天理の石 — 第13話

第十三話 円

2026.08.04 8,373字 ・ 約14分
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 朝、鍋の粥は焦げていた。
沈曉が目を覚ました時、火はもう熾っていて、楊文が匙で鍋を掻いている。掻きながら、済まん、焦がした、と言った。それだけである。
二人は焦げた粥を食った。
楊文は昨夜のことを言わなかった。沈曉も言わなかった。荷をまとめ、火を消し、街道へ出た。朝の日差しが眩しく、麦の穂が銀色に光っている。歩き出して四半刻ほどして、楊文が、今日は暑くなるな、と言った。
「はい」
「餅、傷むかな」
「今日のうちに」
「だな」
それで、いつも通りになった。
ということにして、二人は歩いた。

 次の宿場で、楊文は帳面を開いた。
これまで、この帳面に書き付けてきたのは、都から来た若い道士の行方である。それが、この朝から変わった。
楊文は、茶屋の親父にこう聞いた。
「このあたりで、妙な話はないか。何年でもいい。人が一度に大勢死んだとか、死んだ者が歩いたとか」
沈曉は、隣で茶を飲んでいた。
昨夜、二人の間に置かれたものが、この一言に変わって出てきていた。棠梨村と白澗観だけではない。同じ手口が、他にもあったのではないか——楊文はそう考え始めている。考え始めたことを、沈曉に相談しなかった。
相談する必要が、なかったからである。
「そりゃあ、あるさ」
と、茶屋の親父は言った。

 最初に出てきたのは、双柳鎮そうりゅうちんの武館の話だった。
親父は湯を足しながら、身を乗り出した。話し好きの顔である。
「あんたら、剣を提げとるから言うがね。西へ二日、双柳鎮に武館があったろう」
「聞いたことがある。柳の下の武館だな」
「そう、それだ。門人が九人。館主が一人。師範代が、確か鎮の顔役の甥っ子でな。……一年半前の秋だ。ある朝、豆腐屋が桶を届けに行ったら、誰も出てこん」
親父は空の碗を、盆の上に並べ始めた。
「戸を開けたら、道場にな。こうだ」
碗が、九つ。
円のように、内向きに。
「九人が、こう座っとった。膝を揃えて。壁際に一人、腰掛けに座っとった者もいたが、こっちも姿勢はきちんとしとった。まるで、稽古の前だ。……全員、死んどった」
「斬られてか」
「そこよ。刀傷が一つもねえ」
親父は盆を下ろした。
「鎮の役人が調べた。毒でもねえ。首を絞められた跡もねえ。表の戸には内側から閂がかかっとって、裏木戸は開いとった。銭も、剣も、何ひとつ盗られとらん」
「……それで、道場破りか」
「他に何て言うんだ、あんた」
親父は肩をすくめた。
「江湖には点穴の達人がおるって言うじゃねえか。触れずに人を殺すのが。九人まとめてやれる腕の持ち主が、なんで名乗り出ねえのかは、誰も説明できんがね」
沈曉は、茶を飲み続けている。
「豆腐屋のじいさんは、その日から寝込んだ。……いや、寝込んだのは、屍のせいじゃねえ」
親父の声が、低くなった。
「じいさんが言うにはな。前の晩、道場の前を通ったら、灯りが点いとって、中で足音がしとったんだと。稽古してるんだと思って、通り過ぎた。……九人が座って死んどったのは、その夜のうちの話らしいんだ」
楊文が、椀を置いた。
「足音が、していた」
「じいさんの寝言だろう。歳が歳だ」
親父は笑って、次の客の注文を取りに行った。
その晩、宿で楊文は言った。
「双柳鎮の話は、俺も聞いたことがある」
「はい」
「一年半前だ。江湖じゃ、しばらく騒がれた。あの頃は、俺も、たいした話だと思ってた」
楊文は、帳面に書いた。双柳鎮。一年半前。門人九人。刀傷なし。
「あんたは、どう思う」
「座ったまま、というのが」
沈曉は、言葉を選んだ。
「揃って座っていたのなら、動く必要のない場所へ、置かれたのかもしれません」
「置かれた」
「解けた後で、崩れるまでに時が要ります。歩き回った末に、道場の真ん中に戻って座ったのかもしれない。……推測です」
楊文は、帳面の上の筆を止めていた。
崩れた、という言葉を、この男はもう知っている。
「上手いな」
と、楊文は言った。
「一年半前は、座らせるところまでやってる」
沈曉は、荷を担ぎ直した。

 次の街道筋で、乾した魚を商う女が、塩汲みの集落の話をした。
二年ほど前の夏である。南の海辺に近い集落で、十数人が一度に死んだ。
「疫病だってさ。夏場だからね」
女は天秤で塩を量りながら、手を止めなかった。
「あたしの亭主が、あの塩を仕入れとったのさ。あすこの塩は、白くてね。いい塩だった。……仕入れ先が、ひと夏で消えちまった」
「生き残りは」
「一人だけ。塩汲みの若い衆で、その日は舟で沖に出とったんだと」
女は、天秤の錘を替えた。
「戻ってきたら、村がおかしい。みんな、浜に出て、歩いとったって。呼んでも返事をしねえ。近づいたら、じいさんが……あすこの村の、いちばん年寄りのじいさんがさ。若い衆の顔を見て、こう、掴みかかってきたんだと」
「掴みかかって」
「爪が、腕に食い込んだって。血が出るほど。だけど、じいさんの顔は、寝てるみたいだったって言うんだよ。目を開けたまま、寝てるみたいだったって。……変な言い方だろ」
女は、初めて手を止めた。
「若い衆は、舟に逃げて、沖で二晩、待った。三日目に戻ったら、村の連中は、みんな倒れとった。腐っとったってさ。夏場だからね」
紙に包んだ塩を、女は無造作に置いた。
「役人が来て、疫病だってことになった。若い衆は、村じゅうが歩いとったって言い張った。言い張るもんだから、頭がやられちまったってことになってさ。今はどこかの寺で世話になっとるそうだよ。可哀想にね」
女は、また塩を量り始めた。
「あたしゃ、あの塩が惜しいよ。今どき、あんな白いのはねえ」
楊文の顔は、変わらなかった。
その夜の帳面には、こう書かれた。二年前。夏。南方の塩の集落。十数人。生き残り一人。「みんな歩いていた」。三日で崩れた。爪が食い込む。目を開けたまま寝ているような顔。
崩れた、という一行の上から、楊文はしばらく筆を離さなかった。
「三日、しか保ってねえ」
「はい」
「白澗の連中は、二日経っても、まだ歩いてた」
楊文は筆を置いた。
「浅かったんだな。二年前は」

 三つ目は、洛尾らくびの渡し場で拾った。
船頭は、櫓を漕ぎながら、上流の岸を顎で示した。木立の切れ目に、黒く焼けた土台だけが残っている。
「見えるかね。あすこに、船宿があった」
「焼けたのか」
「焼いたのさ」
櫓が、水を掻いた。
「二年半前の春だ。宿の一家が、六人。朝、荷を届けに行った者が見つけた。……病だと思った。皆そう思った。だが、傷も、吐いた跡も、何もねえ。親父も、女房も、婆さんも、子供が三人も、寝床に寝たまんまだ」
「寝たまま」
「そう。寝る時の衣のままでな。寝てる格好のまんま、死んどった。だから初めは、寝てるうちに何かあったんだろうと」
船頭は、櫓を止めた。舟が、流れに乗って少し傾いだ。
「弔いの支度をしとったら、日が暮れた。その晩だ。……渡しのこっち岸から、宿の窓に灯りが見えたって者がおる」
川音が、大きく聞こえた。
「見に行った者はおらん。次の晩も、灯りが点いた。三晩目に、窓を人が横切ったのを、こっち岸の三人が見た」
「灯りは、誰が」
「誰が点けたんだろうねえ」
船頭は、また漕ぎ始めた。
「四晩目に、若い衆が松明を持って行った。……八人だ。八人で行って、戸を開けもせずに、家ごと焼いた」
「中に、まだ」
「まだ、六人が寝とった」
舟は、流れの真ん中を過ぎた。
「確かめずに、か」
「確かめられるかい。あんた、確かめられるか」
船頭は笑わなかった。
「わしの従兄弟が、その八人の一人だ」
櫓の音が、規則正しい。
「あいつは、その年から酒ばかり飲むようになった。焼く前に、家の中で音がしたと言うんだ。何の音だとは、死ぬまで言わなんだ。……三年で死んだよ。まだ四十だった」
対岸が近づいた。
「今でも、あの村じゃ誰もその話をせん。八人のうち、もう四人は死んどる。生きとる者も、あの岸を見ようとせん」
船頭は舟を着け、銭を受け取り、それから付け足した。
「旅の人。夜、川沿いは歩かんことだ」
二人は、渡しを降りてから、黙って歩いた。
楊文が帳面を開き、書いた。二年半前。春。洛尾の上流。船宿の一家六人。死後に歩いた。村人が家ごと焼いた。
筆が、止まった。
「……あんた」
「はい」
「あの村の連中は、間違ってたのか」
沈曉の目は、川の方にあった。
「もし私が、あの村を通りかかっていたら、六人は焼かれずに済みました」
「そういう話じゃない」
「……いえ」
沈曉は、歩き出した。
「そういう話です」

 旅は、続いた。
拾える話は、拾えるだけ拾った。三年ほど前の秋、東の黒水峠こくすいとうげの駅逓で人夫が八人、一夜で死んだという。傷がなく、疫病として埋められた。その冬、北東の鷹帰山ようきさんの山寺で、僧が十二人消えた。雪解けに骸が出た。狐の祟りだと言われた。
一年前の冬、西の梅嶺ばいれいの炭焼き集落で七人。雪に閉ざされて、春まで誰も知らなかった。
半年前、北西の古渡ことの廃村に住み着いていた流民の一団。何人いたのかも分からない。元から幽霊村だと言われていた場所である。噂は、噂に吸収された。
似た話が、まだあった。
人が一度に死ぬ話は、この国のどこにでもある。飢饉、疫病、野盗、山崩れ。楊文はそれを一つずつ聞き、一つずつ選り分けた。傷がないもの。歩いたと言われるもの。数日から数月で崩れたもの。
選り分ける手つきは、几帳面だった。
銭の勘定と同じ手つきである。仇討ちのために、江湖の人間が当然やる作業を、この男は当然のようにやっていた。誰に習ったわけでもない。俺の門派を滅ぼした男が、他にも同じことをしているなら、それを全部拾ってやる——それだけの、まっすぐな理屈だった。
帳面の頁が、増えていく。
沈曉は、隣でそれを追った。
一つ、また一つ、書き込まれるたびに、彼の中で何かが数えられていった。数えたくないものを、数える。三年。上達している。順に、上手くなっている。
その順序を、彼だけが読める。
そして、もう一つ読めるものがあった。
場所である。
東の峠、北東の山寺、南東の船宿、南の集落、南西の武館、西の炭焼き、北西の廃村。
棠梨村。白澗観。
九つ。
地図の上に置いてみたことは、一度もなかった。頭の中に、この十年、彼が歩いてきた土地の形が入っている。どこに住み、どこを離れ、どの街道を使ったか。
置かなくても、分かる。
彼は、何も言わなかった。

 その日の午後、雨が来た。
夏の走りの、強い雨である。二人は街道沿いの廃屋の軒下に駆け込んだ。屋根は半分落ちていたが、雨をしのぐだけの庇があった。
雨は、白い幕になって街道を叩いた。
二人とも、雨の方を向いていた。それから楊文が荷をほどき、帳面を出し、その下からもう一つを取り出した。
宿場で買った、街道の地図である。
膝の上に広げ、楊文は帳面と見比べ始めた。山も川も、あるべきところに大まかにある。それで足りた。
筆の穂先を舐め、帳面を横に置く。
書き付けを、頁の初めから繰り直した。日付、場所、人数、様態。三日で溜まった頁が、指の下を流れていく。繰り終えると、楊文は地図の上に筆を下ろした。
「双柳鎮」
言いながら、印を打つ。
「洛尾。……塩の集落は、名がねえな。この辺か」
海に近い辺りに、印。
「黒水峠。鷹帰山」
東と、北東。
「梅嶺。古渡」
西と、北西。
七つの印が、雨の音の中で打たれていく。楊文は筆を止めた。古渡の印の上で、筆先が下りない。
「……これは、入れていいのか」
「迷いますか」
「流民が住み着いてた廃村だ。何人いたのかも分からん。元から幽霊が出るって言われてた場所で、話が全部そっちに吸われてる。……そもそも、人が死んだのかどうかも怪しい」
楊文は筆の柄で、こめかみを掻いた。
「入れなきゃ、話は綺麗になる。入れると、汚れる」
「入れておいて、後で外せます」
「そうか。そうだな」
印は、残った。
八つ目は、棠梨村である。谷の位置に、楊文は少し丁寧に印を打った。
九つ目に、筆が止まった。
白澗観は、地図に載っていない。街道から山へ入る道の、その先である。楊文は谷の口を目で測り、山ひとつぶんを指で数えて、そこに印を打った。
打ってから、指の腹でその上を一度だけ撫でた。
沈曉は、雨の方を向いていた。
背中で、聞いている。九つの印が、いま一枚の紙の上に並んだ。その形をこの男が見るまでに、あと幾つ息を吸うか。
「……なあ」
思ったより、早かった。
「これ、見てくれ」
沈曉は、振り返った。

 地図の上で、九つの印は弧を描いていた。
東の峠から、北東の山寺。南東の渡し場、南の海辺。南西の鎮。西の炭焼き。北西の廃村。西の谷。北の山。
「並んでる」
楊文は、印を指でなぞった。
指は一周して、始めに戻った。
「ぐるっと、並んでる。……偶然か?」
沈曉は、答えなかった。
楊文は懐から麻紐を出した。荷を縛る紐である。指で長さを測り、印の一つに端を当て、もう一方の端で隣の印を測った。次の印へ。また次へ。
九つを測り終えて、彼は紐を膝に置いた。
「どれも、だいたい同じだ」
「何がですか」
「真ん中からの、距離だ」
楊文は紐の一端を、地図のある一点に押さえた。そのまま、もう一方の端をぐるりと回した。
紐の先が、九つの印を順に掠めていく。
多少の出入りはある。それでも、どの印も紐の先から遠く外れない。
「円だ」
楊文は、紐を放した。
楊文は、その円の前に座ったままでいた。雨が庇を叩く音だけが、その間を埋めた。
やがて、帳面を開き直した。
「年だ」
筆の柄が、印の一つを押さえた。
「黒水峠が三年前の秋。いちばん古い。鷹帰山が、その冬。……この二つが、外側だ」
柄が、内へ動いた。
「洛尾が二年半前。塩の集落が二年前。双柳鎮が一年半前。梅嶺が一年前」
声が、少し速くなっている。
「古渡が半年前。棠梨村が数ヶ月前」
柄が、止まった。
「白澗観が、ひと月前だ」
楊文は、地図から顔を上げなかった。
「あんた、分かるか。新しいやつほど――」
「内側です」
「そうだ」
円は、ただの円ではなかった。
三年前の印は、外側の縁にある。二年前のものは、その内側。一年前のものは、さらに内側。半年前、数ヶ月前、ひと月前と、印は螺旋を巻きながら、中心へ向かって近づいている。
楊文は麻紐をもう一度取った。
中心から黒水峠までを測り、紐に指の爪で印をつけた。次に、中心から白澗観までを測った。
紐の、半分にも足りなかった。
「……三年で、ここまで縮んでる」
楊文は紐を丸め、地図の真ん中を筆の柄で指した。
沈曉の目が、地図を渡った。九つの印を一つずつ辿って、それから、筆の柄が指している場所で止まる。
何もない場所である。
街道が二本交わり、川が一本流れている。地図の上では、ただの余白だった。

「探してるんだ」
楊文の声は、低かった。
「この犯人は、何かを探してる。……いや、誰かをだ」
沈曉は、答えなかった。
「考えてみりゃ、初めからおかしかったんだ」
楊文は帳面を閉じ、膝の上で組んだ。
「門派を滅ぼす理由がねえ。金が目当てなら、白澗観は貧乏すぎる。恨みなら、名乗るはずだ。名を上げたいなら、江湖で言いふらす。……あの晩、あの山から盗られたものは、何ひとつなかった。人だけが死んだ」
楊文は、円をなぞった。
「術を試してるんだと思ってた。実験だ。腕を上げるための。……それは、そうなんだろう。実際、上手くなってる。二年前は三日で崩れた。ひと月前は、二日経ってもまだ歩いてた」
指が、外側の印から内側へ動く。
「だがな、腕を上げるだけなら、どこでやってもいいはずだ。都から遠い山奥でも、南の島でもいい。人の少ない土地の方が、都合がいいに決まってる」
顔を、上げた。
「なんで、この円なんだ。なんで、こんなに几帳面に、内側へ寄ってくる」
雨が、庇から糸になって落ちている。
「答えは一つしかねえ。この円の真ん中に、そいつの探してる誰かがいる」
沈曉は、雨の糸を見ていた。
「三年前、そいつは大雑把にしか場所を知らなかった。この辺りにいるはずだ、というくらいだ。だから外側からやった。やりながら、聞いて回った」
楊文は、自分の帳面に手を置いた。
この数日で、彼が拾い集めたものである。
「人が死ねば、噂が立つ。傷のねえ死体が歩いたなんて話は、必ず流れる。……俺たちが今やってるのは、それを拾い集めることだ。そいつは、それを撒いてる」
撒く、という言葉に、沈曉の目が一度だけ動いた。
「噂が立てば、その土地の道士が動く。祓いに行く。腕のねえ奴は失敗して、話が大きくなる。腕のある奴が来れば、鎮まる」
楊文の声が、静かになった。
「鎮まったら、分かるんだ。ここに、それを鎮められる奴がいる、と」
庇から落ちる雨が、地面に穴を穿っている。
「そいつは、待ってるんだ。反応を。誰が動いたか。誰が、鎮めたか。……鎮められなけりゃ、その土地には目当ての奴はいない。だから、次へ行く」
沈曉は、動かなかった。
「三年、繰り返した。外れるたびに、円を小さくした」
楊文の指が、円の中心を押さえた。
「近づいてる。……見つけかけてる」
押さえられた場所は、地図の余白である。
沈曉は、その余白を見ていた。
筆の柄が指し、指の腹が押さえている場所から、真南へ十里ほど。地図には載っていない、街道筋の小さな村がある。その村に、雨戸を落とした家が一軒ある。棚は空で、貼り紙が一枚、剥がされずに残っているかもしれない。
当分。
と、書いた紙である。
書いた者は、その紙の前に立って、続く言葉を探して、見つけられなかった。
「あんたは、どう思う」
楊文が、聞いた。
沈曉は、雨の方へ目を戻した。
「……理に、適っています」
「だろ」
楊文は、少し笑った。誇る笑いではない。ようやく形の見えたものを前にした、疲れた男の笑いだった。
それから、笑いを引っ込めた。
「気に食わねえのは、ここからだ」
「はい」
「その真ん中の誰かは、たぶん、犯人と同じものを知ってる。この術を知ってる誰かだ」
楊文は、指を折った。
「師匠か。仲間か。敵か。あるいは、術を教えた本人か」
四本目で、止まった。
沈曉は、その手を見ていた。
「……どれにしても、生きてる」
楊文は指をほどいた。
「生きてて、隠れてる。三年も探されて、まだ見つかってない。よほど上手く隠れてるか、よほど、静かに暮らしてるかだ」
雨音が、庇を叩く。
「なあ、あんた。もし俺たちがその人を先に見つけたら、話を聞けると思うか」
「……何を、聞くのですか」
「全部だ」
楊文は膝の地図を見下ろした。
「犯人が誰か。何を探してるのか。なんで、こんな術がこの世にあるのか」
指が、白澗観の印に触れた。
「それから、頼む。囮になってくれ、と。事情を話せば、分かってもらえるはずだ。何人死んだと思ってる。その人にだって、責任は――」
言葉が、途中で止まった。
楊文は、自分の言ったことを聞き直す顔をした。それから、首を振った。
「……いや。責任はねえな。悪いのは、殺してる方だ」
地図を畳み始める。
「その人だって、逃げ回ってるんだ。三年も追われて、生きた心地がしねえだろう。それを俺が、囮になれとは。……勝手なもんだ、俺も」
畳んだ地図を、楊文は懐に入れた。

 沈曉は、動かなかった。
訂正することが、できた。
円の中心に立っているのは自分だと、いま言えばいい。この男は理を追う男である。九つの印から、ここまで正確に組み上げた男に、最後の一片を渡すのは、簡単なことだった。渡せば、絵は完成する。
言えば、この男は白澗観が滅んだ理由を知る。
理由は、隣を歩いてきた男が、生きていたこと。
それだけだと知る。
十五の墓に、名を呼びながら土を掛けた男が、その土の理由を知る。周敬の指の墨も、小竹の号のない牌も、全部、この男が生きていたからそこにある。
それを知った後の楊文が、どういう顔をするか。
沈曉には、分かっていた。だから、言わなかった。
それは楊文のためなのか、自分のためなのか。答えを出さないまま、十年が過ぎている。
包囲は、閉じていく。
その円の中を、彼は黙って歩いている。歩きながら、隣の男が、その円を正確に描いてみせるのを聞いていた。描き終えた男は、円の中心にいる者を憐れんですらいた。

 雨が上がった。
街道に、日が差した。濡れた土から湯気が立ち、遠くの山がくっきりと見える。二人は荷を担ぎ、庇を出た。
少し歩いてから、楊文が地図をもう一度出した。
歩きながら、円の中心のあたりを指で辿っている。
「中心の圏内に、何がある」
指が、川に沿って動いた。
「村がいくつか。山が二つ。……街道が交わってるな。宿場が、ここと、ここ」
指が、止まった。
川の曲がるところに、地図でいちばん大きな字が書かれている。城壁を示す四角と、水運の印が並んでいた。
臨江城リンジャンチェン
と、楊文は読んだ。
「でかい街だ。人も、物も、噂も、いちばん集まる。……もし俺が誰かを探すなら、まず、ここへ行く」
沈曉は、その名を見ていた。
水の匂いのする街である。
十年前、彼はその街の門を、夜明け前に通り抜けた。

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