天理の石 — 第31話
第三十一話 遅かった夜
丹房の灯りが、消えたことはなかった。
この十日ほど、そうである。夜が更けても、夜明けが近づいても、あの窓だけは、境内の闇に細い光を投げていた。晩秋の風が山を渡るたび、光は僅かに震える。震えても、消えなかった。
彼はその灯りを、自分の房の窓から幾度も見た。
窓を閉めるのが、この頃は少し遅くなっている。
王命がこの観に下ったのは、二十年余り前である。以来、研究は絶えることなく続いてきた。
彼と望曉――今の祭酒である――とが、その中心にいた。同門の多くは術式の断片しか知らない。全貌を知る者は、この観の中でも片手に足りる。
山門は、久しく閉じていた。
研究が始まった年から、新しい弟子を取っていない。麓から上ってくる者があれば、山門は閉じております、とだけ告げて帰す。理由は告げない。告げられないからである。門前で三日待った者もあったと、後で聞いた。彼はその名を知らない。
この山は、朝廷の祭を執る山である。祭器も、次第も、書式も、この観にしかない。だから閉じても誰も咎めなかった。咎める者の側が、閉じさせているのだった。
彼と望曉は、相前後してこの山へ上がった。
彼が九つ、望曉が七つの年である。百三十年ばかり前になる。桶の重さに負けて石段の途中で休む痩せた子供を、当時の兄弟子たちは、亀、と呼んでからかった。呼んだ側の末席に、幼い日の彼もいた。
その亀が、今では観のすべてを束ねている。
共に育ち、共に王命を負わされた歳月が、二人の間から格式を削いでいる。二人きりの丹房でだけ、彼は昔のままの言葉で話すことを許されていた。
悔しさは、あった。百年かけても埋まらなかった距離である。あったが、それ以上に、彼はこの共に老いぬ同輩を敬っていた。
幾年か前、一度だけ尋ねたことがある。
なぜ、これほどまでにこの研究に身を注ぐのか、と。王命だから、という答えを彼は予期していた。
望曉は、薬研を挽く手を止めなかった。止めずに、麓の村の話をした。届けた薬が間に合わず、看取ることしかできなかった病人の話。生まれて三日で、名をつける間もなく消えた赤子の話。
「病で尽きる命を、繋げる術があるなら」
望曉は、そう言った。
「生まれてすぐ消える定めの小さな命を、留められる日が、いつか来るのなら。……この道の先にそれがあるのならば、と思っています」
その声を、彼は忘れたことがない。
忘れないどころか、いつしかそれは彼自身の盾になった。衝立の向こうの声に耐えられぬ夜、彼は、王命だ、という言葉と並べて、それを心の内で唱えた。この犠牲の先に、救われる命がある。あの人がそう言ったのだから、と。
我欲を望曉ほど綺麗に削ぎ落とせる者を、彼は他に知らない。
その夜、彼は丹房を訪ねた。
油と薬草の匂いが混じった空気が、房に満ちている。望曉は卓に向かい、術式を検めていた。灯りに照らされた横顔に、疲れが薄く出ている。
「進み具合は」
「あと、僅かです」
望曉は、顔を上げずに答えた。
「引き剥がしの深さが、ようやく安定してきました。……今度のことがうまくいけば、材料一人分から、これまでの倍近くが採れるようになります」
彼は、それを黙って聞いた。
聞きながら、房の奥へ目を向ける。
衝立の向こうに、小さな部屋がある。そこに、朝廷から秘かに送られてきた死罪の囚人が繋がれていた。
罪状を、彼は詳しく知らない。知る必要もない、と教えられてきた。既に死を定められた者たちである。その最期を国のための研究に使う。それが王命であり、道理である。
「一人、様子を見てきます」
望曉が立ち上がった。彼も、その後に続いた。
衝立の向こうには莚が敷かれ、その上に男が一人、横たわっていた。年の頃は、彼自身の息子ほどだろうか。手足に枷が嵌まっている。
男の目が、開いていた。
その目が、入ってきた二人をぼんやりと見た。何日もまともに眠っていないのだろう。頬はこけ、唇は乾いてひび割れている。枷の擦れた手首に、赤黒い痣が幾重にも重なっていた。
動かせば痛むはずだった。それでも男は、二人が入ってきた時、微かに体を起こそうとした。力が入らず、また莚の上へ沈んだ。
その仕草に、彼は何かを思い出しかけた。
思い出す前に、蓋をした。
望曉が傍らに膝をつき、脈を診た。
診る手つきは、丁寧だった。病人を診る医者の手である。彼はその手つきを見るたび、目の置き場に困る。丁寧さと、これから為されることとの間が、あまりに遠い。
「もう、長くはありません」
望曉が、静かに告げた。
誰に向けて言ったのかは、分からなかった。男にか、彼にか、それとも自分にか。
男の喉から、掠れた声が漏れた。
言葉にはならない。息の震えだけが、闇の中に細く伸びた。震える喉仏の動きだけで、それが何かを乞う声だと彼には分かる。水か、赦しか、それとも、ただ誰かに気づいてほしいだけなのか。判じる術はなかった。
判じないことに、彼は逃げていた。
逃げていることに、気づかないふりを続けていた。
彼は、その声から目を逸らさなかった。逸らさずに耐えることが、己に課された務めなのだと思うことにしていた。
房へ戻る道すがら、望曉が言った。
「材料は、もう幾人も残っていません」
「陛下に、また、お願いすることになるな」
「はい」
その短い応答の中に何が入っているのかを、彼は深く考えなかった。考えないことに、慣れていた。
六日前、望曉が術式の最後の一段を書き上げた。
その日の空は、朝から鉛色に曇っていた。冬を告げる重い雲である。丹房の窓を叩く風の音が、いつもより鋭かった。
書き上げた紙を彼に見せながら、望曉の声には、微かな昂りがあった。
「これで、揃いました」
彼は、返す言葉を持たなかった。
二十年である。
幾人もの同門が道半ばで去った。危うすぎる、非道に過ぎると耐えかねた者たちである。残ったのは、彼と望曉と、あと数名だけだった。
「試すのは」
「明日には」
望曉は、答えた。
「材料は、揃っています。あとは、引き剥がしを最後まで正確に行うだけです」
その夜、彼は丹房の隅で、これまで積み上げてきた記録を読み返した。
灯りは一つだけである。その乏しい光の下で、紙の擦れる音だけが響いた。
術式の系譜を、一枚ずつ辿っていく。最初期の失敗——材料が、ただ死ぬだけだった頃。中期の失敗——引き剥がしが浅く、死にきらぬまま屍が動き続けた頃。それらの果てに、今、完成が見えていた。
彼は、紙の束の厚みを掌で確かめた。
二十年ぶんである。この厚みの分だけ、命が費やされてきた。これまで、それは彼にとって帳面の数字だった。今夜は、掌に重さがあった。
読み返しながら、ある想像が兆した。
もし、これが本当に成るなら。
この身に、ほんの一滴でも通せば、どうなるのか。
浮かんだ瞬間、彼は自分に驚いた。
打ち消そうとして、打ち消しきれなかった。
欲は、幾十年、削ぎ落としてきたはずである。名利も美食も色も、遠い昔に彼の内から消えたはずだった。それなのに、この想像だけは消えてくれなかった。
欲とは、水に似ている、と彼は若い頃、師から教わった。
塞いでも塞いでも、低きへ低きへと道を探して滲み出す。塞ぎきったと思った時こそ、危うい。
その教えを、彼はこの夜まで、頭でしか分かっていなかった。幾十年、塞ぎ続けてきた水は涸れてなどいなかった。ただ、出口を探し続けていただけだった。
そして今夜、最も古く、最も深い出口を見つけた。
翌日、彼らは衝立の向こうの、別の男に術を試した。
この男は前の男より若かった。体力がある分だけ術の効きが遅く、時が長くかかった。
男は莚の上で幾度も身をよじった。よじるたび、枷の鎖が鈍い音を立てる。声を上げる力は、既に失われていたのだろう。開いた口から漏れるのは、息だけだった。
呼吸が、次第に乱れていく。
乱れる音を、彼は傍らで聞いた。聞きながら、望曉の指の動きを目で追う。指先から伸びる目に見えぬものが、男の体の奥から、何かを少しずつ手繰り寄せているように見えた。
男の体が、僅かに痙攣する。
痙攣は、幾度か続いた。続くたび、望曉の眉間に皺が深くなった。
やがて、呼吸が止まった。
後に残った静けさが、房の中に垂れ込める。望曉はその場に座り込んだまま、両の掌に目を落としていた。
その掌の上に、小さな、暗い色をした粒がある。
彼は、それを初めて間近で見た。
見た瞬間、喉が鳴っていた。
彼は、それに遅れて気づいた。気づいて、慌てて目を逸らした。
逸らしても、遅かった。粒の像は、既に瞼の裏に焼きついている。
「うまく、いきました」
望曉が、そう言った。
声に、喜びも痛みも乗っていなかった。事実を読み上げるだけの声である。
彼は、その声を聞きながら、自分の掌をそっと握りしめた。
握りしめた掌の中に何もないことを、確かめずにはいられなかった。
房を辞して外へ出ると、夜気が首筋を冷たく撫でた。
汗をかいていたことに、彼はその時、初めて気づいた。
四日前の夜、彼は丹房に遅くまで残っていた。
外では、冷たい雨が音もなく降り始めている。冬を呼ぶ晩秋の雨である。窓の隙間から、冷えた空気が忍び込んでくる。
残る理由は、自分でもはっきりしない。
あの粒の像が、瞼の裏から離れなかった。この幾日、彼はまともに眠れていない。目を閉じれば、暗い色をした小さな粒が浮かぶ。目を開け、また閉じることを、彼は幾度も繰り返した。
望曉は卓に向かい、これまでの記録を清書している。
朝廷への上申に備えてのことである。完成の目処が立った以上、いずれ正式な報告が要る。筆の運びに、乱れはなかった。
その乱れのなさを、彼はじっと見ていた。
筆が、止まった。
望曉は書きかけの紙に目を落としたままでいた。それから筆を置き、こちらへ向き直った。
「一つ、お話ししたいことがあります」
彼は、顔を上げた。
「この研究は、作ってはならないものです」
望曉は、静かに切り出した。
「私は、この道の先に、救える命を見ようとしていました。病に尽きる命を、繋ぎ留める術を。生まれてすぐ消えていく小さな命を、この世に留める術を。……そのためならばと、二十年、命を焚べ続けてきました」
灯りが、望曉の横顔に揺れる影を落としている。
「けれど、二十年かけて、ようやく分かりました。この道は、命を焚べなければ一歩も進みません。救うための火のつもりで、私は、人を薪にしていた。……焼きましょう。今、ここで、すべてを」
沈黙が、房を満たした。
灯りの炎だけが、静かに揺れている。
彼は、望曉の顔をまじまじと見た。聞き違いかと思った。二十年、誰よりも深く、誰よりも正確にこの術を組み上げてきた男の口から、焼こう、という言葉が出るとは思っていなかった。
「王命だ」
答えたのは、彼の方だった。
「私たちに、拒む権はない」
言ってから、彼は己の声に驚いた。
その言葉は、この二十年、衝立の向こうの声を聞くたびに唱えてきた、免罪の呪文である。二十年その言葉に逃げてきた男が、逃げ道を塞がれそうになった途端、まっ先にそこへ縋りついていた。
「焼くには、惜しい」
彼は、続けた。
「二十年だぞ、望曉。私たちの二十年だ。ここで焼けば、あの者たちの死は、何のためだったことになる」
言いながら、彼はもう一つの言葉を掴み出していた。
「病で尽きる命を繋げるなら、と言ったのは、お前だ。生まれてすぐ消える命を留められるなら、と。……私はその言葉を信じて、ここまで来た。今になって、道ではなかったと言うのか。ならば、私が唱え続けてきたものは、何だったのだ」
言いながら、死んでいった者たちを盾に使っていることにも、気づいていた。
気づいた、その時である。
あの粒の像が、また瞼の裏に浮かんだ。
「……ならば、せめて」
彼は言った。言ってしまった。
「一粒だけ、残そう。……味を確かめるだけでいい。何十年も、欲を削いできた私だ。試したところで、道を踏み外しはしない」
言い終えた瞬間に、後悔した。
遅かった。言葉は、既に房の空気の中に漂っている。
望曉が、彼を見た。
その目に、初めて驚愕の色を見た。
「――お前も、欲しいのか」
望曉の声が、大きくなった。
共に過ごした百年の間、一度も聞いたことのない声だった。
「何十年も、欲を削いできたと、今、言ったな」
望曉は、続けた。
「その何十年もの果てに、辿り着いたのが、それか。人の命で組んだ丹を、味見したいという、その一言か」
彼は、答えられない。
その目を見返すことしか、できなかった。
欲しいのか、と問われた。
問われて初めて、彼は己の内をまともに覗き込んだ。その底にあったのは、否、という答えではなかった。あったのは、いつから、だろう、という問いだけだった。
いつから、自分はこれを欲しがっていたのだろう。あの粒を見た夜からか。この研究に加わった日からか。それとも――もっと、ずっと、前からか。
「薪は火のためにあり、火は人のためにあり」
言い終えて、望曉は口を閉じた。
動かない。声を上げたことに、この男自身が追いついていないように見えた。
「道を修めた者ですら、手を伸ばす」
やがて、望曉はそう呟いた。呟く声は、静かに戻っていた。
「これは、帝ひとりの欲では、ない。……人の手には、余るものだ」
彼には、答えるべき言葉がなかった。
ただ、望曉の目が、それまで見たことのない色を宿していることだけは分かった。悲しみとも諦めとも違う、もっと冷たく、澄んだ色である。
「今夜は、もう、お下がりください」
望曉は、静かにそう言った。
彼は何かを言おうとして、言葉を見つけられなかった。
そのまま、房を出た。
外は、既に夜が更けていた。
雨は、いつの間にか止んでいる。濡れた石畳が、星明かりを受けて鈍く光っていた。冷たい風が頬を打つ。彼は、その風の中に立っていた。
振り返ると、丹房の窓に、灯りがまだ点っていた。
あの灯りの向こうで、望曉が今、何をしているのかを、彼は知らない。知りたいとも思わなかった。
あの夜以来、望曉は、彼を丹房へ呼ばなくなった。
呼ばないだけではない。必要なことしか言わなくなった。勤行の指示。上申の期日。それだけである。二十年、二人きりの丹房では昔のままの言葉で話していた男が、廊下で会えば会釈だけで行き過ぎるようになった。
呼ばれないことに、彼は安堵と恥辱を同時に覚えた。
彼自身も、房に籠るようになった。外へ出るのは、水を汲む時だけである。汲んだ水に映る顔を、まともに見られなかった。
三日前の朝、彼は望曉の房を訪ねた。
訪ねる決意を固めるのに、一晩かかった。固めても、房の前に立つと足が竦んだ。竦む足を、無理に前へ出した。
「話が」
戸の外から、声をかけた。
「あります」
沈黙があって、戸が開いた。
望曉の顔に、以前のような静けさはなかった。目の下に、疲れが濃く滲んでいる。それでも、その目はまっすぐにこちらを見据えていた。
「先日のことは」
彼は、切り出した。
「詫びる。あれは、一時の迷いだった。……いや、違うな。迷いなどという、綺麗なものではなかった。あれは、私の底にあったものだ。それが、口から出た。それだけのことだ」
望曉は、黙って聞いている。
「幾晩も、考えた」
彼は、続けた。
「お前が、正しい。この研究は、作ってはならないものだった。……焼こう。今からでも、遅くはない。私も、手を貸す」
言い終えて、彼は望曉の目を見た。
四日前、自分が「王命だ」と遮った言葉を、今、自分の口で覆している。その滑稽さも遅さも分かっていた。分かった上で、言わずにはいられなかった。
望曉は、答えなかった。
じっと見ている。その沈黙の長さに、彼は次第に居心地の悪さを覚えた。
「もう」
やがて、望曉が口を開いた。
「遅いのです」
「遅い、とは」
「材料は、既に揃っています。……揃った以上、これを成すか、成さぬまま埋もれさせるか。埋もれさせれば、また、いつか誰かが同じ道を辿るでしょう」
声は静かだった。静けさの奥に、これまで聞いたことのない硬い響きがある。
「私は」
望曉は、続けた。
「この道を、最後まで確かめます。確かめた上で、決めます」
「何を、決める」
その問いに、望曉は答えなかった。
静かに、目を逸らした。彼は、それ以上踏み込む言葉を失った。
逸らした目は、窓の外へ向いていた。
その先に、丹房がある。二十年かけて集めたものが、そこに揃っている。
あと、一段だった。
その日から、彼は丹房へ近づかなくなった。
近づかないことで、これ以上何かを見てしまうことを避けようとしていた。避けながら、日ごとに痩せた。
二日前の晩、彼は久方ぶりに房の外へ出た。
境内は静まり返っている。丹房の窓は、まだ明るかった。その明るさを、彼は遠くから長い間眺めた。
眺めながら、初めて明確な恐れを覚えた。何を恐れているのかは、自分でも分からない。ただ、あの窓の奥で、何かが静かに育っている気がした。
思えば、あの晩からずっと、望曉は一度も彼を責めなかった。
責められる方が、まだ楽だった。責める言葉は、返す言葉を許してくれる。あの静けさは、何も許してくれなかった。彼が口にした一言だけが、取り消せないまま、二人の間に置かれ続けていた。
その夜、望曉が彼を呼んだ。
三日ぶりである。呼ばれて、彼は久方ぶりに丹房の戸をくぐった。晩秋の夜気が、境内に重く垂れ込めている。月のない夜だった。星だけが、恐ろしいほどの数で空を埋めていた。
房の中は、いつもと様子が違っていた。
これまで積み上げてきた記録の紙が、卓の上に几帳面に揃えられている。何かの終わりを迎える支度のようだった。
「今夜、成ります」
望曉が、そう告げた。
その声に、これまでにない静けさがあった。怒りも迷いも、既に拭い去られている。
「なぜだ」
言葉が勝手に口をついて出た。
「四日前、お前は焼こうと言った。焼こうと言った男が、なぜ、成す」
印を組む手は、止まらない。
「焼くべきものが、まだ、ないからです」
「……何を言っている」
「二十年、私たちが追ってきたものが、本物なのかどうか。それを、誰も知りません。……知らないものは、焼けません。焼いたところで、朝廷は惜しいと言うだけです。惜しいと言われれば、次の者が来る。次の材料も来る。私たちが灰にできるのは、紙だけです」
彼はその意味を掴みかけて、逸らした。逸らしたことに、気づかないふりをした。
「成れば、本物だと分かります。成らねば――」
望曉の指が、一度だけ僅かに止まった。
「この二十年は、ただの夢だったということになります」
夢であってほしい、と聞こえた。
聞こえた気がしただけかもしれない。
彼は何も言えないまま、傍らで術式が組まれていく様を見ていた。指先の動きに迷いはない。積み上げてきた二十年の最後の一段が、静かに積まれようとしていた。
夜が更けていく。
印を組む望曉の姿は、これまでとどこか違って見えた。何かを成し遂げようとする者の姿というより、何かを終わらせようとする者の姿だった。
やがて、手が止まった。
止まった掌の上に、小さな丸い粒が一つだけ載っていた。これまで見たどの粒よりも深い色をしている。長い歳月をかけて幾人もの命から削り取られてきたものが、その一粒の内に練り上げられていた。
彼は、それを見た。
見て、何も感じなかった。
感じないことに、彼自身が驚いた。あれほど焦がれ、恐れていたはずのものが目の前にあって、胸には重い疲れだけが広がっていた。
帝が求め、国が二十年を費やし、幾人もの命を注ぎ込んだものが、これだった。掌に載る、小さな一粒である。その小ささが、この夜の何よりの恐ろしさだった。
「終わりました」
望曉が、そう言った。
言い終えて、こちらを静かに見た。
その目に、彼は見覚えのある色を見た。あの言い争いの夜に見た、冷たく澄んだ色である。
「これから」
望曉が、口を開いた。
「何を、するつもりだ」
彼は、尋ねた。
「知る者を、これ以上、増やさぬためのことを」
答えは、短かった。
短さの中身を、彼は一拍遅れて掴んだ。
体の芯が、冷えた。
「望曉」
彼は、後ずさった。
「まさか――」
「あなたは」
望曉が、静かに言った。
「良い方でした。……道を修めるため、欲を、幾十年、削ぎ落とし続けた方でした。ただ、一度だけ、その手が震えるのを、私は見てしまいました」
彼は、言い返せない。
「震えたのが、一度きりだったとしても」
望曉は、続けた。
「震えは、震えです。……この知識を、あなたの中に、これ以上、置いておくことはできません」
その声に、憎しみはなかった。悼むような響きが、僅かに滲んでいた。それが、いっそう恐ろしかった。憎まれるなら、まだ分かりやすい。
彼は、剣を抜いた。
抜くとは、思っていなかった。百年、共に道を修めてきた相手に刃を向ける日が来るとは思っていなかった。それでも、体は動いた。死にたくない、という剥き出しのものが、幾十年の修めの下から噴き出していた。
一合。
受けた腕が痺れた。重さではない。速さでもない。ただ、太刀筋が正確すぎた。二合目を受けた時、彼は悟った。この剣と自分の剣とでは、そもそも立っている場所が違う。
三合目は、来なかった。
望曉の姿が、目の前で静かに揺れた。
そう感じた刹那、視界が大きく傾いだ。
痛みは、なかった。速く、正確な一手だったのだろう。ただ、体の中を冷たいものが通り抜けた感覚だけがあった。
膝から、力が抜けていく。
崩れ落ちる体を、彼はもう支えられなかった。
視界の端に、望曉の顔が映った。
その顔に、彼は何かを探した。憎しみでも後悔でも、何でもよかった。何か人間らしいものを、そこに見出したかった。
見出せなかった。
望曉の顔は、ただ静かだった。何も映していない。
意識が、闇へ沈んでいく。
遠くで、叫び声が聞こえた。境内のどこかで、次々と何かが始まっているらしい。
沈む間際、彼が最後に思ったのは、あの一粒のことだった。
一粒だけ、と口にした、あの願い。
その願いが、この結末を招いたのだろうか。
答えは、出なかった。
代わりに、遠い昔の景色が浮かんだ。凍てつく朝の井戸端で、桶の重さによろけながら、それでも口だけは達者に言い返してくる、痩せた小さな子供の姿である。
百年前の、あの亀の子は、まだ笑っていた。
丹房の外で、火の手が上がり始めていた。