天理の石 — 第6話
第六話 火の番
壁が、薄い。
酒の回った声が隣室から筒抜けになり、楊文は横になったまま帳面を引き寄せ、手探りで筆を取る。話し手は西から来たらしい行商、聞き手は二人ほど。酒を注ぐ音と合いの手のあいだから、行きつ戻りつする話を拾えば、およそこういう筋になる。
西へ二日。谷あいに、|棠梨《とうり》の花で白くなる村がある。半年前、行商が通った折には祝言を控えた家があり、村じゅうが浮かれていた。婿となる男は石臼のような体で、よく笑う、気のいい若い衆だったという。
それから半年、その祝言はいまだ挙がらぬままである。
ふた月ほど前に再び通ると、村人は揃って口を閉ざし、婿の話を出した途端に婆から塩を撒かれ、宿さえ断られた。仕方なく日暮れの道を隣村へ急いだ、その途中で——
「……聞いたんだよ。村はずれの方から」
壁の向こうで、声が低くなる。
「連れは獣だろうと言った。だが俺は猟師の倅だ。獣なら、何の獣かまで分かる。あれは、どの獣でもねえ。かと言って――」
人でもねえ、と続くはずのところで、杯を呷る音がする。聞き手の一人は笑い飛ばそうとして声を滑らせ、もう一人が、婿はそれからどうなったのだと訊いた。
「知らんよ。村の連中は隠してる。家から出さねえのか、どこかに繋いでるのか。……昼間は元のまんまだ、って話も聞いたがな。夜になると、ああなる。もう幾月もだ。あの村はめでたい飾りを下げたまんま、葬式みてえな顔で暮らしてるのさ」
隣室が静まり、楊文の筆も紙の上で止まる。
昼間は元のまんま。
そこだけが、白澗の夜と合わない。
「……昼は、人に戻るのか」
壁ではなく、同じ部屋の暗がりへ向けた声である。
「白澗の連中は、戻らなかった。朝になっても昼になっても、ずっとあのままだった。同じものなら、なんでそいつだけ」
「分かりません」
楊文は一度だけ押し、あとは黙る。市なら、話の合わぬところを拾って一度押せば、四半刻もせぬうち相手の口が勝手に開いた。
沈曉の口は開かない。息も寝返りも聞こえず、けれど眠りを装う静けさではなかった。待たれていると承知した者が、その重みごと引き受けて座っている沈黙である。
「見なければ、分かりません」
やがて返ったのは、それだけだった。
「見れば分かるのか」
「多少は」
楊文は帳面を閉じる。
押すべき場所なら、もう拾ってある。指を掛ければ、おそらく届く。ただし、その先にあるものを楊文は知らない。見えぬところへ力任せに踏み込む一歩を控え、再び横になって目を閉じると、眠りはいつもより遅く来た。
翌朝、二人は街道を離れ、西へ折れた。
田の間を抜ける道は緩い丘を幾つも越え、深まりゆく春の下、伸びた畦草と水を張り始めた田に空が映る。街道を外れれば轍は浅く、半日も行くうち人影が減って、日が傾く頃には道も風も二人のものになる。
足が、速い。
気づいて戻しても、幾町か行けばまた速まる。白澗観を出て初めて、手がかりらしい手がかりを掴んだのである。
隣の足音は揺れず、楊文が先へ出たぶんだけ遠ざかり、歩を戻せばまた重なる。追いも急かしもせず、朝から同じ歩幅を刻み続けている。
丘の上で一度足を止めると、暮れ残りの空には、もうじき消える細い月が低く懸かっている。
半年前には祝言があり、ふた月前には村が黙った。その間のどこかで起きたことが、いまも谷の奥に続いている。
なら、行けば会える。
会って、どうする。
斬れるものなら斬る。刃の通らぬものなら、その先を見分ける目は隣の男が持っている。
そして、その男をこの道へ連れて行くのは自分だった。
考えはそこで尽きた。楊文は消えかけた月をもう一度仰ぎ、丘を下り始める。
夜は川原で野営となる。流木には事欠かず、楊文は日のあるうちから拾い集め、一晩には多すぎるほど火の脇へ積んだ。それでも足りぬ気がした理由を、このときはまだ知らない。
「今夜は、俺が先に起きてる。あんたは寝ろ」
火を組む手を止めずに言う。
「ここのところ、通しで起きてばかりだろう」
「夜目は、私の方が利きます。番は――」
「なら朝方に替わってもらう。先に寝ろ」
沈曉は、洗ってある椀をもう一度すすごうとする。
「薬の検めは、昼にやってただろ」
次に薬箱の紐へ手が伸びる、その前に言う。行き場を失った手が止まり、それから符の紙へ移ったので、
「三日前に数えてた。増えても減ってもいねえ」
と、それも塞いだ。
椀、薬箱、符の紙。この十日ばかり、夜ごと辿る順番を、楊文は荷を積む手順と同じように覚えていた。
三つとも先を塞がれた沈曉は火へ目を戻す。断る言葉を探すというより、休むための手順だけを知らぬ顔だった。
やがて火に背を向け、いつもの向きに横になった。
夜番の火は、細く保てばよい。
だが半刻もせぬうち、その細さでは足りぬと知る。
寝息が、変わった。
浅まり、間が詰まり、ふいに途切れたかと思うと急に始まる。眠りの息というより、暗い水の底から、わずかな隙間を探して浮かんでくる呼吸だった。
楊文は膝を起こす。火に背を向けた顔は見えず、夜具の襟と、暗がりへ沈む肩の線だけがある。その肩は寒さとは違う細かさで震えていた。
手が出る。
肩に触れる寸前で、止まった。
起こせば目を開け、いつもの顔で、何でもありません、と言うだろう。その顔を前にすれば、今夜も二人で朝まで起きることになる。
それでは、勘定が合わない。
楊文は伸ばした手を引き、その指で薪を掴んで火へくべた。木の皮が爆ぜ、赤い粉が舞い上がる。
寝息が、緩んだ。
道理は分からない。ただ、火が育てば隣の息は落ち着き、熾が細れば呼吸の間も詰まる。
だから、また足した。
二度目。三度目。
四つ目で数が分からなくなる。十五の牌を壁へ立てかけた朝にも、同じところで数を失った。
もう数えず、火の細るたびに足す。
夜半、沈曉が寝返りを打って火の方を向くと、額には汗が浮いていた。春の夜にかく汗ではない。
楊文は手拭いを川で濡らし、固く絞って額へ当てる。冷たさが移るだけの間を置き、目を覚ます前に離した。
火明かりは額の汗だけを照らし、楊文はその下にある顔へ目を下ろさない。
一度、声が洩れた。言葉になりかけて崩れ、もう一度洩れた声で、ようやく数を数えているのだと分かる。
何の数かは知れない。途中で切れては戻り、戻れば最初から始まる声を、楊文は火越しに聞いていた。
薪を足す。
声が、止んだ。
二晩分のつもりで積んだ薪は、一晩のうちに底を見せる。足りぬ気がした理由を知る頃には、火の脇に残るのも細い枝ばかりである。
夜を通して川ばかりが絶えず流れ、東の空が白む頃、隣の息はようやく眠る者の呼吸へ戻る。
沈曉が目を覚ましたのは、いつもより遅い刻だった。
「おはようございます」
「……寝てない」
寝ていた。胡座のまま、半刻ばかり意識を落としていたらしい。
湯を沸かそうとした沈曉の手が、残り少ない薪の上で止まる。次いで灰の厚さへ目を移した。夜番の細い火ではなく、夜通し大きく保たれた火の跡が、そこに残っていた。
その顔が上がるより先に、楊文が言う。
「……冷えたんだ、ゆうべは」
春にしては、と返されるかと思ったが、沈曉は残った薪を火へくべ、鍋に水を張るだけだった。
昨夜のことを口にすれば、まず詫びて、次には眠らずに済ませる工夫を三つばかり増やすだろう。楊文は黙って、鍋の底を舐め始めた火を見る。
畳まれた夜具は襟だけ色を深くし、干す間もなく、いつもの手つきで荷に括られてゆく。川面には朝靄が低く這い、夜通し鳴っていた水も、明るみの中ではただの浅い流れに戻っている。
何も知らない朝と、何も言わない朝が、同じ火で湯を沸かしていた。
朝餉のあいだ、楊文はあくびを三度嚙み殺し、三度とも失敗した。歩き出せばいつもの調子に戻り、足音だけは昨日よりよく揃う。
昼下がり、道は谷へ入る。
初めは道端に一本、二本だった棠梨が、奥へ進むほど枝を連ね、やがて斜面ぜんたいを白く埋めた。噂の村は、この花の尽きるところにある。
村口の老木に、紅いものが下がっている。
紅布、組み紐、対の提灯――婚礼の飾りなら、白い花の谷でそこだけ火のように見えるはずだった。
近づくにつれ、その紅が褪せているのが分かる。
布の端はほつれ、雨染みが筋を引き、破れた提灯から細い骨が覗いている。昨日今日の飾りではなく、外す時を失ったまま、幾月も風雨に晒されてきた紅である。
祝いを終えれば外し、不祝儀なら仕舞う。そのどちらにも行き着かなかった色だけが、誰の手にも触れられず、枝の上で季節を越している。
谷を渡る風に棠梨の花びらが散り、褪せた組み紐へ触れて落ちた。
白い花は今年の春に咲き、婚礼の紅だけが、去年の時に取り残されていた。