天理の石 — 第15話
第十五話 牢
入城して三日目の朝、楊文は箸を動かしながら、昨夜の聞き込みの続きを話していた。
船着き場の飯屋で会った荷役が、北の集落の出なのだという。三年前、一晩のうちに大勢が死に、疫病として葬られた集落である。
「そいつの叔父が、埋葬に立ち会ってる。傷が一つもなかったってよ」
椀の底に残った飯を掻き寄せ、楊文は続ける。
「今日、そいつの家に行く。叔父を紹介してもらう」
「はい」
「あんたは、三つ目の道観だ。昨日、行きそびれたんだろう」
「……はい」
ようやく箸を置くと、帳面と地図を懐に納め、剣を提げる。半日で戻る、と戸口から声を掛けた男の足音は、階段を下りて街のざわめきへ紛れていった。
沈曉は夜具を畳んだ。
楊文の分も畳んで隅へ並べ、薬箱の蓋を開ける。膏薬、粉薬、丸薬。包みの口を指で確かめ、符紙と朱を納め直しているうちに、窓紙を透かす朝の光が白くなってきた。
窓を押し開けると、川霧の上に帆柱の先が見える。水の匂いを含んだ風が入り、机の端の紙をかすかに持ち上げた。
荷の底から巾着を取り出す。
宿に着いた夜、重いから半分持て、と楊文に押しつけられた路銀である。掌に載せれば、まだ相応の重さがあった。店先では半文を惜しんで口を利く男が、こちらへ渡すときには、中を数えさせもしなかった。
口紐を結び直し、机の上へ置く。
紐の端を巾着に沿わせてから、沈曉は剣を取った。窓は開けたままにしておいた。
坂には荷車が行き交い、軒下で犬が日を避けている。人の肩越しに見える兵の姿は昨日と変わらず、門に近いほど多く、上へゆくにつれて疎らになる。
三つ目の道観は、その坂の中腹にあった。
門扉は開いていた。内から箒の音がして、掃き寄せられた木の葉が、敷居の陰へ一枚滑ってくる。
沈曉はその前に立ち、門内を見た。
あの奥へ入り、道士に名を告げ、白澗観のことを尋ねる。話を聞き終えたら辞去して、楊文の待つ宿へ帰る。その先まで分かっている道筋が、敷居一つを隔てて、遠かった。
箒の音が止んだ。
沈曉は踵を返した。
坂を下り、横の通りへ抜けたときには、軒の影が朝より短くなっていた。
昨日の茶売りがいない。
屋台のあった場所には男が二人立ち、荷も持たずに道の向こうを眺めている。客を待つでも、誰かを捜すでもないその立ち姿を、沈曉は通り過ぎた。次の辻にも一人。その先では、塀際に寄っていた男が、こちらの歩みに合わせて身を起こす。
薬種の店が並ぶ通りへ折れると、乾した根や樹皮の匂いが人いきれに混じった。客と荷担ぎの間を縫ってゆく人の流れは、ゆるやかに川へ下っている。行き着く先の桟橋にも、兵はいた。
沈曉は途中の横道へ入った。
突き当たりに、二人。
振り返ると、今しがた通った路地の口にも人が立っていた。
両側の塀は越えられる高さだった。その向こうの庭から路地へ出れば、寺の裏手へ抜けられる。この三日で歩いた道が、目の前にない曲がり角まで、一続きに浮かんでくる。
そして、その先にも兵がいるはずだった。
囲むとき、一箇所だけ薄く空ける。追われる者がそこへ足を向けたところで、袋の口を絞る。見覚えのある寄せ方である。かつて陣の図を前に、節の太い指で逃げ道をなぞっていた男の手が、いまはこの街を使っている。
塀の向こうで、器の触れ合う音がした。
誰かが昼の食事をしている。
沈曉は足を止めた。
封の術と印、袖の内の符があれば、ここは破れる。呪と|罡《こう》は用いない。声や歩みの跡を残さず、近づいてくる兵の足を払うだけなら、手間も要らぬ。
ただ、風を受けた塀の崩れる先に、今の器の持ち主がいるかもしれなかった。兵の身体を退けることはできる。その身体が石に頭を打つところまで、手は届かない。
十年前、倒れた者を数えたのは、自分の手だった。
袖の内で指を解く。
槍を構えた兵が前後から近づいてくる。まだ頬に若さの残る一人は、穂先を小刻みに震わせていた。
沈曉が腰へ手をやると、その男の喉が鳴った。槍の先が跳ね、背後の通りを横切る女の袖と、一瞬重なる。
沈曉は剣を鞘ごと帯から抜いた。
両の掌で水平に捧げ、差し出す。
兵たちは剣と彼の顔とを見比べたまま、手を伸ばしかねている。
「……取れ」
後ろに控えた年嵩の兵が言った。
若い兵が受け取り、思いがけない重さによろける。沈曉は空いた両手を前へ揃えた。縄を持つ兵がその手元を一度見てから、手首に縄を掛け、余りを背へ回してきつく引いた。
「名は」
「沈曉と申します」
「歳は」
「二十九になります」
年嵩の兵は彼の顔を見て、次を聞いた。
「連れは」
沈曉は、答えなかった。
兵がもう一度、同じ声で、同じことを聞く。
沈曉は、答えなかった。
三度目は、来なかった。
路地を出るとき、坂の上を見た。
荷を担いだ男の背が遠ざかり、軒から下げた幟の陰へ消える。売り声も、車輪の軋みも、そのまま続いている。昼下がりの日は石畳に照りつけ、兵の肩の影だけが、沈曉の前を横切った。
縄を引く歩みに合わせて足を運ぶ。詰めた歩幅に裾が余り、踝にまとわりついた。
街の東の役所で、持ち物を検められた。
詰所の卓に薬の包みが並び、符紙と朱の小壺が続く。楊文に持たされた乾いた肉も、一切れ残っていた。役人はそれらを帳面へ書き付け、符紙のところで筆を止める。
「これは、何だ」
「符を書く紙です」
「書けるのか」
「書けます」
紙束が、役人の指先で卓の向こうへ押しやられた。
腕を広げるよう命じられ、沈曉は従った。衣の上から胸と脇腹を叩く手が、袖を探り、懐へ入る。引き出された小さな布包みの口を緩めると、擦り減った銭が一枚覗いた。
「なんだ、これは」
「銭です」
「銭だろうが。……使えるのか、こんなもの」
役人は読めない年号に眉を寄せた。
「両替を、忘れておりました」
鼻を鳴らし、包みの口を締める。卓の隅へ放られたそれは、ほかの持ち物とともに木箱へ収められた。
蓋が閉じた。
役人が帳面へ視線を戻し、兵が沈曉の背を押すまで、彼の目は箱の上にあった。
牢へ通じる石段は、二十段ほどもあったろうか。
下るにつれて、衣にこもった夏の熱が引いてゆく。湿った石の匂いに、長く人を留めた場所の饐えた匂いが混じり、下りきったところで、冷気が足首を包んだ。
壁は下三尺ほどが黒く濡れ、その上へ白い粉を吹いている。近い川の水が石の内へ染み通り、日の届かぬところで、年々その痕を重ねているらしい。
廊下の灯火は二つ。
前を通るたび、壁に立った影が梁まで伸び、次の灯へ届くまでの間に、足もとから闇へ沈んでゆく。
六つある房には、誰もいなかった。一つだけ、板敷きに新しい|藁《わら》が敷いてある。縄を解かれ、そこへ入ると、背後で格子が閉じた。
錠の響きが、空の房を渡っていった。
獄卒は灯火を一つ持って上がっていった。
残る一つは廊下の遠い端にあり、細い明かりが格子を抜けて、藁の先を照らしている。
沈曉は板敷きに腰を下ろし、壁へ背を預けた。手首を返すと、縄の筋が赤く食い込んでいた。衣の袖を引き下ろし、膝に両手を置く。
目が慣れるにつれ、天井を渡る三本の梁と、石の継ぎ目が浮かんできた。
右手の壁には、爪で掻いたような傷がある。字とも見えたが、縦の線ばかりが幾本も寄り添い、端の方は湿りに削られて判じがたい。
沈曉は、数えずに目を逸らした。
壁のどこかで、水が滴っている。
初めは遠かったその音が、聞いているうちに、房の内へ満ちてくる。ひと滴落ちて、次が落ちるまでの間には、石と藁の匂いだけがあった。
十年前、この街の坂を下り、川へ出た朝も、水音を聞いた。
舟が岸を離れてから幾つもの街を過ぎ、名を変えて宿を取り、夜明けにはまた道へ出た。その果てに戻った街で、いまは地の底に座っている。
袖口から出た縄の痕を、もう片方の手で覆った。
そこを擦ることはしなかった。
半日で戻る、と楊文は言った。
もう宿へ帰り着く頃だろうか。階段を上がる足取りを思い浮かべると、次には、開いた戸の向こうの部屋が見えた。隅に畳んだ二人分の夜具。机に置いた巾着。預かった銭は、すべてあそこにある。
川風が窓から入り、口紐の先を揺らしているだろう。
楊文なら、まず宿の者に尋ねる。それから通りへ出て、人の集まるところを歩く。相手が口を閉ざせば、酒手を出すか、何でもない話から始めるか。市で値を聞くときのように、急かさず、目を離さず、次の言葉を待つはずだった。
その男がやがて、この役所へ行き着く。
沈曉の指が、膝の上で重なった。
臨江へ入る前に、話す時はあった。
雨宿りの軒下で地図を広げたときも、もっと前、白澗観の堂で十五の骸を照らしたときも、楊文は手の届くところにいた。
言葉を出さぬまま隣を歩いているうちに、街道の埃や峠の茶の匂いが、いつの間にか、あの男の声と一緒になっていた。棠梨村で過ごした三日。火の傍で割って差し出された月餅。まだ温かい皮が指に触れ、口へ運ぶと、甘みがほどけた。
膝の上で、指が印の形を取りかける。
向かいに手を差し出す者はなく、藁の散った板が、格子まで続いている。
沈曉は手を解いた。
廊下の灯が細くなっていた。
芯の先に小さな火が留まり、石壁の濡れたところを一度だけ光らせると、消えた。焦げた油の匂いが流れてくる。
夜が来たのかどうか、地下からは分からなかった。
*
石段に、明かりが差した。
一人の足音が下りてくる。段を踏むたびに間が空き、遅れて、右の足が石を擦る。
沈曉は目を開けた。
低い灯火が廊下を進み、格子の影を床に長く曳いてくる。影が縮まり、藁の上を越えて、膝へ届いた。
顔を上げると、老人が立っていた。
日に灼けた頬に古傷があり、眉の下の目が、房の奥を見据えている。
昨日、街で見た顔だった。その目に今、沈曉の顔が映っていた。
老人は口を開かなかった。
灯芯が小さく爆ぜる。灯火を持つ手が震えだし、もう片方の手がそれを押さえた。指を添えた分だけ光は高くなったが、床の影はなお揺れていた。
「――|陳霖《チェン・リン》」
沈曉は、答えなかった。
「陳霖」
今度は、声が房の内まで届いた。
「生きていたのだな」
裴松は格子を掴み、灯火を掲げ直した。
「……その顔だ」
掠れた声とともに、明かりが沈曉の頬から額を照らす。
「儂が最後にお前を見たのは、都の門前だ。二十年前になる。あの時、儂は四十を三つ越えておった。……お前は、そこにおる顔をしておった」
格子を握る指の節は、記憶にあるより太かった。
「儂は、白髪になった。歯も、三本ない。足も、この通りだ。……お前は、変わっておらん」
沈曉は目を伏せた。
「二十年前も、変わっておらんかった」
裴松の声が低くなる。
「儂が初めてお前に会ったのは、二十三の年だ。その頃、儂は、お前を三十くらいの人だと思っておった。年上の道士だと。……儂が四十を越えても、お前は三十のままだった。儂が六十を越えた今も、そこにおるのは三十の男だ」
明かりが下がった。
裴松は傍らの腰掛けを引き寄せ、右足を先へ投げ出して、ゆっくり腰を下ろす。
「座らせてもらう。……立っておるのが、辛くてな」
沈曉の目が、その膝に留まった。
「その足は」
久しく使わなかった言葉のように、声が喉に触れた。
「儂の足か」
裴松は右膝を掌で叩く。
「北の戦だ。矢を三本もらった。三本目が、悪かった」
「……いつ」
「九年前だ」
乱の、一年後。
膝から手が離れ、裴松は投げ出した足の位置を少し変えた。沈曉の視線は、衣の下へ戻った膝のあたりに残っていた。
「沈曉、と名乗っておるそうだな」
沈黙を継いで、裴松が言った。
「兵の帳面に、そう書いてあった。沈む曉、と書いて、沈曉。……歳は二十九だと」
沈曉は顔を上げずに聞いている。
「儂は、初め、笑ったよ」
裴松は灯火を床に置いた。
「よくもまあ、そんな名を思いついたものだと。……次に、笑えなくなった」
下からの光に、頬の古傷が深く見えた。
「|望曉《ワンシャオ》。夜明けを望む、という号を、お前は自分で選んだ。二十歳の年だったな」
「――」
「その曉を、お前は沈めたのか」
沈曉は目を上げた。
格子越しに目が合う。裴松はそのまま彼を見返していた。
「答えんでもよい」
やがて、そう言った。
「答えは、名の中に書いてある。十年、お前は自分の名を毎日名乗って生きてきた。名乗るたびに、自分に言い聞かせておったのだろう。……その手の刑罰を、儂は知らん。誰も課しておらん。お前が自分で決めた」
裴松が袖から布包みを出した。
開いた布の上に、乾した棗が幾つか転がる。格子の間へ手を差し入れ、沈曉の膝に近いところへ置いた。
「食え。まだ何も食っておるまい」
布の端が裴松の指を離れ、板の上へ落ちた。
「毒は入っておらんぞ」
「……分かっています」
「では、食え」
沈曉は一つ取った。
乾いた皮の皺が指の腹に触れる。棗は口まで上がらず、閉じた掌の中へ収まった。裴松はその手元を見届けると、膝に両手を置いた。
「儂は、勅命を受けておる」
灯火の上を、小さな煤が昇ってゆく。
「十年前の大罪人、陳霖を探し出せ、と。……帝は、お年を召された。夜に、眠れんそうだ」
沈曉は掌へ目を落としたまま、聞いていた。
「玉雲観は、王命で仙丹を作っておった。作り上げる寸前で、祭酒が仲間を皆殺しにし、成果を焼いて逃げた。……三十四人だ。世間はそう言っておる」
棗を握った沈曉の指は、動かなかった。
「儂は、骸を数えた者から直に聞いた。三十四だ。焼け跡から出たのが三十三。もう一人は、山門の外で見つかった。年寄りの道士が、逃げようとして、そこで斬られておった」
言葉が途切れたあと、壁際で水が落ちた。
「……その一人は、お前の手か」
沈曉は、答えなかった。
「答えんか」
声を荒らげず、裴松は一呼吸待った。
「では、聞き方を変えよう。陳霖。お前は、丹を持っておるか」
掌の内で、棗の皮がかすかに軋んだ。
「帝は、それを知りたがっておる。丹があるのか。あるなら、どこにあるのか。お前を探しておるのは、そのためだ。……儂の役目は、そこまでだ。お前を見つけ、都へ送る。あとは儂の与り知らぬところで、お前は帝の前に引き出されるだろう。丹の在処を吐くまで、お前は死ねん」
裴松は唇を閉じ、息を鼻から逃がした。
「ここまでが、勅命だ」
腰掛けをわずかに寄せる。脚が石床を擦る音が、空の廊下へ響いた。
「ここからは、儂の話だ」
*
「なぜだ、陳霖」
格子一本を隔てたところに、裴松の顔があった。
「なぜ、あんなことをした」
沈曉は、答えなかった。
「儂は、あの日、都におった。報せが来た時、儂は信じなかった。人違いだと言った。三度言って、三度目には、儂の言うことを聞く者がいなくなった」
右の膝に置かれた手が、衣を掴んでいる。
「儂は山へ行った。焼け跡を見て、骸を見た。それでも信じなかった。……信じられん理由が、幾つもあったからだ」
衣の皺が、指の下へ寄った。
「お前は、儂が知る限り、いちばん人を殺さん男だった」
沈曉の背に、石壁の冷たさが染みていた。
「儂が二十三の年だ。初陣で、儂は三十の兵を死なせた。生きて帰ったのは、儂が持ち場を捨てて逃げたからだ。……都へ戻って、儂は死のうと思った」
裴松は灯火へ目を移した。明かりの中に、白い眉の先が透けている。
「その頃、玉雲観に、若い祭酒がおるという噂を聞いた。この世でいちばん神仙に近い人だと。儂は、山へ上がった。神仙なら、儂の三十人を返せるかと思ったのだ。馬鹿な話だ」
沈曉の膝に、棗を持つ手の影が落ちていた。
「お前は、儂に何と言ったか、覚えておらんだろう」
「……」
「何も言わんかった」
裴松の口元が、少し緩んだ。
「儂の話を、半日、黙って聞いた。日が暮れて、腹が鳴った。そうしたらお前は、飯にしましょう、と言った。それだけだ。その晩、儂はお前の観に泊まって、粥を食って、寝た。……次の朝、儂は山を下りた。生きて下りた」
膝の上の指が解けた。衣に残った皺を、裴松は掌で一度撫でた。
「あの粥のことを、儂は四十年、忘れておらん」
布に載った棗が、灯に赤黒く照らされている。
「それから、儂は幾度も山へ上がった。戦のたびに上がった。何も相談せんかった。ただ、粥を食って、下りた。……お前は、一度も理由を聞かんかった」
裴松は冷えた指を灯へ近づけ、しばらくそこに留めていた。
「北の戦の帰りだ。儂の軍が、山道で疫病を出した。都から医者を寄越せと書いたら、お前が来た。祭酒がだ。ひと月、あの陣にいた。飯も食わずに、寝もせずに、兵を診た」
沈曉は裴松の手を見た。先ほど膝を叩いた掌が、指の間を抜ける光に縁取られている。
「儂は覚えておるぞ。お前は、逃げ出した脱走兵まで診た。首を刎ねるはずの男を、儂の目の前で診て、それから儂に、この者は生かしてくださいと言った。……儂は、生かした。軍法を曲げた。曲げたことを、儂は一度も悔いておらん」
掌が膝へ戻った。
灯はまた、二人の間に小さく立っている。
「儂が、なぜお前を桃の花のようだと言ったか、覚えておるか」
「……」
「花は、咲くとも咲かんとも言わん。ただ、時が来れば咲く。誰も見ておらん山の中でも、同じように咲く。……お前は、そういう男だった。誰も見ておらんところで、当たり前のことを、当たり前にする男だった」
裴松はそこで言葉を切った。
沈曉の袖口から、赤い縄の痕が覗いていた。老人の目が一度そこへ下がり、顔へ戻る。
「儂は、四十年、お前を敬っておった」
声の末が掠れた。
「その男が、三十四人を殺した」
沈曉は、目を伏せていた。
「儂の知らんことがあるのだろう。あるに決まっておる。お前は、意味もなく人を殺す男ではない。……儂は、十年、それを聞きたかった」
格子に、裴松の手が掛かった。
「言え、陳霖」
棗を持つ手が、膝に置かれたままでいる。
「言え。誰にも言わん。儂が墓まで持っていく。……お前が独りで持っていくことは、ない」
沈曉は顔を上げた。
格子を握る手の上に、裴松の顔があった。目尻にも額にも深い皺が刻まれ、頬の古傷は、その皺に交わっている。灯の届かぬ側のこめかみまで白かった。
唇を開けば、名を呼べる距離だった。
裴松は待っていた。
沈曉は、その顔を見ていた。
灯皿の油が減ってゆく。
裴松は手を格子から離し、膝へ戻した。昔、伏兵を置いて三日待ったことがあると、笑いながら話した男である。その手が再び動いたのは、芯の燃え滓が長く曲がってからだった。
「……そうか」
裴松は袖口を引き、膝の上で衣を整えた。
「お前は、そういう男だった」
指先は几帳面に縁を揃え、揃え終えてから、ようやく離れた。
「明後日、都から人が来る。護送の役人だ。それまで、お前はここにおる」
「……はい」
「今夜は、儂が当番を残しておく。……朝には、獄卒が戻る」
裴松は床の布へ目をやり、それから沈曉の閉じた手を見た。
「食え。腹が減ると、人は良いことを考えん」
灯火を取り、格子を頼りに腰を上げる。右足へ重みが移ったところで身体が傾き、裴松は握り直した格子に身を支えた。
立ち上がると、明かりも高くなった。
「儂は、あと幾年も生きん」
板敷きの沈曉を、老人が見下ろしている。
「儂が死んでも、お前は、その顔のままでおるのだろう。……儂の父も、儂の兄も、儂の妻も、みな儂より先に逝った。お前だけが、儂より後まで残る」
沈曉は目を伏せた。
「若い頃は、有難いことだと思っておった。神仙に近い人が、この世におってくださると」
裴松は背を向けた。
「今は、恐ろしい」
三歩ほど進んで、足が止まった。
「陳霖」
振り返らずに、裴松は言った。
「儂は、お前を憎んだことがない。十年、一度もない。……それが、いちばん腹が立つ」
足音が遠ざかる。
格子の影が長く伸びて沈曉の身体を越え、壁へ上がってゆく。やがて明かりは石段の方へ折れ、右足の半拍遅れる音だけが残った。
頭上で戸が閉じた。
沈曉は掌を開いた。
指に馴染んだ棗を、手探りで布の上へ戻す。ほかの実に触れたところで手を引くと、乾いた皮の匂いが指先に残った。
話せばよかった言葉は、いまも喉の近くにあった。
あの夜の始終を話せば、裴松は聞いただろう。聞いて、自分の持つものにしただろう。墓まで持っていくと口にしたとき、格子を握る手に迷いはなかった。
その手を、都の者が取る。
年老いて夜も眠れぬ帝が、答えを知る男を、ただ帰すはずはなかった。あの右足では、都までの道だけでも堪える。牢へ入れられ、名を呼ばれ、答えるまで幾度も起こされる。
沈曉は指先を袖の内へ収めた。
三十五人目を、作らない。
背を壁に預け、目を閉じる。
水の滴る音が、ふたたび近くなった。
その間に、一つ、違う音が交じった。
廊下の奥で、誰かが息を吸った。
吸いかけて、慌てて留めた息だった。
沈曉は目を開けた。
裴松の灯火が去ったあとの闇に、格子の形さえ見えない。
顔をそちらへ向けたまま、沈曉は動かなかった。
闇の中で、誰かが息を殺している。