天理の石 — 第9話
第九話 同じ屋根
朝の阿石は、もう知っていた。
二人が小屋を訪ねると、格子の内で膝を揃え、いつもの座り方で待っていた。高い窓から朝の光がひと筋落ちて、板敷きの灼けた一角を、ちょうど照らしている。夜具は畳まれ、髪は撫でつけられていた。昨夜のうちに、里正から聞かされたのだろう。
「三日後だそうだ」
詫びるでも、恨むでもない声だった。
「叔父貴が、泣きながら言いに来た。……頷いたよ」
楊文が息を呑む音が、隣でした。
阿石は格子の木目を撫でて、続けた。
「ふた月、考えたんだ。夜の俺が何をしてるか、俺は知らねえ。いつか格子を破るかもしれん。破った先に、母ちゃんがいるかもしれん。杏児が……あそこに座ってる」
土間の、擦り切れた場所を、阿石は見なかった。見ないようにしていることが、見ていることだった。
「祝言を挙げてもらえるなら、上等だ。あいつを寡婦にしちまうのは、悪いと思うが」
「馬鹿を言え」
楊文の声が、掠れた。
「祝言だのなんだの、体裁だろうが。酒に薬を混ぜて殺すんだぞ。それを頷いたのか、あんたは」
「頷いた」
阿石は、楊文を真っ直ぐ見た。石臼のような体から、ふた月分の肉を落とした男の目だった。
「他に、何がある」
答えは、誰も持っていなかった。
沈曉が動いたのは、その後である。
診せてほしい、と言った。阿石は素直に手を出したが、沈曉が求めたのは脈ではなかった。
「胸を、開けてください」
訝る顔のまま、阿石は襟を寛げた。分厚い胸板が、格子越しに灯りの下へ出る。
沈曉は目を細め、光の角度を変えた。
鳩尾のあたり。皮膚の下に、薄い痣が透けている。文字とも紋様ともつかない形の、青みを帯びた影である。
楊文の顔色が、変わった。
白澗観の堂に並んだ骸を、この男は覚えている。あの晩、灯りを提げた沈曉が一体ずつ襟を開いて確かめていたものを、隣で見ていた。同じ場所、同じ向き、同じ形。生きて呼吸している男の胸に、それはあった。
「……いつからだ、これは」
「知らねえ。痛みも痒みもねえ」
「阿石さん」
沈曉は、初めてその名を呼んだ。
「これは、冥界のしるしではありません」
声は、平らだった。平らな声が、小屋の中の空気を変えた。
「人が、打ったものです」
誰かが息を吸った。母屋の戸口で聞いていた母親か、その後ろの誰かか。沈曉は続けた。
「呼ばれているのではありません。繋がれているのです。命を留めて、留めきれずに、夜だけ引き剥がしている。……術です。それも、下手な」
「じゃあ、何だ」
楊文が、格子を掴んだ。
「解けるのか。解けるんだな」
「解けます」
断言だった。
この男が断言するのを、楊文はほとんど聞いたことがない。診れば分かる、多少は、見なければ——そうやって留保ばかり置いてきた男が、はっきりと解けると言った。
なぜ断言できるのかを、沈曉は言わなかった。
楔の打ち方が浅い。芯まで届いていない。届いていないものは、抜ける。その見立ての拠りどころが何であるかを言わずに済む言い方を、彼は選んでいた。
「ただし、日が要ります」
「三日で足りるか」
「……足ります」
その一拍を、楊文は聞き逃した。
村は、信じなかった。
里正の家の前に、村人が集まった。話は、集まる前から村じゅうに知れている。旅の道士が、冥界の呼び声を、人の呪いだと言い張っている——そういう話として広まっていた。
人垣は、戸口を半円に囲んでいる。
誰も声を荒らげてはいない。荒らげない分だけ、目の色が固かった。花びらが人々の肩に散りかかり、誰も払わない。
昼の日は高く、谷の白い斜面は明るい。その真ん中で、人の輪だけが暗かった。恐れている者の顔と、疲れ果てた者の顔は、遠目には同じ色になる。
「またか」
誰かが言った。
「道士様は、これで四人目だぞ」
その一言が、場の空気を決めた。
最初の道士は祈祷をして、銭を取って帰った。次の道士は符を貼り、貼った翌晩に阿石が暴れた。三人目は水を浴びせよと言い、真冬の谷川に阿石を漬けて、熱を出させた。どの道士も、初めは自信ありげにこう言った。任せておけ、と。
「儂らは、待った」
里正が、疲れた声で言った。
「待つのは、もう終わりにした。決まったことだ」
「一つだけ」
沈曉が言った。
「昔、呼ばれた婿がいたと仰いました。婆様の時分に。その方の胸に、同じ痣はありませんでしたか」
年寄りたちが、顔を見合わせた。
「……そんなもの、覚えとる者はおらん」
「では、その前は。何十年かに一度、と仰いました。二度、三度と遡って、その婿たちはみな、婚礼の前でしたか」
「そうだ。呼ばれるのは婿と決まっとる」
「なぜ婿なのでしょう」
沈黙が落ちた。
「若く、体が丈夫で、村じゅうがその者に注目している。祝いの支度で、家に人の出入りが多くなる。……見知らぬ者が一晩泊まっても、誰も不審に思わない時期です」
村人の目が、揺れた。揺れて、すぐに戻った。
「屁理屈だ」
と、誰かが言った。
「よそ者が、村の言い伝えに何が分かる」
言い伝えには、何百年ぶんの重さがある。沈曉の言葉は、昨日今日この谷に来た男の口から出ている。秤は、動かなかった。外せば、村は寄りかかる先を失う。
沈曉は、それ以上を言わなかった。
言えば言うほど、四人目の道士になることを、この男は知っていた。
動いたのは、楊文である。
人垣を分けて前へ出ると、腰の剣を鞘ごと抜いた。
村人が身を引いた。空いた場所で、楊文は剣を両手で捧げ、そのまま、土に置いた。
置いて、膝をついた。
額を、土に着けた。
剣を置く音と、膝の落ちる音と、それきりだった。江湖の人間の膝は、剣より重い。重いものが土に着く音を、村人は初めて聞いた。
「頼む」
声だけが、静かな場に落ちた。
「三日、この人に任せてくれ」
誰も、何も言わなかった。
「俺は白澗観の楊文という。ひと月前、俺の門派は一夜で滅んだ。十五の兄弟子と弟弟子が、みんな、あんたらが呼ばれとると言うのと同じものになった。……戻らなかった。一人も戻らなかった。俺は全部、この山に埋めてきた」
額は、上がらない。
「この人は、あの晩の連中を鎮めた。斬らずにだ。誰一人斬らずに、みんな元の顔に戻して土に還した。俺はそれを見た。この目で見たんだ」
地面の剣が、日を鈍く返している。
「三日で駄目なら、俺が阿石さんを祭壇まで担いでいく。あんたらの言う通りの晩に、言う通りの形で。二度と余計な口は挟まん。……だから、三日だけだ」
風が、外の花を鳴らした。
誰かの咳払いがあり、誰かが小さく何かを言い、村人の輪が崩れて、また固まった。剣を置いて額づく江湖の人間を、この谷の者は見たことがなかった。
里正が、長いこと沈曉を見た。
沈曉は立ったまま、頭を下げていなかった。下げていないのに、その姿は楊文よりも動かなかった。
「……三日だ」
年寄りは、絞り出すように言った。
「三日で戻らんかったら、祝言は決まり通りにやる。新月の晩だ。あんたらは口を出すな。出したら、村を出てもらう」
「承知」
と、楊文の額が上がった。
上がった額に、土が付いていた。本人は、払わなかった。
沈曉は里正に一礼し、それから地面の剣を取って、両手で楊文に返した。楊文は受け取り、腰へ戻す。二人が小屋へ戻る道を、村人は黙って空けた。その道の両側から、無数の目が背中を追った。信じた目は、まだ一つもない。
小屋に戻ると、日はもう傾いていた。
高い窓から差す光が斜めに伸びて、板敷きの灼けた一角を、今日の最後の分だけ照らしている。沈曉は薬箱を開け、符紙を出し、朱を磨り始めた。硯に水を落とし、朱の棒を立て、同じ速さで回していく。手際は、いつもの薬研の手際と変わらない。小屋の中に、朱の匂いが静かに満ちていく。
磨る音は、低く、絶えない。
その音を、母屋の戸口で母親が聞いていた。土間の隅で、楊文が聞いていた。格子の内で、阿石が四人目の道士の手元を、何も言わずに追っていた。
同じ音を聞く者が、この小屋に三人いて、三人とも、別のものを聞いていた。
やがて、楊文が言った。
「……足りるか、三日で」
「やります」
答えになっていない返事だった。楊文は聞き直さなかった。
小屋の外では、村の子供らが遠巻きに集まって、格子の中を覗こうとしては大人に叱られている。谷の斜面の白い花が、風にひとしきり鳴った。
日が落ちるまでに、あと一刻。新月まで、あと三日。
朱を磨る音だけが、その全部の中で、絶えなかった。
夜が明ける前に、支度は終わっていた。
小屋の土間に筵を敷き、その上に符紙と朱と筆が並ぶ。灯りは三つ。格子の内には湯を張った盥、乾いた布、水差し。並べ終えた頃、高い窓の外がようやく藍色に緩み、谷のどこかで一番鶏が鳴いた。
沈曉は阿石の眠りが浅くなるのを待って、格子の錠を外した。
「昼のあいだに、できるところまで」
それが、この三日の組み立てだった。夜になれば阿石は人でなくなる。人でなくなった体には、指一本触れられない。使えるのは、日の出から日の入りまでの一日ぶんずつである。
母親が朝餉を運んできて、格子の中の息子を見て、それから沈曉を見た。何か言おうとして、言えずに、碗を置いて出て行った。
土間の隅に、杏児が座っている。
夜通しそこにいた娘は、朝になっても帰らなかった。誰も追い出さなかった。追い出す気力が、この家にはもう残っていない。
沈曉は阿石の胸に掌を当て、そのまま動かなかった。
一刻ほど、何も起こらない。時折、指の形が変わる。光も、風も、音も立たない。ただ、掌の置かれたあたりの空気だけが、深い水の底のように静まっている。灯りの炎が、その一角でだけ揺れない。
符を書き、痣の上に置く。置いて、また待つ。
符は、四半刻ほどで色を変えた。朱が褪せ、紙が湿り、端から縮れていく。沈曉はそれを剥がし、次の一枚を書いた。同じ字を、寸分違わぬ形で、二十枚。
「何を、やってるんだ」
昼近くなって、楊文がようやく聞いた。
「解いています」
沈曉は目を上げずに答えた。
「この人の中に、糸が通っています。外から打ち込まれた楔に、体の芯が縛りつけられている。夜になると、その糸が引かれる。引かれて、この人は自分の体から半分引き剥がされる」
「切ればいいのか。糸を」
「切れば、死にます」
筆が止まった。
「縛られているのは、命の側です。糸を切れば、命ごと切れる。……解くしかありません。結び目を一つずつ、順に。結んだ順を辿って、逆から」
「結んだ順が、分かるのか」
沈曉は、答えなかった。
次の符を書き始めた。楊文は、それきり聞かなかった。
昼を過ぎると、沈曉の額に汗が浮いた。
汗を拭う手が、初めて止まった時である。指先が、細かく震えていた。震えを見て取った楊文が水を差し出すと、沈曉は素直に受け取り、飲み、それから半刻ほど、目を閉じて座った。
「休むのも、仕事です」
言い訳のような口ぶりになった。楊文は笑わずに頷いた。
その休みの間に、沈曉が言った。
「楊文殿。晒しを解いてください」
「……あ?」
「抜糸です。今日で頃合いです」
楊文は自分の左肩を見下ろし、それから、諦めた顔で衣を寛げた。
肩から腰へ斜めに走る傷は、赤みを残しながら、しっかりと閉じている。沈曉は小刀を火で焙り、鋏の刃を確かめ、指先で縫い目を一つずつ数えた。
「三つ、余計に縫いました。あなたが跳ねるので」
「跳ねてない」
「山道で二度、境内で一度」
沈曉は言い返しを待たずに、糸を掛けた。
結び目を持ち上げ、小刀で切り、指で引き抜く。ぷつ、と皮膚の下から糸が抜ける小さな感触が、傷の端から順に走った。楊文は歯を食いしばりもせず、抜かれるたびに、うっ、と間の抜けた声を出した。
「痛いですか」
「痛くはねえ。……変な感じだ。中から、何か引っ張り出されてる」
沈曉の手が、一瞬止まった。
止まって、また動いた。糸を一本ずつ、順に。結び目を持ち上げ、切り、抜く。傷を塞いだ糸を、傷が塞がったから抜いていく。
楊文は、抜かれる自分の肩を見ていなかった。
沈曉の手を、見ていた。
「終わりました」
沈曉が糸を紙に包み、傷口に薬を延べた。
「もう、跳ねても構いません」
「……跳ねてねえって」
午後の分が始まってからも、楊文はそこを離れなかった。
薬湯を運び、水を替え、汗を拭い、沈曉が拒まない範囲のことを、聞かずに全部やった。やり終えると、また元の位置に座って手元を見た。
日が傾く頃になって、口を開いた。
「……師匠でも、これはできねえな」
沈曉は筆を止めなかった。
「白澗の道長は、日照りの年に雨を落とした。憑かれた娘を三日で戻したこともある。子供の頃は、あれ以上の術者がこの世にいるとは思ってなかった。……だが、あれは祈る術だ。天に願って、鬼神に頼んで、届くこともあれば届かねえこともある」
朱を含ませた筆先が、紙の上へ下りる。
「あんたのは、頼んでねえ。願ってもいねえ」
楊文は、言葉を探す間を置いた。
「……修理みたいだ。誰かが組んだもんを、組み方を知ってる奴が、逆から」
筆の先が、紙の上で一度だけ迷った。
迷って、そのまま同じ字を書き終えた。楊文は次の言葉を継がなかった。息を吸って、吸ったまま止めた。吐いた時には、別のことを言っていた。
「薬湯、そろそろ煎じ直すか」
「お願いします」
それきりだった。
日が落ちる前に、沈曉は格子を出た。
錠が下ろされ、日が沈み、阿石の息が浅くなる。昨日と同じ変化が、昨日と同じ順で来た。息が止まり、瞬きが失せ、揃わない歩幅で歩き出す。
「……変わらねえな」
楊文が低く言った。
「一日ぶんは、解けました」
沈曉は筵に座り、灯りの下で新しい符を書きながら答えた。
「二十七ある結び目が、二十二になりました」
「一日で五つか。三日で――」
楊文が指を折り、折りかけて、やめた。折らなくても分かる。二日で十いくつ。足りない。
沈曉は書き続けている。
一枚。また一枚。夜の分の符を、夜のうちに。夜になれば触れられないのなら、夜は書く時間である。杏児は擦り切れた場所に座り、格子越しの掠れに返事をし、楊文はその二つの音を聞きながら、壁に凭れて剣を抱いた。
深夜、声が変わった。
あの長い、切れ目のない声が、途中で途切れたのである。途切れて、代わりに低い呻きが漏れた。
息を使った呻きだった。
杏児が立ち上がり、格子に手をかけた。沈曉は筆を置き、灯りを持って格子に寄る。楊文も立った。
三人の見ている前で、阿石は板敷きの真ん中に膝をつき、両手で頭を抱えた。その手の甲に、爪が食い込んでいる。呻きは長く続き、途中で、言葉のようなものが混ざった。
何を言ったのかは、聞き取れなかった。
呻きは、やがて細くなり、闇の底へ引いていった。板敷きの上で、大きな体が緩慢に立ち上がり、また歩き出す。揃わない歩幅が、板を踏む。杏児が擦り切れた場所に座り直し、小さく、うん、と返した。
沈曉は灯りを掲げたまま、動かなかった。
二日目の朝、阿石は自分から胸を開けた。
夜の間に何があったのか、本人は覚えていない。ただ、目覚めた時に頭の芯が痛んだと言った。痛みがあった、ということが、この男の体では久しぶりのことらしかった。
「痛えのは、生きてる方の話だろう」
阿石は妙な理屈で笑い、笑ってから、格子の外を見た。
杏児は、そこにいた。
昨夜も帰らなかった。母親が朝餉を三人分運んできて、四つ目の碗を、無言で擦り切れた場所の脇に置いた。杏児は礼を言い、食べた。食べる音と、格子の内で阿石が匙を使う音とが、板を隔てて重なった。
二人が同じものを食べている。それだけの朝である。
高い窓から、朝の光がひと筋、いつもの一角に落ちていた。谷の花の香が、開けた戸口から薄く流れ込んでくる。祝言の日取りまで、この朝を入れて、あと二つだった。
治療の日々には、型ができた。
沈曉は日の出とともに格子へ入り、日没まで出ない。
楊文は薬湯を運ぶ。母親の竈を借りて、指図通りに煎じる。火加減、水の量、煮出す長さ。二度目には覚え、三度目には目分量で合わせられるようになった。竈の前にしゃがんで火を見ている時間が、いつも少し長い。
杏児は、動かない。
土間の隅で膝を抱え、昼は眠り、夜は起きている。誰も追い出さず、誰も座らせない。彼女の座る場所は、このふた月でとうにこの家の一部になっていた。
昼のうちに、村の男が二人、様子を見に来た。
格子の中を覗き、沈曉の掌の下で眠っている阿石を見て、何も変わっていない、という顔をして帰った。変わったところは、外からは見えない。二十七あった結び目が、二十二になり、その日の夕方には十七になった。数を知る者は、この小屋に一人しかいない。
夕餉のあと、楊文が杏児の隣に座った。
誘ったわけではない。薬湯の碗を下げた帰りに、立ったままでは話しかけにくい位置に、彼女がいただけである。
日はもう落ちていた。夜気が土間から冷えて上がり、開いた戸の外では、花びらが闇の中を音もなく降り続けている。格子の内では、阿石だったものが歩き始めていた。杏児は、その足音の乱れを聞き分けるように、目を閉じている。
沈曉は筵の上で、明日の分の符を書いていた。
書きながら、二人の声を聞くことになった。聞かない位置へ移る理由が、この小屋にはない。
「……あんた、飯は昼に食ったのか」
「食べました」
「寝るのは」
「昼に少し」
会話は、それきり途切れた。楊文は膝を抱え直し、天井の梁を見上げた。
間があって、また口を開いた。
「なあ」
いつもより低い声だった。
「しんどくないか。……信じて、隣にいるのは」
杏児は目を開けた。開けて、格子の内の暗がりを見た。それから、驚くほどあっさりと言った。
「しんどいですよ」
嘘のない声だった。
「毎晩しんどいです。朝が来ると、今日も帰ってこなかった、って思う。村の人にも、うちの親にも、諦めろって言われて。……阿石さん本人にも、言われました。昼のあの人に。もう来るな、って」
「来るなと言われて、来てるのか」
「はい」
当たり前のことのように、杏児は頷いた。
格子の内で、掠れた音が上がった。杏児は反射のように顔を上げ、うん、と返事をする。返事をしてから、楊文の方へ向き直った。
「しんどいですよ。でも――」
言葉が、そこで止まった。
止まって、続かなかった。娘は続きを探す顔をしなかった。探さずに、口を閉じたまま、また格子の方へ顔を戻した。
でも、の先は、闇の中に置かれたままになった。
筆の音が、一度だけ途切れた。
途切れて、また続いた。沈曉は書き上がった一枚を筵の端へ置き、次の紙を引き寄せた。楊文は、それ以上聞かなかった。聞かずに、隣に座り続けた。夜が更け、掠れが来るたびに杏児が返事をし、返事のたびに、楊文の肩が僅かに動いた。
その夜、沈曉は寝なかった。
治療で使う符は、一日に二十枚を超える。書き置きが尽きれば、翌日の仕事が止まる。灯りを一つ、筵に置いて、同じ字を、寸分違わぬ形で。
朱は、灯りの下で黒に近く見える。乾くにつれて、静かに赤へ戻っていく。書き上がった符が筵の端に並び、並んだ分だけ、明日の昼がある。
楊文は壁に凭れて、その手元から目を離さない。休みがない。休まないのに、速くもならない。同じ速さで、同じ濃さで、朝まで続くと知れる手つきだった。
「楊文殿」
筆を止めずに、沈曉は言った。
「明日は、日の出前から始めます。眠ってください」
「あんたは」
「これを、書き終えてから」
書き終わる枚数ではないことは、楊文にも見えている。それでも、横になった。
土間の隅で、杏児が格子に返事をしている。
筵の上で、沈曉が符を書いている。
同じ屋根の下で、三人が三様に、朝まで起きているのだった。誰も互いを止めない。止められる者が、この小屋には一人もいなかった。
夜半、灯りの油を注ぎ足す手と、返事をする声と、板を踏む揃わない足音とが、しばらく同じ闇の中にあった。
寝返りの音がして、それきり静かになった。顔を上げると、楊文はこちらを向いたまま眠っていた。
沈曉は灯りの芯を少し下げ、次の紙を引き寄せた。
三日目の朝が来た。
空は白く、風がない。谷の花は昨日より散って、水路の面をまた白く埋めている。
水を汲みに出た楊文が、戻ってこなかった。
沈曉が外へ出ると、男は道の真ん中に立っていた。桶を提げたまま、村の方を見ている。
人が、歩いている。
俯かずに、足早に。しかも同じ方角へ。男ばかりが二人、三人と連れ立って、里正の家の方へ向かっていく。手ぶらではない者もいた。縄を巻いた者、天秤棒を担いだ者。祭壇の材でも運ぶような荷を、幾人かが抱えている。
誰も、こちらを見なかった。見ないまま、次々と里正の家へ吸い込まれていく。縄の束が、天秤棒が、誰かの肩の上で朝日を受けて揺れた。支度の荷は、祝いの荷と同じ形をしている。同じ形のまま、逆のことに使われようとしていた。
沈曉は空を仰いだ。
白み切った空に、月はどこにもない。昨夜のうちに、細い月は尽きたのである。
今夜が、新月だった。