筵と台が張り出し、青物が山を作り、蕨や独活が籠から溢れていた。飴売りには子供が鈴なりとなり、鍋を直す槌、川魚を売る呼び声、値を争う客の声がぶつかり合って、通りぜんたいが一匹の生き物のように鳴いている。
 三日前まで、二人は音の死んだ山にいた。この喧噪を分けて歩くうち、楊文の声は半段高くなり、歩幅も心持ち大きくなる。
 旅で減った物を買い足す日である。草鞋、麻縄、油、塩、それから沈曉の符の紙と朱。
 最初の草鞋屋で、事が起きる。
 と言って、店主が悪いのではない。旅の客と見た店主は、まず倍の値を言った。それが市の作法である。言われた沈曉は頷いて、素直に懐へ手を入れた。
「待て待て待て」
 楊文が横から袖を引いた。
「親父、それは都の値段だろう」
「へへ、お目が高い」
「高いのは値だ。半分にしろ」
「そりゃ殺生だ。二割引きまで」
「四割。連れは歩くのが仕事でな、減りが早い。また買いに来る」
「……三割五分」
「買った」
 やり取りの間、沈曉は草鞋を持ったまま、真剣な顔で二人を見比べている。値が決まると、店主に向かって生真面目に確かめる。
「品は、同じものですね」
「同じだよ」
「値だけが、変わるのですか」
「……そういうもんだよ、お客さん」
「不思議な商いです」
 心底から不思議がっている声である。店主は毒気を抜かれた顔になり、鼻緒の替えを一組、黙っておまけに付けた。
 次の油屋では、沈曉が口を開く前に袖を引かれる。
「まだ、何も言っていませんが」
「言う前から分かる。あんたのは、言い値で買う顔だ」
「顔で分かるものですか」
「もう市じゅうに知れてる」
 紙屋では、逆のことが起きた。
 符に使う紙を、沈曉は選び始める。漉きの目を光に透かし、指の腹で厚みを確かめ、束の中から迷いなく三帖を抜き出した。店主の目の色が変わる。抜かれた三帖は、店のいちばんいい紙だった。
「お目が高い。こちらは値も張りますが」
「これを」
「値を聞け。せめて聞いてからにしろ」
「聞いても、買います。目の詰んだ紙は、朱を吸いません。吸わなければ、字が残ります」
「だろうな……」
 楊文は額を押さえたが、今度は袖を引かなかった。良い符が良い紙からしか生まれないことくらい、この数日で見て知っている。引く代わりに、勘定の間、腕を組んで何かを考えていた。
 考えの答えは、店を出たところで出る。
「財布、俺が預かる」
「……はい」
 沈曉は素直に巾着を渡した。中を検めた楊文の手が、止まる。つまみ出した一枚を、日に透かした。
「おい、これ」
 銭である。ただ、色が違った。すり減って縁が丸く、刻まれた年号が読み取れないほど古い。日に透かすと、模様の名残が影のように浮かんで、それも形にはならない。長い歳月が、字を窪みへ、窪みを平らへと磨き上げた一枚である。店先から首を伸ばした紙屋の店主が、ほう、と声を上げた。
「こりゃまた、古いお銭だ。先代どころの騒ぎじゃないよ。なんなら、いま買ってもらった紙とその一枚、替えっこしてもいいくらいだ」
「駄目です」
 返事だけが、妙に早かった。
 沈曉は手を出してその一枚を受け取り、巾着とは別に、懐の奥へ仕舞う。その指は銭を扱うには少し丁寧だったが、楊文は形見の類だろうと得心したらしく、一言だけ呆れた声を漏らした。
「あんた、財布に何を入れて歩いてるんだ……」

 財布が替わってからの市は、楊文の独擅場である。
 曰く、旅の買い物は昼前に限る。昼を過ぎると売り手が強気になる。曰く、値切りは三度まで。四度目は喧嘩の値段になる。曰く、釣り銭は店先で数える。数えるのは疑うことじゃなく、後腐れをなくす礼儀だ――
 講釈のひとつひとつに、沈曉は生真面目に頷いた。頷くだけでなく、覚える顔で頷くのである。乾物屋の前で、教わったことを試す気になったらしい。干し肉を指して、いつもの平らな声で言う。
「もう少し、安くなりませんか」
 抑揚も、駆け引きの色もない。言うだけ言って、あとは黙って店主を見た。値切りの続きを、まだ習っていないのである。
 沈黙だけが、少し長くなる。店主は背筋を伸ばし、黙って一割引いた。
「……なんで今ので通るんだ」
「三度までは、値切ってよいと」
「一度で済んでたぞ」
「二度目は、要りませんでした」
「そういうことじゃ、ねえんだよなあ」
 次の八百屋でも、同じ声で同じことを言い、同じだけ黙る。値引きの上に、葱を一把おまけに付けられ、店主の方が、なぜ付けたのか自分でも分からない顔をしている。
「分かったぞ。あんたのは値切りじゃない。なんというか……お上のお達しだ。逆らえない感じがする」
「褒めていますか」
「褒めてない」
 そう言う楊文の口の端には、この旅で初めて見る、屈託のない笑いが浮かぶ。
 宿に戻って荷を検めると、買い覚えのない小さな袋がひとつ出てきた。楊文が摘まみ上げる。飴である。
「薬を苦がる患者に、含ませるためのものです」
 聞かれる前に、沈曉が言う。
「……患者、今どこにいるんだ」
「これから、いるかもしれません」
 楊文は袋と沈曉を二度見比べ、何か言いかけてやめると、袋の口を丁寧に縛り直し、荷のいちばん上の取り出しやすいところへ置いた。

 夕餉は宿で取る。
 川魚の塩焼きに、菜飯と汁。膳を挟んで、楊文が帳面を広げる。今日の払い、残りの路銀、この先の宿代の見当。筆はやや太いが、数字の並びは几帳面である。
「山じゃ、買い出しはいつも俺の役目だった」
 帳面から目を上げずに、楊文が言う。
「値切るのがうまいからって、師匠が。……で、そのたびに下山してたわけだ」
 筆の音だけが、しばらく膳の上に続く。あの日の買い出しの話だとは、どちらも口にしない。やがて楊文は帳面を閉じ、路銀は当分持つ、たぶん俺が生き延びた分の役目だ、というようなことを、ずっと軽い言葉で言った。
「あんたは薬と符の番だ。俺は銭の番。悪くない手分けだろ」
「はい」
「返事がいちいち素直なんだよな、あんた……」
 膳が下げられ、灯りを落とす刻限になる。
 窓の外を夜回りの鉦が過ぎてゆく。宿場の夜は山より音が多く、戸を閉める音、酔客の笑い、厩の馬の鼻息をひとつずつ聞き分けるたび、沈曉の体から遅れて力が抜けた。悪意のない物音の中で緩むことを、長く忘れていたのである。
 壁の薄い宿である。隣室の旅人たちの声が、酒の入った調子で筒抜けに聞こえてくる。街道の噂話、馬の値段、どこそこの関所の混みよう。聞くともなく聞いていた声が、ふいに低くなった。
「――おい、聞いたか。また出たらしいぞ」
 隣室で、箸の置かれる音がする。
 また、という一語だけが薄い壁を抜け、部屋の真ん中へ落ちた。楊文が半身を起こし、沈曉は灯りへ手を伸ばしかけた形のまま動かない。
 声は続いている。

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