天理の石 — 第7話
第七話 冥婚
|棠梨村《とうりそん》は、花の底にある。
谷川に沿って段々の田が上がり、低い石垣を挟んだ一本道の両側に、白壁と灰瓦の家が二十戸ばかり並ぶ。家々のあいだを縫う水路は音を立てて流れ、その水面まで棠梨の花びらで白い。
斜面という斜面に花が満ち、風のたび粉雪のように道へ吹き込んでくる。香りは淡いのに谷いっぱいへ行き渡り、息を吸えば胸の奥まで白くなるような、年に幾日もない盛りである。
その花の下を、人々は俯いて歩いていた。
畑へ出る鍬を担いだ男も、水桶を提げた女も、顔を上げない。二人が道を譲っても会釈は返らず、目は合う寸前で、音もなく戸を閉ざすように伏せられた。
「……こんにちは、って言っただけなんだがな」
楊文が小声で言う。物珍しげに寄りかけた子供は、家の中から伸びた手に袖ごと引き戻され、戸の閉まる音だけが通りを渡った。
村では、暮らしの音が半分ほど欠けている。
鶏と水路は鳴き、田には水も張られているのに、機の音、槌の音、子を叱る声がない。井戸端へ女が三人寄っても、口を閉じたまま水を汲む。畑には持ち主を失ったような鍬があり、水路の曲がりには掬われぬ花びらが溜まって、縁から薄茶色に饐え始めていた。花は盛りでも、それを片づける手が村から消えている。
痩せた犬が一匹、道の端からついてくる。吠えもせず、目だけで二人を追い、楊文が乾いた肉を投げると、餌とその手を長く見比べてから、肉だけ咥えて塀の陰へ消えた。
軒先には、村口の老木と同じ、褪せた婚礼の紅が残る。とりわけ谷の奥の一軒は、門柱に対の提灯を掛け、扉に紅紙の喜の字を貼ったまま、祝いの支度ごとひと冬を越したように古びていた。対であるはずの字は片方が剥がれ、白い扉に糊の跡だけを残している。
村人はその家の前で歩みを速め、誰も飾りを見上げない。目を逸らすために、かえって首筋へ力が籠もるような見なさだった。
楊文は歩きながら、懐の帳面を親指で開いた。行商の話と、目の前の村とを、頁の上で突き合わせている。祝言はふた月余り前のはず。飾りの古び方が、合う。村の口の重さも、合う。
「合いすぎて、嫌になるな」
帳面を閉じて、楊文は言った。
村に客桟はなく、宿探しは難航する。
いつもの楊文なら、畑の隅で一服する年寄りから煙管の火を借り、井戸端の女に道を尋ね、四半刻後には誰かの軒先で茶を飲んでいる。白澗観を発って以来、その調子で通らぬ村はなかった。
ここでは、煙管の火さえ借りられない。
年寄りは煙管を仕舞って立ち去り、井戸端の女たちも桶を抱えて散る。雑貨屋らしき店では、二人が近づくだけで表戸が半分閉まり、泊めるところはねえよ、と、聞かれる前から声がする。
「……俺、なんかしたか」
「いえ」
「だよな。あんたは何もしてないよな」
「はい」
「そこは、二人とも、と言ってくれ」
日が傾き始めた頃、ようやく里正らしい年寄りが一人、根負けした顔で出てきた。二人を上から下まで眺め、腰の剣に長く目を留めてから、顎で谷の外れを示す。
「土地廟なら、空いとる。雨露はしのげる」
「助かる。宿賃は——」
「要らん」
年寄りは銭へ目も遣らず、一つだけ付け足す。
「日が落ちたら、廟から出るな。灯りも、表に漏らすな。……朝までだ」
「聞いても、答えちゃくれないんだろうな」
年寄りは問いに応じず、もう一度だけ、同じことを言った。
「朝までだ」
土地廟は、村外れの丘の裾にある。
小さな祠の奥に土地神が一体、暗がりを背負って座っていた。彩色は剥げ、かつて笑っていたらしい口元も曖昧で、肩には埃が積もっている。供物皿は乾いて空のまま、谷じゅうに溢れる花も、神前にだけ一枝として届いていない。
「……罰当たりな村だな」
「いえ」
沈曉は皿の埃を指先で確かめた。
「拝む先を、失くしただけでしょう」
「拝んで、駄目だったってことか」
「皿の乾き方が、そう言っています」
二人は像の前に立つ。楊文が土地神へ告げる詞を口の中で唱えかけ、途中で詰まったところを、沈曉が声を潜めて終えた。一礼ののち隅へ筵を敷き、乾いた餅と残りの肉で夕餉を済ませる。火は焚かず、携行の灯りを一つ、扉へ背を向けて置いた。言いつけの理由を知るには、まず同じ夜を過ごすほかない。
夕暮れの村から二十戸分の炊煙が上がり、谷底へ薄く棚引いて、飯を炊く匂いが廟まで届く。暮らしは絶えていない。ただ、息を潜めることが暮らし方になっている。
日が、落ちた。
村の方角に、灯りがぽつぽつと点る。細い月が谷の上に浮かんで、白い花ばかりが夜目にも仄白い。楊文は扉の隙間から村を眺め、帳面に何かを書き付け、それからは黙って剣の手入れを始めた。油布を握り直す時に、一度だけ左の肩が止まる。糸はまだ入っている。
夜半――谷の奥から、声がした。
初めは風かと思うほど低く、聞いているうち風にはあり得ぬ長さへ伸びてゆく。
長い。
獣も人も、声は息で切れる。けれどそれは切れぬまま高まり、張りつめたところで折れるように落ち、また底から始まった。谷の斜面に反響して一つが三つにも四つにも重なり、呼ぶ声にも、遠くからの呼びかけに応える声にも聞こえる。
楊文の手が、剣の上で止まっていた。
動かないのではない。動けるのに、動く先がない手だった。
沈曉は扉の隙間に寄り、村を見た。
灯りが、消える。
一軒ずつではない。声が始まってひと呼吸のうちに、村じゅうの灯が申し合わせたように落ちた。悲鳴も、戸を叩く音も、犬の声も上がらない。幾夜も繰り返し、手順として体へ染みついた消え方である。
誰も、騒がない。
声は長い時をかけて細り、やがて途切れる。それでも谷の底には響きが残り、村の灯りだけは朝まで戻らない。
「……あれが」
楊文が低く言い、それきり続きを口にせず、剣を抱え直して壁に凭れる。二人とも横にならぬまま朝を待ち、廟の土地神だけが、暗がりで何も言わずに座っていた。
夜が明け、二人は水を汲みに井戸へ出る。村はまだ半分眠り、井戸端には腰の深く曲がった老婆が一人、先に来ていた。
沈曉が黙って釣瓶を引き上げ、婆の桶へ先に注ぐ。婆は礼も拒みも示さず、水面が満ちてゆくのを見つめている。
「……昨夜の声を、聞きなさったろ」
問いの形を借りた確かめである。楊文が頷くと、婆は桶を持ち上げ、二人のどちらでもない、谷の奥へ目を遣る。
「婿どのは、もう呼ばれとる」
それだけ言って、婆は水を運んで行った。曲がった腰が、白い花の下を遠ざかっていく。
残された桶の水に、明け方の細い月が揺れていた。
呼ばれとる。
婆はその言い方を、決まった作法のように使った。この谷で、その一語だけが古い。
沈曉は釣瓶の縄を巻き戻しながら、水面の月が静まるのを待った。
静まったところで、二杯目を汲んだ。月は、また揺れた。
声の主の家は、尋ねるまでもなく村人の視線が教えた。二人が谷の奥へ向かうと、方々から目が集まり、例の家に近づくにつれて一斉に逸れてゆく。見ることと見ないことの境目に、その家はある。
片方だけ残った喜の字の、あの家である。
近づくと、昨日は分からなかったものが見えた。母屋の脇に、納屋を建て直した小屋がひとつある。壁の木口がそこだけ新しい。窓は高く小さく、奥の一間を太い格子で仕切って、外から閂を掛けられるようにした造りだった。数ヶ月前の、急ごしらえである。
訪いを入れると、母屋から年配の女が出てきた。
二人の旅装と剣を見て、女の顔から血の気が引いた。
「……うちには、何も。お参りなら廟の方へ」
「昨夜の声のことで」
楊文が言い終える前から、女は首を振り、体で小屋への道を塞ぐ。
「帰っとくれ。見世物じゃねえ」
「見世物にしに来たんじゃない。俺たちは——」
「道士様なら、前にも来てもらった」
女の声が、そこで初めて割れる。
「三人も来てもらった。祓いも、符も、|煉度《れんど》だとか言うて沐浴の祈祷も。何ともならなかった。銭だけ取られて、あの子は——」
言葉はそこで尽き、二人も先を埋めない。
その沈黙を分けるように、小屋から声がした。
「……母ちゃん」
低く、よく通る声である。
「入ってもらってくれ」
「阿石」
「見てもらった方がいい。俺がどういうもんか、分かってもらってからの方が、夜に間違いがねえ」
女は小屋を振り返り、次に二人を見て、何かを諦めた顔で道を空ける。
小屋の中は、異様なほど綺麗である。
土間の向こうに太い格子が組まれ、その内側が板敷きの一間になっている。夜具は畳まれ、食器は隅に伏せられ、床には塵ひとつない。高窓からの光は一日の僅かな刻だけ、決まった場所へ落ちるらしく、その一角だけ板の色が淡く灼けていた。
牢の形をした部屋に、暮らしだけが崩れず立っている。それを立たせているのは、格子の内側の男だった。
格子の向こうに、大きな男が座っていた。
|阿石《アシー》と呼ばれた男である。石臼のような体、と行商は言った。その通りの造りの体から、ふた月分の肉が落ちている。それでもまだ大きい。男は膝を揃えて座り直し、格子越しに、深く頭を下げた。
「昨夜は、すまなかった。……あんたら、廟に泊まった旅の人だろう。さぞ、おっかなかったろう」
話は詫びから始まり、村の非礼、母親の剣幕と順に詫びて、ようやく自分のことへ移る。
昨夜、谷を満たしたものと同じ喉から、よく通る、飾りのない畑の声が出ている。話すあいだ、太い手がときおり板の目を撫で、行き場のない力が指へ籠もっては抜ける。
「変わったのは、ふた月と少し前だ。ある晩から、夜になると覚えがなくなった。朝、気がつくと家の中が荒れてて、爪が割れてる」
「それで、ここを」
「三晩目に、親父の腕を折りかけた。それで自分から頼んで、組んでもらった」
「祝言は」
「十日後だった」
阿石は、十日後のはずだった、とは言い直さない。
「きっかけに、覚えは」
楊文が訊く。
「ねえんだ。それがいちばん、気味が悪い。誰かの恨みを買った覚えもねえ。山で妙なもんに触った覚えもねえ。畑に出て、飯を食って、寝た。……いつも通りの日の、次の晩からだ」
阿石は自分の掌を見下ろす。厚い、働く者の掌である。
「夜の俺が何をしてるのか、俺は知らねえ。声だけは、母ちゃんから聞いた。だからあんたらにも、昼のうちに言っとく。日が落ちたら、この小屋に近づくな。……格子は太いが、俺は力だけは強えんだ」
沈曉は格子を見る。大人の腕ほどもある樫の角材、その内側の低い場所にだけ、爪痕が幾筋も走り、木の面が毛羽立っていた。同じところを、幾夜も掻いた痕である。
昼の阿石の爪は、肉へ沈むほど短く切り揃えられている。
家を出て、楊文は黙って歩いた。
口を開いたのは、水路の橋を渡る時である。
「……似てる」
相手を名指さずとも、沈曉には分かる。
「息の詰まり方が、時々あの連中と同じになる。話してる最中に、ふっと。あんたも見てただろ」
「ええ」
「だが、違う」
楊文は足を止めた。
「白澗の連中は、喋らなかった。詫びたりしなかった。朝も昼もなく、ずっと、あのままだった。……あいつは昼は人で、夜だけああなる。同じもんなら、なんでだ。違うもんなら——」
違うもんなら、何なのだ。
問いは形にならぬまま水路の音へ呑まれ、沈曉から返ったのは、今夜見せてもらいます、の一言だけだった。
日暮れ前、二人はもう一度あの家を訪ねる。
夜の観察は阿石自身が許し、母親は最後まで渋りながらも、灯りと茶を運んで、日が沈む前に母屋へ引き上げる。
土間の隅に灯りを置き、二人は格子から三歩の距離に座る。
その前に、沈曉の目が地面の一点で止まった。格子のすぐ外、土間の一箇所だけが擦り切れたように滑らかで、誰かが夜ごと同じ場所に座り続けた跡を留めている。夜の小屋に残る者はいない、と村人は言う。
沈曉は何も言わず、その跡を避けて座った。
日が、落ちた。
変化は、音から始まる。
格子の内で阿石の息が浅まり、間遠になり——止まった。
息のない体は倒れず、座った形からゆっくり立ち上がる。昼には二人を真っ直ぐ見ていた顔が、灯りの方角を一度も向かぬまま格子の内を歩き出し、右と左の歩幅だけが不揃いに板を踏む。
瞬きが、ない。
息の音が、ない。
生きている体から、生きている徴だけが順に退いていくのを、沈曉は灯りの際で見ていた。楊文は膝の上で拳を握ったまま、身じろぎもしない。
灯りの炎だけが、微かに揺れている。
小屋の空気が、日暮れとともに冷えてゆく。春の夜気とは違う、水底に似た動かぬ冷たさである。熱を生まぬ体がひとつ立つだけで、部屋の底から季節が失われていった。
夜半、声が来る。
昨夜は谷越しに聞いたものが、いまは格子一枚の向こうにある。喉から出ながら息を使わず、吸いも吐きもしない胸から、長い切れ目のない声だけが立ち上って、谷の外のどこか遠くへ向かう。
呼んでいるのか。応えているのか。
声の主の体は、格子の向こうで、外の闇の一点を向いたまま動かなかった。
沈曉の目は、息の絶えた胸、止まった瞬き、不揃いな歩幅を、白澗観で見た徴とひとつずつ引き合わせてゆく。形は合う。けれど根が浅い。日暮れとともに現れた徴は体の芯まで届かず、何かに阻まれ、途中で止まっている。
打ち込まれて、打ち込みきれていない。
夜明けが近づくにつれ声は細り、阿石の体が板敷きへ崩れ落ちた。そこで初めて大きく息を吸う。
生きている音だった。
眠りへ落ちた男の胸が、ゆっくり上下し始める。
窓の高いところが、藍色に変わっていく。
夜通し立ち続けた体は、崩れた形のまま深く眠っている。太い指だけが一度、何かを探すように板の上を動いて、止まった。
沈曉は灯りを引き寄せ、白み始めた格子の内を見つめたまま呟く。
「……失敗している」
楊文が顔を上げた。聞き返す言葉より先に、沈曉はもう立ち上がって、眠る阿石の呼吸を数えている。
廟に戻り、筵に横になって、泥のように二刻ばかり眠った。
目覚めると、高窓から差す光はもう昼の色で、土地神の剥げた顔が、その光の中に黙って浮かんでいた。
外へ出ると、村の様子が変わっている。
畑に、人影がない。
代わりに道の口々へ年寄りが二人三人と固まり、低い声で何かを話し、二人が通ると口を閉じた。昨日までの拒む目とは違い、今日は決まりの悪さに似た色を帯びて伏せられる。
昼前になって、その理由が分かった。
里正の家に、人が集まったのである。年寄りばかりが十人ほど、順に敷居をまたいでいく。装いは常のままなのに、どの顔もどこか改まっていた。最後の一人が入ると戸が閉められ、昼日中の村で、その家だけが夜のように静かになった。
谷の上を、雲がゆっくり流れていく。
花は今日も散り続け、閉まった戸の前の石段へ白く積もってゆく。誰も、掃きには出てこない。
「集まりだな」
楊文が呟く。何を決める集まりなのかは分からず、二人も呼ばれていない。近づこうとする楊文を、通りかかった女が身振りだけで押し止める。
二人は井戸端へ戻って水を使い、そこで女たちの低く途切れがちな話を拾った。聞くまいとして、かえって耳へ入る類の声である。
「——|杏児《シンアル》が、また昨夜も」
「夜通しだと。親が泣いて連れ戻しに行っても、朝まで動かんそうな」
「気が触れたんだ、あの娘も。もう決まることだのに」
「決まる、って。ほんとうに、やるのかね」
「やるしかなかろうよ。……婆様の時分にも、一度あったって言うでねえか」
女たちは水を汲み終えると、口々の道へ散ってゆく。
杏児、という名。決まる、という言葉。婆様の時分、という言葉。三つが後に残って、どれも中身が分からない。楊文は帳面にその三つだけを書き付けた。
「決まる、ってのは、何が決まるんだ」
「……阿石のことでしょう」
それきり二人は、閉ざされた戸を前に待つほかない。
集まりは昼過ぎに終わり、出てきた年寄りたちは誰とも口をきかず、それぞれの家へ散ってゆく。その日は結局、畑へ出る者もなく、村は何かを決めた後の顔で静まり返った。
夕暮れ、廟に人が来る。
里正の年寄りである。決まったことを、旅の者にわざわざ告げに来た——その足取りだけで、告げねばならない類の決定であることが知れた。
年寄りは敷居の外に立ったまま、なかなか口を開かない。夕日が、その背の向こうで谷の白い斜面を淡い茜に染めていた。楊文が白湯を勧め、断られ、断ってから、年寄りは観念したように土間の縁へ腰を下ろした。
腰を下ろしてからも、年寄りは廟の土地神から目を離さない。拝みはしなかった。ただ、見ていた。
「あんたらは旅の人だ。二日もすりゃ発つ。……だから、聞かなかったことにして発ってくれ」
「何をだ」
「衆の集まりで、決まったことをだ」
年寄りは、膝の上で拳を組んだ。
「阿石に、祝言を挙げさせる。三日後の晩に」
楊文が、目を上げた。
牢の中の男に、祝言。言葉としては、めでたい。それでも意味の取りようがなくて、楊文は聞き返した。
「……祝言を挙げて、それから、どうなるんだ」
「送る」
その一語で、楊文の顔から表情が消えた。
廟の外では、風が花を渡る音だけが続いている。声にされぬものばかりが、この谷では白い花びらのように降り積もる。
年寄りは、こちらが何も知らずに聞き返したのだと悟ったらしい。膝の拳を解き、ゆっくりと、順を立てて話し始めた。何百年、この谷で語り継がれてきた話である。
「呼ばれる、ちゅうのはな。あの世の側に、先約ができるっちゅうことだ」
昔から、何十年かに一度、あるのだという。婚礼を控えた婿が、ある晩から夜ごと人でなくなる。それは冥界の側が婿を見初めて、呼んでいるのだ——夜ごとの声は、呼ばれて、応えている声なのだと。
「呼ばれた婿は、もう半分あちらのもんだ。医者にも道士にも、どうにもならん。うちの婆様の時分にも一度あって、その時は……呼ばれたまんま、ほっといた。婿は牢を破って山へ入って、冬に、谷で見つかった。それからの三年、村じゃ人がよう死んだ。祟った、と皆言うた」
井戸端の女たちが言っていた、婆様の時分、である。
だから、送るのだという。
「娶らせもせんで死なせるから、迷って祟る。ちゃんと祝言を挙げさせて、夫婦にして、婚礼の形のまま、あちらへ発たせてやる。そうすりゃ収まりがつく。婿はあちらで居場所をもらえるし、村は祟られん。……それが冥婚だ」
「送るって」
楊文の声は、低い。
「どうやってだ」
年寄りはすぐに答えず、その間が、答えの半分を占めている。
「祝いの酒に、眠りの薬を混ぜる。……苦しませはせん。眠ったまま、発ってもらう」
沈黙が、廟に降りる。
楊文が何か言いかけるのを、年寄りは手で制した。その手は、膝の上にあった時よりも強く震えている。
「言いたいことは分かる。儂らが鬼に見えるだろう。……だがな、旅の人。できることは、みんなやったんだ。道士様を三人呼んだ。祈祷も、符も、沐浴も。銭も出した。ふた月、待った。あの子の親は、儂の従弟だ。阿石は、儂が名付けた子だ」
声は、しまいの方で崩れかけて、崩れなかった。
「近頃、声が強くなっとる。夜が明けても戻りが遅い日がある。皆、気づいとるんだ。もう長くは保たん。……三日後は、新月だ。陰が極まって、あちらとの境がいちばん薄くなる晩だ。送るなら、その晩しかない。逃せば次の新月まで、ひと月。この村は、もうひと月は保たんよ」
年寄りは立ち上がり、腰を伸ばし、最後にもう一度だけ言った。
「聞かなかったことにして、発ってくれ」
返事を待たず、年寄りは夕暮れの道を帰ってゆく。
楊文は土間の縁に座ったまま、口の中で、三日後、と繰り返す。沈曉が白湯の椀を置き、その手は縁の上で僅かに止まったが、楊文の目は追わなかった。
「……本人は。阿石は、頷いたのか」
誰にともなく、楊文が言う。
日が落ちると、二人は谷の奥へ向かう。廟から出るなという言いつけを、今夜は破ると決めていた。月は昨日より細く、あと三日で尽きる。道を照らすには、闇に仄白く浮かぶ棠梨の花だけで足りる。
あの小屋の手前まで来ると、二人は足を止める。
格子の外の、あの擦り切れた場所に、人が座っていた。
小柄な娘だった。薄い衣に上掛けを羽織っただけで膝を抱え、格子へ横顔を向けている。灯りはない。この場所へ夜ごと通う道を、足が覚えているのだろう。
格子の内に、大きな影が立っている。
夜の阿石である。今夜は、あの長い声を上げていなかった。娘のいる側の格子際に立ち、立ったまま、時折、喉の奥から掠れた音を漏らす。声になりそこねた、息だけの音である。
夜気は冷え、娘の羽織の肩に、散り込んだ花びらが幾ひらか白く載っている。払った様子がない。積もるに任せて、座り続けているのだった。
娘は、それに返事をしていた。
「……うん」
掠れに、うん、と返す。
「今日はね、上の田に水が回ったよ。あんたが直した樋、ちゃんと保ってる」
掠れ。
「うん。……犬っころがね、また廟の旅の人に餌もらっとった。現金なやつ」
掠れ。
「うん。そう」
会話だった。
傍から聞けば会話にならぬものが、格子の両側では途切れず続いている。娘は返事のたび僅かに笑い、その笑みを引っ込めない。消せば崩れるものを、口元の形ひとつで支えている。
楊文は動けず、沈曉も声をかけぬまま、その会話の外に立っていた。ただ気配を隠さずにいたため、娘の方が先に気づき、膝を抱えたまま顔だけこちらへ向ける。
「……見張りですか」
「いや」
楊文が、それだけ言った。
「そう」
娘はそれだけで格子へ向き直る。旅の道士が阿石を診たことも、衆の決定も、とうに耳へ入っているはずだった。それでも問いも縋りもせず、この場所で夜を過ごすことだけを、ふた月続けている。
格子の内から、また掠れが漏れた。
娘が、返事をする。
「うん。ここにいるよ」
二人は、来た道を黙って戻った。
楊文は幾度か、何かを言いかけて、やめた。
振り返れば、花明かりの底に小屋の影と、その際の小さな影がある。夜の小屋に残る者はいないという村の言葉、その外側で、土間の座り跡は擦り減っていた。
ふた月。
一夜も欠かさなかったなら、六十夜である。届く先を確かめる術もなく、杏児は六十夜ぶんの冷気と花びらを肩へ積もらせ、掠れた音の一つ一つに、うん、と返してきた。
細い月が谷の稜線へ沈みかけている。あと三日で、その光も尽きる。
声にならない声に、杏児は今夜も返事をしていた。