天理の石 — 第32話
第三十二話 一太刀
沈黙は、長く続いた。
光の筋が四本になり、五本になった。丹房の床の上を、朝が少しずつ這っていく。埃が、その光の中で、ゆっくりと沈んでいた。
李慕言は、膝をついたまま動かない。
打たれた肩を押さえる手も、そのままである。顔を伏せているのではなかった。彼は、目を開けて、床の一点を見ていた。
落ちた剣が、光の筋の一本に、半ば届いていた。
擦り切れた柄布が、朝の光の中で色をなくしている。十年、独りで振られ続けた剣は、いま、誰の手の中にもなかった。
沈曉は、待った。待つ側に回るのは、この十年で初めてである。
「……そうですか」
やがて、李慕言が言った。
声は、驚くほど平らだった。乱れてもいない。掠れてもいない。
「作ってはならない、と」
「はい」
「焼こう、と」
「……はい」
李慕言は、床を見たまま続けた。
「では、あなたは」
言葉が、そこで一度、止まった。
「あなたは、あの丹を、欲しくなかったのですね」
沈曉は、答えた。
「はい」
「一度も」
「一度も」
李慕言の唇が、微かに動いた。
崩れていく、と沈曉は思った。
李慕言の、床についた方の手が動いた。指が床板を一度だけ掻き、爪が木を擦る短い音を立てた。
それきり、その手は元の場所へ戻る。
顔は、変わらなかった。
床板に、細い筋が一本、残っている。
あるのは、間違えて生きた十年だけである。
「私は」
李慕言が、口を開いた。
「あなたに、追いつきたかった」
声は、まだ平らだった。
「聞かせて頂けたら、その次に何をするかを、決めていました」
沈曉は、その言葉を待った。
「あなたが、朝廷に追われる身であることは、知っていました。裴松様の書類を見れば、分かることです。……追われる方を匿う方法を、私は幾つも考えました。宮中に伝手があります。都の南に、人の来ない家もあります」
彼の指が、床板の木目を辿った。
「聞かせて頂いて、それから、お守りするつもりでした。……十年、それだけを考えて、生きてきました」
丹房が、静かだった。
「守る相手を、私は、自分の手で老いさせました」
沈曉は、動けなかった。
「そのために、術を学びました。学ぶために、人を使いました。……何人使ったかは、覚えていません。数えていませんでした」
沈曉の指先が、僅かに動いた。
数えない。この男も、数えなかった。
「数えなかった理由が、今、分かりました」
李慕言は、床を見ている。
「数えれば、本当のことになるからです。……あなたも、そうでしたか」
沈曉は、答えられなかった。
答えは、はい、である。はい、と言えば、この男と自分が同じ形をしていることを、認めることになる。
認めるべきだった。彼は、口を開いた。
「……はい」
李慕言が、初めて顔を上げた。
その目に、何もなかった。
これは、自分の目だ、と沈曉は思った。
十年、鏡を見るたびに、そこにあった目である。
「私は」
李慕言が、言った。
「あなたのようになりたかった。……なりました」
その一言が、朝の光の中に落ちた。
「欲しがらず、恨まず、何も持たない。……人でないものの形です。あなたは、それを、そうと知って生きてこられた。私は、知らずに、そこへ辿り着きました」
彼は、自分の掌を見た。
剣を握っていた掌である。落とした剣は、まだ床にある。
「なりたかった形に、なってみて、初めて分かりました」
声が、そこで初めて、少しだけ揺れた。
「ここには、何もない」
声は、それきり静まった。
丹房の隙間から見える空が、白から淡い青へ、変わりつつあった。あの高さには、雲の一つもない。
沈曉は、その言葉を、体の芯で受けた。
欲しがらないことを、彼は規律だと思っていた。惜しくならないように生きることを、償いだと思っていた。
思い違いだった。
教えたのは、自分である。
言葉ではなく、生き方で、教えてしまった。
風が、丹房を抜けた。軋みは、鳴らない。
李慕言は掌を下ろし、また床を見た。
「一つだけ、お願いがあります」
沈曉は、動かなかった。
「十年、私は、あなたの言葉を欲しがりました。頂きました。……これ以上、欲しいものが、思いつきません」
彼は、顔を上げた。
「なら、今度は」
朝の光が、その顔を照らしている。
「今度こそ、あなたの手で」
沈曉の手は、動かなかった。
言葉の意味が届くのに、時間がかかった。届いてから、彼はもう一度その顔を見た。
乞う顔ではない。責める顔でもない。十年前のあの夜に受け取り損ねたものを、いま受け取ろうとしている顔だった。
あの晩、彼は剣を振り下ろし、外した。外して、何も言わずに去った。この男の十年は、あの一太刀が終わらなかったところから始まっている。終わらせてやることが、この男にとって、唯一の贈り物であるかもしれなかった。
沈曉は、剣の柄に手を掛けなかった。
この十年、彼は自分に一つの規を課してきた。三十四で止める。三十五人目を作らない。数字に縋っているのだと、彼は知っていた。縋りながら、その数字を、盾のように使ってきた。
だから、彼は思ってきた。自分は、もう、殺せない、と。
違う。
今、彼にはそれが分かる。殺せないのではない。剣は握れる。腕は動く。この男は抵抗しない。技も、体も、そこにある。
彼が、殺さないのだ。殺さないと、彼が決めるのだ。
規に守られてきた男が、初めて、規なしでそこに立っていた。
「――できません」
沈曉は、言った。
声は、震えなかった。
「あの晩、私は、あなたに何も言わずに去りました。それが、私の罪です」
彼は、膝を折ったまま、目を逸らさなかった。
「今、あなたを斬れば、私は、また同じことをします。……終わらせて、去る。それだけです」
「――」
「私は、もう、そうしません」
言い終えて、彼は自分の声を聞いた。
十年前、あの夜に出せなかった声である。
それでも、彼は口を開き続けた。
「あなたが、生きて、何をなさるかは、私には決められません。……決めるのは、あなたです」
「もう、何もありません」
「はい」
沈曉は、頷いた。
「ないところから、始めた者を、私は知っています」
背後に立つ男の気配を、彼は背中で感じていた。
李慕言は、その言葉を聞いていた。
聞いて、黙っていた。それから、微かに、頷いた。
「あなたは、変わられました」
「……そうでしょうか」
「はい」
李慕言は、そこで初めて、笑いに似たものを浮かべた。
拾われて一年が過ぎた頃、池で鯉が跳ねた時に浮かんだのと、同じ形だったかもしれない。それを見た者は、この場にいなかった。
「私は、変われませんでした」
彼は、そう言って、目を閉じた。
沈曉は、動かなかった。
生かせば、この男は空のまま生き続ける。殺せば、彼が三十五人目を作る。
どちらも選ばずに、彼は座っていた。目を閉じた男の顔に、朝の光が届いている。
背後で、床板が鳴った。
沈曉は、振り返らなかった。振り返らなくても、分かる。このふた月半、彼はその足音を聞き続けてきた。宿の朝、街道の昼、野営の夜。誰よりも先に立ち上がり、誰よりも先に歩き出す足音である。
その足音が、今朝は遅かった。
一歩ごとに、間がある。踏み出して、止まり、また踏み出す。歩幅も、いつもより短い。
進み出た足音は、若い方のものだった。
楊文が、二人の傍らに立った。
剣を提げている。刃は死に、峰だけが生きている、集落の鍛冶屋で購ったなまくらである。
沈曉は、見上げなかった。
「あんた」
楊文の声は、静かだった。
「あの時、なんで剣を下げたのか、俺には分かんなかった」
沈曉は、答えない。
「……今、分かった」
それきり、声がなかった。
「そいつは、俺の門派を殺した」
「……はい」
「十いくつだ。師匠も、兄弟子も、去年入ったばかりの子供もいた。名前を、俺は全部覚えてる」
沈曉は、答えなかった。
「あんたの罪と、こいつの罪は、別だ」
楊文の目は、こちらへ向いていない。
「あんたが背負うもんじゃねえ。……あんたの手でもねえ」
彼は、剣を持ち直した。
「これは、江湖の仇だ。俺の役目だ」
李慕言が、目を開けた。
楊文を見て、それから、僅かに姿勢を正す。膝をついたまま、背筋を伸ばす。打たれた肩を押さえていた手は、膝の上へ下りている。
「……そうですか」
李慕言は、言った。
「あなたに」
「文句あるか」
「いいえ」
彼は、目を伏せた。
「あなたが、いちばん正しい」
楊文の顎が、僅かに動いた。
何かを言いかけて、やめた。やめて、剣を上げた。
沈曉は、立ち上がる。
止めるためではない。止めることを、彼はもうしないと決めている。
立ち上がり、二人の傍らへ寄った。寄って、李慕言の正面に立つ。
李慕言が、彼を見た。
その目に、初めて、何かが浮かんだ。
沈曉は、それを名付けなかった。
「……見ていて、くださいますか」
李慕言が、言った。
「はい」
沈曉は、答えた。
「目を、逸らしません」
李慕言は、その言葉を聞き、ゆっくりと目を閉じた。
その直前、視線は楊文の方を向かなかった。剣を持つ者ではなく、正面に立つ者を、最後まで見ていた。
剣が、落ちた。
一太刀である。速くも、遅くもない。楊文の剣は、いつも通りに振られた。型の綺麗な、実直な剣である。刃は死んでいたが、この一撃には足りた。
音は、短かった。
沈曉は、目を逸らさなかった。最後まで、見ていた。倒れる体を、崩れる肩を、床に流れていくものを。見ながら、彼は自分の指が震えていないことに気づいた。震えていない指で、彼は立っている。
楊文が、剣を下ろした。下ろした腕が、そのまま垂れた。
彼は、動かない。仇を討った男の顔ではなかった。
「……終わった」
楊文は、そう言った。
言って、剣を鞘に納めた。納める手が、少しだけ、手間取った。
埋葬は、境内の隅にした。
焼け跡の、堂の輪郭から少し離れた場所である。日は高くなり、境内の草の上を、秋の始まりの風が渡っていた。蝉の声は、もうほとんど残っていない。代わりに、草の中で小さな虫が鳴いている。
楊文が穴を掘った。沈曉が手伝おうとして、断られなかった。
二人で、掘った。
白澗観の裏山では、この男は手伝いを断った。あの時、沈曉は隣で土を運んだ。今は、同じ穴を、二人で掘っている。
深さは、獣が届かない深さにした。
骸を下ろす時、楊文が両腕で抱えた。抱え方が、丁寧である。この男は、十五の骸を、一人ずつこうして下ろした。
副葬品は、なかった。
剣は、折れていない。柄の布が擦り切れているだけである。楊文はそれを骸の胸の上に置き、置いてから、少し考えて、位置を直した。
沈曉は、名を呼ばなかった。
呼ぶべきかどうかを、彼は考えた。考えて、やめた。この男の名は二つある。俗名と、道号である。道号は捨てられ、俗名は、この十年、誰にも呼ばれなかった。
どちらを呼んでも、間違いのような気がした。
土を、かけた。
最後の一掬いを終えた時、日は、もう高くなっていた。
楊文が、山門の方へ歩いていった。
水を汲みに行くと言った。沈曉は、頷いた。頷いて、その背中が石段の下へ消えるのを見送った。
境内に、一人になった。
風が、渡っていく。音のない軒を、風が抜けていく。歪んだ丹房が、遠くで軋んでいる。
沈曉は、土饅頭の前に座り、懐へ手を入れた。
布包みが、出てきた。
結び目を解く。灯りではなく、日の光の下で、それは違って見えた。
古い銭が、一枚。
その下に、深い色をしたものが、一粒。
沈曉は、丹を摘まみ上げた。
この一粒の中に幾人がいるのかを、彼は数えていない。数える資格がないと思ってきた。今も、そう思っている。
思いながら、彼はこの十年、これを捨てられずにいた。
この一粒の中に閉じ込められている限り、この人たちは、どこへも行けない。留めていたのは、彼である。
語った。
出した言葉は、もう彼の中にはない。中にないものを抱えている必要も、なかった。
沈曉は、丹を掌に乗せる。
もう片方の手で、印を組んだ。
治療の術である。棠梨村で、絡んだ糸を一本ずつ解いた、あの手だった。この一粒は、命の結び目の塊である。無理やり引き剥がされ、無理やり結び直され、練り上げられて固められた、たくさんの結び目。
彼は、糸口を探した。
あった。
解き始めると、それは驚くほど素直にほどけていった。ずっと、そうされるのを待っていたようだった。
結び目が一つ、緩む。二つ目が、緩む。
掌の上で、丹の深い色が少しずつ薄れていく。薄れながら、何かが立ち上っていった。煙ではない。湯気でもない。目に見えるものではなかった。ただ、掌の上の重さが、少しずつ軽くなっていく。
沈曉は、指を動かし続けた。解いた分だけ、彼の掌が空になる。
最後の結び目を解いた時、丹は、消えた。
跡形もなかった。掌に、灰の一粒も残らない。彼は、その空の掌を見ていた。それから、顔を上げた。
空は、青かった。
夏の終わりの、高い空である。風が、雲のない青を、どこまでも磨き上げていた。
彼は、その空を見ていた。長いこと、見ていた。
なくなってみて、初めて、目方が分かる。
やがて、彼は掌を閉じた。
その手を、膝の上に置いた。
布包みには、古銭が一枚だけ残った。彼はそれを結び直し、懐へ戻した。戻す手つきは、十年前と、同じだった。
石段の下から、水を提げた楊文が上ってきた。
上ってきて、境内に座り込んでいる男を見つけた。
「何してんだ」
「……座っていました」
「立てるか」
沈曉は、立ち上がろうとした。立ち上がれなかった。膝が、言うことを聞かない。一晩の術と、一日の戦いと、掘った穴の深さが、この体には重すぎた。
楊文が、腕を掴んで引き上げた。
引き上げながら、この男は何も聞かなかった。座り込んでいた理由も、傍らの土饅頭のことも。
二人は、山を降り始めた。
三百と六段を、下る。沈曉の足は、上る時より、さらに重かった。楊文が、一段ごとに歩を合わせた。合わせていることを、口には出さなかった。
半分ほど下りたところで、楊文が足を止めた。
沈曉も、止まった。
石段の下、山道の入り口に、人が立っている。
供もなく、馬も繋がず、老人がひとり。
朝から、そこに立っていたのだろう。日が、その白い髪を照らしていた。