天理の石 — 第13話

第十三話 臨江へ

2026.09.16 4,422字 ・ 約8分
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 雨宿りをした廃屋から、臨江城までは四日の道のりだった。
街道は次第に幅を増し、深い|轍《わだち》の間を荷車が行き交う。路傍の茶屋には馬が繋がれ、軒に干した布の下から客を呼ぶ声がして、歩く二人の頭上を、川へ向かう鳥が越えていった。
雨のあとの風にも、日が傾いてからの風にも、かすかに水の匂いがある。草木の色は濃く、棠梨の花を見た谷は、もう幾つもの丘の向こうだった。
「臨江に着いたら、まず茶館だ」
楊文は道端の桑へ手を伸ばし、熟れた実を一つ摘まんだ。
「大きい街の茶館ってのは、噂の集まる場所でな。物売りと、船頭と、暇な連中がいる。三日も通えば、街の話は大方拾える」
「はい」
「それから、道観だ。街に幾つか、道観か廟がある。この三年、この辺で妙な話がなかったかを聞く。……あんたが聞いた方が、話が早いか」
「私は、あまり」
「そうか、あんた喋らんもんな」
楊文は笑い、実を口へ放り込んだ。指に残った汁を拭き、荷紐に手を掛ける。
「まあいい。俺が喋る。あんたは隣で頷いてろ。あんたが頷くと、なぜか話が本当らしく聞こえる」
「……それは、褒めていますか」
「褒めてる。この旅で覚えた術のうち、いちばん役に立ってる」
沈曉は前へ顔を戻した。追い越してゆく荷車を避けると、楊文も同じだけ道の端へ寄り、車輪の音が遠のくころには、また茶館の話を始めていた。
その夜は、久しぶりに鼾を聞いた。
灯りを消して間もなく、隣の寝床から馴染みの音がした。沈曉は横になったままそれを聞き、窓の外を通る足音が途絶えるまで、目を開けていた。

 二日目の宿場で、足を痛めた馬方に出会った。
沈曉が腫れたところを診て膏薬を出すと、馬方は懐を探り始めた。手を振ってそのまま立ち去ろうとする彼の脇から、楊文が銭を受け取り、掌の上で二つに分ける。
半分を馬方の手へ戻した。
「これは、話の分だ。この三年、この街道で変わった話はなかったかい」
馬方は受け取った銭を握り、腰掛けを寄せた。道の崩れた年から宿場の揉め事まで、話すうちに傍らの馬が首を垂れ、手綱が男の膝に長く弛んだ。
楊文は最後まで聞き、別れ際には薬を使う時刻をもう一度伝えた。
「無駄だったな」
宿へ戻る道で、帳面を懐へしまいながら言った。
「無駄は当たり前だ。九つ拾うのに、九十は聞いてる」
夕日を受けた横顔に、疲れより先に笑いが浮かぶ。次の角で茶の匂いがすると、楊文はそちらへ首を向け、明日の朝に寄ろうと言った。
沈曉はその隣を歩いた。
白澗観の土を掘り、名を呼び、間に合う時はなかったと告げられたあとも、この男は朝になれば荷を担いだ。いまは地図の余白にいる者を探し、その者に会うための道を選んでいる。
頼まれるはずの者は、すぐ傍にいる。
沈曉は楊文の歩みに足を揃え、宿の戸口をくぐった。

 翌朝も、日の出前に目が開いた。
沈曉は隣の寝息を聞きながら起き上がり、水を汲み、襟を合わせ、いつもの順に荷をまとめた。桶に揺れる顔が静まるまで待ち、髪の乱れを指で撫でる。その手を離すころには、誰に声をかけられてもよい顔になっている。
十年、そうして朝を迎えてきた。
名を変え、髪の色を変え、顔立ちにもわずかに手を加えた。初めの一年にしたことは、今では鏡を覗くほどの手間で済む。日が昇ってからは、歩幅を揃え、息を整え、呼ばれれば振り向き、問われたことにだけ答えた。声を張る用のある場所には、長く留まらなかった。
薬売りとして家々の戸を叩き、病人の脈を取り、煎じ方を伝えて外へ出る。治った者は畑へ戻り、買った薬の包みを捨て、次に患うころには売り手の顔を忘れている。
看取りには立ち会わなかった。
枕元に居残れば、死んだ者を見送る家族と、同じ夜を持つことになる。沈曉は薬を渡した手を懐へ戻し、いつも日のあるうちに帰った。
住まいを移すのは三年ごとだった。先生はいつからここにいたのかと、村の者が指を折り始める前に、棚を空け、次の村へ荷を運んだ。去る戸口には書き置きも残さず、呼び止められることの少ない朝を選んだ。

 最後の村には、四年いた。
一年、長すぎた。
薬研の音がすると、隣家の戸が開くようになった。婆が縁談を持ち込み、断る口元まで眺めて帰った。薬を買いに来た者の懐から古い包み紙が出て、その字を見れば、前にどの薬を渡したかが分かった。
捨てられずに残っていた紙を、沈曉はもう一度折り直した。
そうして四年目の春もあの家で迎えた。薬研を据えた場所も、水を汲む時刻も変えず、昼にはいつもの戸を開けた。いま立ち去ればよいと考えた朝にも、門前から呼ばれると、先に返事をしていた。
桶の水に、窓の明かりが差し始めた。
沈曉は水を捨て、縁に残った滴を払って、部屋へ戻った。楊文は起き上がり、地図を畳み直していた。円の中央に折り目が重なり、昨日より柔らかくなった紙が、手の内に収まる。
ここにいます、と言う機会は、朝になっても残っていた。
沈曉は荷紐を結び、楊文が地図をしまうのを待った。戸を出ると、どちらへ行くかを尋ねられ、街道の方へ顔を向けた。
言わぬまま迎えた朝が、また一つ増えた。

 三日目の夜、楊文は宿の灯りの下へ地図を広げた。
濃くなった折り目を掌で伸ばし、川と街道の交わる辺りを辿っている。
「あんた、この辺に来たことはあるか」
沈曉は灯芯の焦げた先を摘み、刃を当てた。
「……街道は、通ったことがあります」
「そりゃ、街道は誰でも通るだろ」
楊文は笑い、紙の角を揃えた。
「中心の圏内ってのは、けっこう広いんだ。村が幾つも入る。宿場が二つ、川沿いに集落。一軒ずつ当たってたら、一年かかる」
「はい」
「だから、臨江から始める。人が集まるところから、話を集める。……上手くいかなかったら、その時考える」
地図を懐に収めると、楊文は寝床へ転がり、片腕を頭の下に入れた。
「なあ、聞いていいか」
「はい」
「あんた、今まで、どこにいたんだ」
沈曉は切った芯を紙に落とした。
小さな黒いものを包み、机の端へ寄せる。油皿に残った火は低く、手を引いたあとも、指の影がしばらく紙の上を揺れた。
「あちこちに」
「あちこち」
「北の方に、しばらく。それから、南へ」
北にも南にも、荷を下ろした家はある。そのどれにも間違わぬ言葉を選び、沈曉は灯りの位置を直した。
「そうか」
楊文は天井を向いている。
「……聞いといて、なんだけどな。俺は、あんたが昔何をしてた人だろうと、たぶん気にしねえよ」
沈曉の手が、灯りの傍に留まった。
「白澗の連中を鎮めた時に、そう決めた。あんたが誰だろうと、あの日、あの山に来てくれたのはあんただ。それで足りる」
衣が擦れ、楊文は横を向いた。
「その人が見つかったらさ」
欠伸を噛み殺すように、声が少し間延びした。
「たぶん、いい人ではねえよな」
沈曉は刃を仕舞い、上掛けを手に取った。
「そんな術を知ってる奴だ。まともな道じゃ、身につかん。……犯人の師匠だったら、どうする」
「――」
「俺は、それでも会いに行く」
今度は大きく欠伸をし、楊文は上掛けを肩へ引いた。
「会って、聞いて、頭を下げる。使えるものは、何でも使う。それが仇討ちだ」
寝返りのあとに、深い息が続いた。沈曉が腰を下ろすころには、それが鼾へ変わっていた。
まともな道では身につかない。
眠った男の顔を灯りが照らし、まつげの影を頬に落としている。その口から、あんたが誰だろうと、という言葉も出た。沈曉は火を消し、横になった。
暗がりには二つの寝床がある。隣からは変わらず鼾が聞こえ、沈曉の目は、見えなくなった梁の方へ開いていた。

 四日目の午後、川沿いに城壁が現れた。
灰色の壁は岸に沿って長く続き、見上げるほどの高さから、ところどころ|櫓《やぐら》の屋根が突き出ている。その向こうには帆柱が幾本も並び、白い帆が風を孕んでは、重なった船影の間へ消えた。
門前には荷車と人の列ができていた。
後ろにつき、荷を持ち替えて待つうちにも、先の車輪は同じところにある。楊文は首を伸ばし、前の者の肩越しに門を覗いた。
「なんだ、これは」
門の左右には皇軍の兵が立っていた。
紺色の|甲《よろい》を着けた者が荷を開けさせ、もう一人が持ち主に何か尋ねている。返事の途中で脇へ寄るよう命じられた男が、紐を解いた荷を抱え直すと、ようやく次の旅人が一歩進めた。
「ずいぶん、厳しいな」
前に並んでいた行商が振り返った。
「先月からだよ。都のお偉方が来てるって話だ」
「都から?」
「なんでも、大罪人を探してるんだと。十年も前の罪人をな。今頃になって、何を掘り返すんだか」
行商は天秤棒を肩から下ろし、荷を地面へ据えた。
「おかげで、荷を検められるわ、通行料は上がるわ。商売あがったりだ」
楊文は門へ目を戻した。沈曉もその隣で、列の先を見ていた。
城壁に照り返す日差しが、足元まで眩しい。荷車の陰で子供が泣き、母親が水を飲ませ、どこかで暑さに文句を言う声がした。川から来る風には水の匂いがあり、ときおり汗ばんだ襟元を通り抜けた。
列が進んだ。

 前に三人残ったところで、行商が脇へ寄せられた。
荷をすべて開き、同じ身元を三度答え、布を畳み直す指がもつれる。通れと言われると慌てて荷紐を括り、肩へ担ぎ上げて門の陰に消えた。
次の老婆は、背負った荷も開かせずに通された。
その次は若い僧だった。兵は顔を覗き込み、卓の紙束へ手を伸ばして二枚ほど繰る。僧は両手を前に揃え、兵の指が紙を戻すまで待っていた。
「通れ」
僧衣の裾が翻り、二人の前が空いた。
沈曉は列に合わせて足を出した。背後で楊文が城壁を仰ぎ、高いな、と言う声が聞こえる。彼は歩みを緩めず、卓の前で止まった。
「どこから」
兵の声には、同じ問いを繰り返した疲れが滲んでいた。
「西の方からだ。棠梨村の先」
楊文が答え、沈曉とともに荷を下ろした。兵は包みを開き、乾いた肉と塩漬けの菜を覗き、薬の包みにも手をかけた。
「商いか」
「薬売りだ。連れが道士でな」
兵の目が沈曉へ移った。
沈曉は目礼した。顔を上げると、兵はまだこちらを見ていた。顎の辺りから目元へ視線を戻し、それから卓の上へ手を伸ばす。
紙束の端に、指がかかった。
上から二枚目か、三枚目か。沈曉は兵の顔へ目を置き、袖の中で手を揃えていた。
川風が、門を抜けた。
卓の紙が音を立てて捲れ、押さえた掌の脇から数枚が滑り出す。一枚は門柱に当たり、もう一枚は地面を這い、兵の足元を越えて列の方へ舞った。
「――くそ」
兵が紙を追い、後ろの旅人へ片手を振った。
「行け。通れ。次!」
楊文が荷を括って肩に掛けた。沈曉も持ち上げ、門の陰へ足を入れた。
石の下を通る風は冷たかった。背後で紙を拾う音がし、兵が誰かを呼び止める。沈曉はその声に歩調を変えず、城内から来る荷車を避けて脇へ寄った。
門柱の向こうに、卓が一度だけ見えた。
揃え直された紙の端がまた浮き、下から墨で描いた顎と襟の線が覗いた。誰の顔かを見定める前に、風に煽られた一枚が戻り、続いてくぐってきた人の肩が卓を隠した。
沈曉は前を向いた。
川の匂いを含む風が、街の奥へ吹いていた。

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