天理の石 — 第30話
第三十話 説明
空が、少しずつ白んでいく。
丹房の隙間から差し込む光が、埃の舞う空気の中で、細い筋になっていた。夜と朝の境である。闇が薄れ、まだ何の色も持たない、一日でいちばん静かな時刻だった。曉、と呼ばれる刻限である。
どちらでもない時刻に、二人は同じ高さで向かい合っていた。
沈曉は、口を開いた。
言葉は、そこにある。十年、彼の内側にあった言葉である。
それが、最初の一言にならない。
「……煉丹の鍵は」
ようやく、それだけ出た。
「材料は、命です」
李慕言は、動かない。
肩を押さえたまま、こちらを見ている。聞く姿勢を、崩さなかった。
「命であれば、何でもいいわけではありません。……苦しんで、引き剥がされた命であるほど、良いものが採れます。安らかな死からは、採れません」
声が、一度、途切れた。
継ぐべき言葉が、幾つも喉の途中で詰まっている。
「丹は、完成していました。あの夜に」
風もないのに、丹房の埃が、僅かに揺れた気がした。
「作り上げてから、私は、それを帝へ報告しませんでした」
李慕言の目が、初めて動いた。
「丹は、一粒です」
沈曉は、続けた。
「一粒で、終わるはずがありません。帝は、老います。老いる者は、次を求めます。次の丹には、次の材料が要る。……材料が何であるかは、申し上げた通りです」
「完成は、終わりではありませんでした。始まりでした。あれが完成した瞬間から、この国のどこかで、誰かが苦しんで死に続ける。……それが、丹というものの正体です」
「報告する前に、記録を焼きました。それから」
言葉が、止まる。
止まった先に、彼が十年、口にしなかった一語がある。
「――人を、殺しました」
誰も、何も言わない。
丹房の外で、鳥が鳴いた。夜明けの、最初の一羽である。
「三十四人」
沈曉は、続けた。
「あなたも、その数はご存知でしょう。焼け跡から三十三。山門の外で、もう一人」
「――」
「殺したのは、口です」
彼は、自分の両手を見た。
「知っている者を、残せませんでした。知っていれば、いつか語ります。語らずとも、知っているという事実だけで、危うい。……そう思いました」
「全員が、全てを知っていたわけでは、ありません」
声が、そこで一段、低くなった。
「工程の、途中までしか知らない者が、大半でした。……薬草の目利きしか、していない者もいました。竈の火加減しか、預かっていない者も」
丹房の光の筋が、僅かに動いた。
「それでも、殺しました。……途中まで、で、十分だからです。欠けた一段は、時と、上からの圧があれば、誰かが必ず埋めます」
沈曉は、目を閉じた。
「無実の者を殺したことも、この口で、申し上げておきます」
「知っていた者は、まだいます」
声が、掠れた。
「実験に使われた者たちです。……あの人たちのことは、三十四に数えていません」
李慕言の呼吸が、止まった気配があった。
「帝が、朝廷から、密かに送っていました。死罪の者たちです。……私は、それを止めませんでした」
「――」
「止めるどころか、この手で。……何人だったかは、数えていません。数える資格が、自分にあるとは思えませんでした」
沈曉の指が、震えた。
「最後に、その人たちを楽にしたのも、私です。苦しみの中から引き剥がすのが、私の役目でした。……役目を終えた後、その人たちをそれ以上苦しめずに済ませることも、私の役目にしました」
喉の奥に、何かがつかえている。
彼は、それを飲み込み、続けた。
「あなたが、聞きたいのは」
目を上げた。
「最初の言葉、でしたね」
李慕言は答えず、僅かに頷いた。
沈曉は、目を閉じる。
閉じた瞼の裏に、十年前のあの晩がある。
「あの日の、四日前でした」
声は、低かった。
「丹房で、私は、共に研究していた者と、話をしていました。……あの人も、道士です。長く、共に働いてきました」
名前は、出さなかった。
名を呼べば、その人が、また目の前に立つ気がした。
「私は、言いました。作ってはならない、と」
言葉が、一つずつ、押し出されていく。
「人の命で、人の命を延ばす道は、道ではない。……そう言いました。焼こう、とも言いました」
沈曉は、一度、言葉を止めた。
「その人は、言いました。王命だ、と」
「……そこで、終われば」
声が、震えた。
「終われば、良かったのです」
彼は、口を閉じた。
開いては、また閉じる。次の言葉が、いちばん重い。
「その人は、続けて言いました」
「――」
「一粒だけ、残そう。……味を、確かめるだけでいい、と」
丹房が、静まり返っている。
「言ったのは、道士です。私と同じ、何十年も欲を削ぎ落とすことに費やしてきた男でした」
沈曉の声が、初めて、僅かに乱れた。
「その男が、丹を前にして、手を伸ばしたのです」
李慕言の指が、床についた。崩れそうな体を、支えるためだった。
「私は」
沈曉は、続けた。
「声を、荒らげました」
「お前も、欲しいのか、と」
丹房に、その一言が落ちた。
落ちて、しばらく、誰も動かなかった。
「生涯で、一度だけ大きくした声でした」
沈曉は、目を伏せた。
「その一言を、あなたは聞き取れなかった。……それが、あなたの十年でした」
李慕言は、動かない。
その言葉を、体のどこかで受け止めている。
「その瞬間に」
彼は、続けた。
「私は、知りました。……これは、帝一人の欲ではない、と」
声に、力を込めた。
「道を修めた者ですら、手を伸ばすのです。何十年、欲を削いできた者ですら。……ならば、この知識は、誰の手にも、渡してはならない」
沈曉は、拳を握った。
「渡してはならないものを、この世から消すには、記録を焼くだけでは足りません。断片を知る者が、一人でも残れば」
彼は、それを絞り出した。
「断片と、欲があれば。答えは、必ず、再現されるからです」
その言葉を言い終えた時、彼は、李慕言を見た。
「それを、証明したのが」
声が、掠れきった。
「あなたです」
言い終えて、彼は息を吐いた。
十年ぶんの言葉は、思っていたより短かった。
その短さを出すのに、十年かかっている。
風が、丹房の隙間を抜けた。軋みは、鳴らない。夜が明けて、建物も静かになっていた。
光の筋が、増えている。
語り始めた時、床の上には一本きりだった。今は、三本になっている。壁の隙間の数だけ、朝が入ってくる。三本の光の中で、埃が音もなく舞っていた。
李慕言は、動かない。
その顔から、何かが剥がれ落ちていくのを、沈曉は見ていた。恨みでも、怒りでもない、もっと硬いものである。
音は、しなかった。
「一つ、伺っても」
李慕言が、言った。
声が、掠れている。
「あの号は」
沈曉は、顔を上げた。
「知還、と。……あれは、どなたが」
「私です」
答えは、すぐに出た。この一つだけは、詰まらずに出た。
「――」
「あなたが十四の年の、春です。あなたの師が、まだ号を決めかねておられた。私は隣の房におりましたので、書き付けを一枚、置いておきました」
「置いた、だけですか」
「はい」
「言ってくださらなかった」
「私が付けたと知れば、あなたが困ると思いました」
李慕言は、しばらく黙っていた。
「出どころは」
「古い詩です」
沈曉は、そう言った。
「田舎へ帰る男の詩でございます。田も畑も荒れているのに、それでも帰ろう、と書き出す。……いい詩ではありません。愚痴のような詩です」
「なぜ、それを」
「知って、還れ、と」
彼は、言った。
「知ってから、還れ、という意味に取りました。……取り違えていたかもしれません」
李慕言は、答えなかった。
その口が、一度、動いた。声にはならなかった。二文字を、形だけで言ったように見えた。
沈曉は、それを見なかったことにした。
「なぜ」
李慕言の声が、初めて、小さく震えた。
「なぜ、私を、斬らなかったのですか」
沈曉は、その問いを、長いこと見ていた。
「言えば」
答えは、すぐには出なかった。
「言えば、巻き込みます。……教えれば、近づけてしまいます」
彼は、両手を見た。
「あなたが、何も知らずにいてくれることだけが、あなたを、この知識から遠ざける、唯一の方法でした。……だから、斬りませんでした。斬らずに、何も言わずに去りました」
「――」
「黙ることしか、できませんでした」
続ける言葉は、もう残っていなかった。
楊文は、その一部始終を、隣で聞いていた。
闇の中ではない。夜明けの光の中で、正面から、聞いていた。
牢の外で聞いた夜、この男の手は壁の漆喰に指の跡を残した。今朝、その手は、剣の柄の上に置かれたまま、一度も握り込まれなかった。
李慕言は、動かない。
膝をついたまま、顔を伏せている。伏せた顔から涙が落ちているのかどうか、沈曉には見えなかった。
焼け跡に、長い沈黙が降りた。
夜明けの光が、崩れた丹房の隙間から、少しずつ、床の上に伸びていく。