天理の石 — 第8話
第八話 同じ屋根
朝の阿石は、もう知っている。
二人が小屋を訪ねると、格子の内で膝を揃え、いつもの座り方で待っていた。高窓から落ちる朝の光が、板敷きの灼けた一角だけを照らし、夜具は畳まれ、髪もきちんと撫でつけられている。昨夜のうちに里正から聞かされたのだろう。
「三日後だそうだ」
詫びも恨みも含まぬ、畑で天気を告げるような声である。
「叔父貴が、泣きながら言いに来た。……頷いたよ」
隣で楊文が息を呑む。阿石は格子の木目を撫でながら続けた。
「ふた月、考えたんだ。夜の俺が何をしてるか、俺は知らねえ。いつか格子を破るかもしれん。破った先に、母ちゃんがいるかもしれん。杏児が……あそこに座ってる」
阿石の目は、土間の擦り切れた場所だけを避けている。その避け方が、夜ごとそこにいる者を誰よりよく見ていた。
「祝言を挙げてもらえるなら、上等だ。あいつを寡婦にしちまうのは、悪いと思うが」
「馬鹿を言え」
楊文の声が掠れる。
「祝言だのなんだの、体裁だろうが。酒に薬を混ぜて殺すんだぞ。それを頷いたのか、あんたは」
「頷いた」
阿石は楊文を真っ直ぐ見る。石臼のような体から、ふた月分の肉を落とした男の目である。
「他に、何がある」
答えを持つ者はいない。
その沈黙のあとで、沈曉が診せてほしい、と告げる。阿石は素直に腕を差し出したが、求められたのは脈ではなかった。
「胸を、開けてください」
訝りながら阿石が襟を寛げると、分厚い胸板が格子越しの光へ現れる。沈曉は目を細め、灯りの角度を変えた。
鳩尾の皮膚の下に、文字とも紋様ともつかぬ青い影が、薄い痣となって透けている。
楊文の顔色が変わった。
白澗観の堂に並んだ骸を、この男は覚えている。あの晩、灯りを提げた沈曉が一体ずつ襟を開いて確かめていたものを、隣で見ていた。同じ場所、同じ向き、同じ形。生きて呼吸している男の胸に、それはあった。
「……いつからだ、これは」
「知らねえ。痛みも痒みもねえ」
「阿石さん」
沈曉は、初めてその名を呼んだ。
「これは、冥界のしるしではありません」
声は平らで、その平らさが、小屋の中の空気を変える。
「人が、打ったものです」
誰かが息を吸った。母屋の戸口で聞いていた母親か、その後ろの誰かか。沈曉は続けた。
「呼ばれているのではありません。繋がれているのです。命を留めて、留めきれずに、夜だけ引き剥がしている。……術です。それも、下手な」
「じゃあ、何だ」
楊文が、格子を掴んだ。
「解けるのか。解けるんだな」
「解けます」
断言だった。
診れば分かる、多少は、見なければ――留保ばかりを置いてきた男の口から、解ける、という一語だけが迷いなく落ちた。
楔の打ち方は浅く、芯まで届いていない。届いていないものは、抜ける。その見立てをどこで得たのか、沈曉は語らずにいる。
「ただし、日が要ります」
「三日で足りるか」
「……足ります」
その一拍を、楊文は聞き逃した。
村は、信じない。
里正の家の前へ人が集まるより先に、旅の道士が冥界の呼び声を人の呪いだと言い張っている、という形で話は谷じゅうを巡っていた。
人垣は、戸口を半円に囲んでいる。
怒鳴る者はいない。そのぶん目の色は固く、肩に積もる花びらだけが増えてゆく。払う手はひとつも上がらない。昼の日は高く、谷の白い斜面は眩しいほどなのに、その中央で人の輪だけが暗く沈んでいた。恐れと疲れは、遠目には同じ色をしている。
「またか」
誰かが言う。
「道士様は、これで四人目だぞ」
その一言が場の空気を決める。
最初の道士は祈祷ののち銭を取って帰り、次は符を貼った翌晩に阿石を暴れさせ、三人目は真冬の谷川へ漬けて熱を出させた。どの道士も、初めは自信ありげに、任せておけ、と言ったのである。
「儂らは、待った」
里正が疲れた声で言う。
「待つのは、もう終わりにした。決まったことだ」
「一つだけ」
沈曉が言う。
「昔、呼ばれた婿がいたと仰いました。婆様の時分に。その方の胸に、同じ痣はありませんでしたか」
年寄りたちが顔を見合わせる。
「……そんなもの、覚えとる者はおらん」
「では、その前は。何十年かに一度、と仰いました。二度、三度と遡って、その婿たちはみな、婚礼の前でしたか」
「そうだ。呼ばれるのは婿と決まっとる」
「なぜ婿なのでしょう」
沈黙が落ちる。
「若く、体が丈夫で、村じゅうがその者に注目している。祝いの支度で、家に人の出入りが多くなる。……見知らぬ者が一晩泊まっても、誰も不審に思わない時期です」
村人の目が一度揺れ、また固く戻る。
「屁理屈だ」
と、誰かが言った。
「よそ者が、村の言い伝えに何が分かる」
何百年ぶんの言い伝えと、昨日今日この谷へ来た男の言葉が、見えぬ秤の両側へ載る。秤は動かない。古い皿から重みを外せば、村は寄りかかる先まで失う。
沈曉はそれ以上を言わず、口を閉じたまま人垣の中に立っていた。
代わって動いたのは、楊文である。
人垣を分けて前へ出ると腰の剣を鞘ごと抜き、村人が退いた場所で両手に捧げ、そのまま土へ置いた。
次いで膝をつく。
額を、土に着けた。
剣を置く音と、膝の落ちる音と、それきりだった。江湖の人間の膝は、剣より重い。重いものが土に着く音を、村人は初めて聞いた。
「頼む」
声だけが、静かな場に落ちる。
「三日、この人に任せてくれ」
誰も、何も言わない。
「俺は白澗観の楊文という。ひと月前、俺の門派は一夜で滅んだ。十五の兄弟子と弟弟子が、みんな、あんたらが呼ばれとると言うのと同じものになった。……戻らなかった。一人も戻らなかった。俺は全部、この山に埋めてきた」
額は、上がらない。
「この人は、あの晩の連中を鎮めた。斬らずにだ。誰一人斬らずに、みんな元の顔に戻して土に還した。俺はそれを見た。この目で見たんだ」
地面の剣が、日を鈍く返している。
「三日で駄目なら、俺が阿石さんを祭壇まで担いでいく。あんたらの言う通りの晩に、言う通りの形で。二度と余計な口は挟まん。……だから、三日だけだ」
風が外の花を鳴らし、誰かの咳払いと低い囁きが人垣を渡る。輪は崩れかけてまた固まった。剣を地へ置き、額づく江湖の人間を、この谷の者は見たことがない。
里正は長く沈曉を見る。沈曉は頭を下げずに立ったまま、それでも土に伏す楊文より動かなかった。
「……三日だ」
年寄りは、絞り出すように言う。
「三日で戻らんかったら、祝言は決まり通りにやる。新月の晩だ。あんたらは口を出すな。出したら、村を出てもらう」
「承知」
と、楊文の額が上がった。
上がった額には土が付き、楊文は払わない。沈曉が里正へ一礼してから地面の剣を取り、両手で差し出すと、楊文も両手で受けて腰へ戻した。
二人が小屋へ戻る道を、村人は黙って空ける。その両側から無数の目が背を追い、信じた色はまだ一つもない。
小屋へ戻る頃には日が傾き、高窓から差す光が、板敷きの灼けた一角を今日の最後の分だけ照らしている。
沈曉は薬箱を開いて符紙を出し、硯へ水を落とすと、朱の棒を同じ速さで回し始めた。薬研を扱う時と変わらぬ手つきから、朱の匂いが静かに広がってゆく。
磨る音は、低く、絶えない。
その音を母屋の戸口で母親が聞き、土間の隅で楊文が聞き、格子の内では阿石が、四人目の道士の手元を何も言わずに追っている。
同じ音を聞く者が小屋に三人いて、その胸には三つの違う明日がある。
やがて、楊文が言う。
「……足りるか、三日で」
「やります」
答えになっていない返事である。楊文は聞き直さない。
小屋の外では、村の子供らが遠巻きに集まって、格子の中を覗こうとしては大人に叱られている。谷の斜面の白い花が、風にひとしきり鳴った。
日が落ちるまでに、あと一刻。新月まで、あと三日。
朱を磨る音だけが、その全部の中で、絶えなかった。
夜明け前、小屋の土間へ筵を敷き、その上に符紙、朱、筆を並べ、格子の内には湯を張った盥と乾いた布、水差しを整える。三つの灯りが支度の影を壁へ映し終える頃、高窓の外はようやく藍色に緩み、谷のどこかで一番鶏が鳴く。
沈曉は阿石の眠りが浅くなるのを待って、格子の錠を外す。
「昼のあいだに、できるところまで」
それが、この三日の組み立てである。夜になれば阿石は人でなくなり、その体には指一本触れられない。使えるのは、日の出から日の入りまでの一日ぶんずつである。
母親が朝餉を運んできて、格子の中の息子を見て、それから沈曉を見た。何か言おうとして、言えずに、碗を置いて出て行った。
土間の隅に、杏児が座っている。
夜通しそこにいた娘は、朝にも同じ場所にいる。誰も追い出さず、追い出す気力も、この家にはもう残っていない。
沈曉は阿石の胸へ掌を当て、その姿勢のまま一刻ほど動かない。ときおり指の形だけが変わり、光も風も起こらぬなか、掌の置かれたあたりだけが深い水の底のように静まって、灯りの炎さえ揺れを止めている。
やがて符を書き、痣の上へ置く。そして、また待つ。
符は四半刻ほどで色を変え、朱が褪せ、紙が湿り、端から縮れてゆく。沈曉はそれを剥がして次の一枚を書いた。同じ字を寸分違わぬ形で、二十枚。
「何を、やってるんだ」
昼近くなって、楊文がようやく訊く。
「解いています」
沈曉は目を上げずに答える。
「この人の中に、糸が通っています。外から打ち込まれた楔に、体の芯が縛りつけられている。夜になると、その糸が引かれる。引かれて、この人は自分の体から半分引き剥がされる」
「切ればいいのか。糸を」
「切れば、死にます」
筆が止まる。
「縛られているのは、命の側です。糸は、魂と魄を繋いでおります。切れば、魄だけが残る。……解くしかありません。結び目を一つずつ、順に。結んだ順を辿って、逆から」
「魄だけが残ったのが、あれか。幽鬼か、|僵尸《きょうし》か……|走屍《そうし》ってやつか」
「どれでもありません」
「なら、何だ」
「名は、まだ」
「結んだ順が、分かるのか」
沈曉は答えの代わりに次の符を書き始め、楊文もそれきり問わない。
昼を過ぎると、沈曉の額に汗が浮く。
汗を拭う手が、初めて止まった時である。指先が、細かく震えていた。震えを見て取った楊文が水を差し出すと、沈曉は素直に受け取り、飲み、それから半刻ほど、目を閉じて座った。
「休むのも、仕事です」
言い訳のような口ぶりである。楊文は笑わずに頷く。
その休みの間に、沈曉が言った。
「楊文殿。晒しを解いてください」
「……あ?」
「抜糸です。今日で頃合いです」
楊文は自分の左肩を見下ろし、それから諦めた顔で衣を寛げる。
肩から腰へ斜めに走る傷は、赤みを残しながら、しっかりと閉じている。沈曉は小刀を火で焙り、鋏の刃を確かめ、指先で縫い目を一つずつ数えた。
「三つ、余計に縫いました。あなたが跳ねるので」
「跳ねてない」
「山道で二度、境内で一度」
沈曉は言い返しを待たずに、糸を掛けた。
結び目を持ち上げ、小刀で切り、指で引き抜く。ぷつ、と皮膚の下から糸が抜ける小さな感触が、傷の端から順に走った。楊文は歯を食いしばりもせず、抜かれるたびに、うっ、と間の抜けた声を出した。
「痛いですか」
「痛くはねえ。……変な感じだ。中から、何か引っ張り出されてる」
沈曉の手が、一瞬止まる。
やがてまた動き、糸を一本ずつ、結び目を持ち上げ、切り、抜いてゆく。傷を塞いだ役目を終えた糸が、皮膚の下から順に解かれていく。
楊文は自分の肩ではなく、その糸を抜く沈曉の手を見ていた。
「終わりました」
沈曉が糸を紙に包み、傷口に薬を延べた。
「もう、跳ねても構いません」
「……跳ねてねえって」
午後の治療が始まり、楊文は同じ場所に座り続ける。薬湯を運び、水を替え、汗を拭い、沈曉が拒まぬ範囲のことを聞かずに済ませると、また元の場所へ戻って手元を追う。
日が傾く頃になって、口を開いた。
「……師匠でも、これはできねえな」
沈曉は筆を止めなかった。
「白澗の道長は、日照りの年に雨を落とした。憑かれた娘を三日で戻したこともある。子供の頃は、あれ以上の術者がこの世にいるとは思ってなかった。……だが、あれは祈る術だ。天に願って、鬼神に頼んで、届くこともあれば届かねえこともある」
朱を含ませた筆先が、紙の上へ下りる。
「あんたのは、頼んでねえ。願ってもいねえ」
楊文は、言葉を探す間を置いた。
「……修理みたいだ。誰かが組んだもんを、組み方を知ってる奴が、逆から」
筆先が紙の上で一度だけ迷い、それでも同じ字を最後まで書き終えた。楊文は次の言葉を呑み、ひと息置いて、別のことを口にする。
「薬湯、そろそろ煎じ直すか」
「お願いします」
煎じ直しながら、楊文がもう一つだけ聞いた。
「三人目の、谷川ってのは」
「煉度の水は、死者の穢れを滌ぐものです。生きた者に浴びせて、何が落ちるのか」
その先を、沈曉は口にしない。
日が落ちる前に沈曉は格子を出る。錠が下ろされ、日が沈むにつれて阿石の息は浅くなり、昨日と同じ順で、息が止まり、瞬きが失せ、不揃いな足が板を踏み始めた。
「……変わらねえな」
楊文が低く言う。
「一日ぶんは、解けました」
沈曉は筵に座り、灯りの下で新しい符を書きながら答える。
「二十七ある結び目が、二十二になりました」
「一日で五つか。三日で——」
楊文が指を折り、途中でやめる。二日で十いくつ。数え終えるまでもなく、足りない。
沈曉は書き続けている。
一枚。また一枚。夜の分の符を、夜のうちに。夜になれば触れられないのなら、夜は書く時間である。杏児は擦り切れた場所に座り、格子越しの掠れに返事をし、楊文はその二つの音を聞きながら、壁に凭れて剣を抱いた。
深夜、声が変わった。
長く切れ目のなかった声が途中で途切れ、代わりに低い呻きが漏れる。
息を使った呻きだった。
杏児が立ち上がり、格子に手をかけた。沈曉は筆を置き、灯りを持って格子に寄る。楊文も立った。
三人の見ている前で、阿石は板敷きの真ん中へ膝をつき、両手で頭を抱える。手の甲へ爪が食い込み、長い呻きの中に言葉らしいものが混じったが、形を結ぶ前に潰れて聞き取れない。
呻きは、やがて細くなり、闇の底へ引いていった。板敷きの上で、大きな体が緩慢に立ち上がり、また歩き出す。揃わない歩幅が、板を踏む。杏児が擦り切れた場所に座り直し、小さく、うん、と返した。
沈曉は灯りを掲げたまま、動かなかった。
二日目の朝、阿石は自分から胸を開く。夜の記憶はなく、ただ目覚めた時に頭の芯が痛んだという。その痛みさえ、この男の体へ久しぶりに戻った、生きている側の徴だった。
「痛えのは、生きてる方の話だろう」
阿石は妙な理屈で笑い、格子の外へ目を遣る。
杏児は、そこにいる。
昨夜も帰らなかった杏児のため、母親は三人分の朝餉に四つ目の碗を加え、黙って擦り切れた場所の脇へ置いた。杏児が礼を言って匙を取ると、格子の内で阿石が食べる音と、板を隔てて重なる。
二人が同じものを食べている。それだけの朝である。
高い窓から、朝の光がひと筋、いつもの一角に落ちていた。谷の花の香が、開けた戸口から薄く流れ込んでくる。祝言の日取りまで、この朝を入れて、あと二つだった。
治療の日々にも、型ができる。
沈曉は日の出とともに格子へ入り、日没まで出ない。楊文は母親の竈を借り、火加減、水の量、煮出す長さを教わって薬湯を運ぶ。二度目には覚え、三度目には目分量で合わせながら、竈の前で火を見る時間だけが、いつも少し長かった。
杏児は、動かない。
土間の隅で膝を抱え、昼は眠り、夜は起きている。誰も追い出さず、誰も座らせない。彼女の座る場所は、このふた月でとうに家の一部になっている。
昼のうちに村の男が二人、様子を見に来る。格子の中を覗き、沈曉の掌の下で眠る阿石を見て、何も変わっていない、という顔のまま帰っていった。変わったところは外から見えず、二十七あった結び目は、二十二からその夕方には十七へ減っていた。その数を知る者は、小屋に一人しかいない。
夕餉のあと、楊文が杏児の隣に座った。
誘ったわけではない。薬湯の碗を下げた帰りに、立ったままでは話しかけにくい位置に、彼女がいただけである。
日はもう落ちていた。夜気が土間から冷えて上がり、開いた戸の外では、花びらが闇の中を音もなく降り続けている。格子の内では、阿石だったものが歩き始めていた。杏児は、その足音の乱れを聞き分けるように、目を閉じている。
沈曉は筵の上で、明日の分の符を書いていた。
書きながら、二人の声を聞くことになった。聞かない位置へ移る理由が、この小屋にはない。
「……あんた、飯は昼に食ったのか」
「食べました」
「寝るのは」
「昼に少し」
会話はそこで途切れ、楊文は膝を抱え直して天井の梁を見る。しばらくして、また口を開いた。
「なあ」
いつもより低い声である。
「しんどくないか。……信じて、隣にいるのは」
杏児は目を開け、格子の内の暗がりを見てから、驚くほどあっさりと言う。
「しんどいですよ」
嘘のない声である。
「毎晩しんどいです。朝が来ると、今日も帰ってこなかった、って思う。村の人にも、うちの親にも、諦めろって言われて。……阿石さん本人にも、言われました。昼のあの人に。もう来るな、って」
「来るなと言われて、来てるのか」
「はい」
当たり前のことのように、杏児は頷いた。
格子の内で、掠れた音が上がった。杏児は反射のように顔を上げ、うん、と返事をする。返事をしてから、楊文の方へ向き直った。
「しんどいですよ。でも——」
言葉が、そこで止まった。
その先は続かない。娘は続きを探すそぶりもなく、口を閉じたまま格子へ顔を戻す。
でも、の先だけが、闇の中に置かれた。
筆の音が一度だけ途切れ、また同じ速さで続き始める。沈曉は書き上げた一枚を筵の端へ置き、次の紙を引き寄せた。楊文もその先を問わず、杏児の隣に座り続ける。夜が更け、掠れに返事が重なるたび、その肩だけが僅かに動いた。
その夜、沈曉は寝なかった。
治療で使う符は、一日に二十枚を超える。書き置きが尽きれば、翌日の仕事が止まる。灯りを一つ、筵に置いて、同じ字を、寸分違わぬ形で。
朱は、灯りの下で黒に近く見える。乾くにつれて、静かに赤へ戻っていく。書き上がった符が筵の端に並び、並んだ分だけ、明日の昼がある。
楊文は壁に凭れて、その手元から目を離さない。休みがない。休まないのに、速くもならない。同じ速さで、同じ濃さで、朝まで続くと知れる手つきだった。
「楊文殿」
筆を止めずに、沈曉は言った。
「明日は、日の出前から始めます。眠ってください」
「あんたは」
「これを、書き終えてから」
書き終わる枚数ではないことは、楊文にも見えている。それでも、横になった。
土間の隅で、杏児が格子に返事をしている。
筵の上で、沈曉が符を書いている。
同じ屋根の下で、杏児は返事をし、沈曉は符を書き、楊文は眠ったふりをする。誰も互いを止めぬまま、三つの夜が一つの屋根の下で朝を待つ。
夜半、灯りへ油を注ぐ手、返事をする声、不揃いな足音が、同じ闇の中でそれぞれの時を刻んでいる。
やがて寝返りの音がして静かになり、顔を上げると、楊文はこちらを向いたまま眠っていた。沈曉は灯りの芯を少し下げ、次の紙を引き寄せる。
三日目の朝が来た。
空は白く、風はない。昨日より多く散った花が、水路の面をまた白く埋めている。
水を汲みに出た楊文が、戻ってこない。
沈曉が外へ出ると、男は道の真ん中に立っていた。桶を提げたまま、村の方を見ている。
人が、歩いている。
俯かずに、足早に。しかも同じ方角へ。男ばかりが二人、三人と連れ立って、里正の家の方へ向かっていく。手ぶらではない者もいた。縄を巻いた者、天秤棒を担いだ者。祭壇の材でも運ぶような荷を、幾人かが抱えている。
誰もこちらを見ず、縄の束も天秤棒も、朝日を受けながら次々と里正の家へ吸い込まれてゆく。祝いの支度と同じ形をした荷が、そのまま逆のことに使われようとしていた。
沈曉は空を仰ぐ。
白み切った空に月はなく、昨夜のうちに細い光は尽きている。
今夜が、新月だった。