天理の石 — 第4話
第四話 寮
目を開けると、堂の中が明るかった。
壁に背を預けたまま、首を右へ落として眠っていた。膝の上の手が痺れている。眠るつもりはなかった。白湯の椀を置いて、それきりの記憶がない。
板間に、白が並んでいる。
顔に、布が掛かっていた。
昨日の夕方まで、布は無かった。
楊文は壁に手をついて立ち上がり、いちばん手前の傍らに膝をついた。布の端に指をかけて、そこで止まった。めくれば、確かめたことになる。確かめてしまえば、もう昨日の顔には戻らない。
指を離した。
布は、揃っていなかった。白い晒しが多く、その間に灰色がかったものが幾枚か混じっている。道服の布である。裂き目は真っ直ぐで、裂いた手の癖が出ていた。
その灰色を、楊文は端から目で追った。四枚あった。
礼を言わなければならない。
思って、口が動かなかった。喉の奥で、言葉が形になる手前で崩れた。膝をついたまま、彼は堂の梁を見上げた。梁は、入門した年から同じ場所にある。
外へ出ると、井戸端に人がいた。
沈曉が水を汲んでいる。汲んで、桶に八分目で止めた。袖が肩口まで裂けていて、その裂け目を晒しで留めてある。縫ったのではない。留めただけのものだった。
「あんた」
「はい」
「寝たか」
「休みました」
休んだ、と言う。寝たとは言わない。ずれた分に、何かが入っている。
「傷を、検めます」
「後でいい」
「今にしてください。動く前に見ておく方が、早く済みます」
断る理由が思いつかなかった。板間に座らされ、晒しを解かれた。縫い目は二針ほど切れている。焼酒が沁みた時も、楊文は声を上げなかった。上げる気が、起きなかっただけである。
沈曉の指が、傷の縁を辿っていく。その指の腹に、細い裂け目が幾つかあった。紙で切った傷だった。昨日、この男は符を書きながら貼っていた。書いた端から貼って、また書いた。
「あんたの手も、切れてる」
「浅いものです」
それで話が終わった。自分のことは、一行で終わる男らしい。
粥を炊いたのも、沈曉だった。
米櫃から、二人ぶんだけが減っていく。十幾人ぶんの米が入っている櫃だった。楊文は椀を持ったまま、しばらく手をつけずにいる。それから、食った。食えることが腹立たしい。腹立たしいと思う自分も、面倒だった。
椀を置いて、彼は口を開いた。
「持たせるもんを、選ぶ」
「持たせる」
「一緒に埋める。うちは、そうしてきた」
沈曉は頷いた。何を、とも、なぜ、とも聞かない。
「板は、要りますか」
「牌か。……ああ、要る。十五枚」
「では、納屋を見ておきます」
それだけで、手が分かれた。
納屋へ回る途中で、山門の前を通った。
敷石の上に、竹箒が倒れている。三日前と同じ形で、同じ場所にある。掃いている途中の手から落ちた形だった。
楊文は、その傍で足を止めた。
拾えばいい。拾って門の脇へ立てかければ、それで元通りになる。伸ばしかけた腕が、途中で止まった。
立てかければ、片付いてしまう。
片付いた門を、明日、あいつが掃きに来ない。
彼は手を下ろし、箒を跨いで納屋へ入った。跨ぐ時、柄に触れないように足を高く上げた。
昼のうちに済ませるつもりでいた。済まなかった。
堂の香が絶えるたびに立てに戻り、戻るたびに、白の列の前でしばらく座っていた。香は昨日、沈曉が納屋から見つけてきた束の残りである。一本が尽きるまでの間が、思ったより短い。座っている間、何も考えていない。考えていないことに気づいて、また立ち上がる。それを幾度か繰り返して、日が傾いた。
納屋の板は、十五枚に足りた。
昨日、夜具の数もそうだった。この山には、いつも十幾人ぶんのものがある。米も、夜具も、板も。数が合うようにできている山だった。
日が西の稜線にかかる頃、彼は灯りを提げて寮へ入った。
小さな房が、廊下の両側に並んでいる。
左が古い順、右が新しい順である。入門するたびに右へ一つずつ延びてきた並びで、いちばん端が小竹の房だった。
どの戸も、開いている。
昨日、夜具を取りに二人で入った。抱えられるだけ抱えて、すぐ出た。今日は、そうはいかない。
楊文は、左の手前から入った。
文机に、書が伏せてある。
開いたまま伏せてあって、頁の間に紙縒りが挟まっていた。読みかけの印である。この男は本を読む時、いつも二本挟む。今日読んだところと、明日読むところと。
楊文は書を取り上げ、裏返した。
紙縒りは、二本ともあった。
明日読むはずだった頁を、彼は開いてみた。字を追いかけても、意味が入ってこない。二行目で諦めて、閉じた。閉じてから、紙縒りをどうするかで少し迷った。
抜けば、読み終わったことになる。
挟んだままにした。
次の房に、繕いかけの衣があった。
膝の当てを縫っている途中で、針が刺さったままになっている。糸は半分ほど渡って、そこで止まっていた。針の先が上を向いている。
楊文は、その針を抜いた。
持ったまま、置き場所を探した。針山がこの房のどこかにあるはずだった。棚の上にも、机の端にもない。探しているうちに、探すことそのものが馬鹿らしくなった。
結局、針は戸口の柱へ刺した。
正しい置き方ではない。他に、思いつかなかった。
碁盤は、三つ目の房にあった。
打ちかけの局面が、そのまま残っている。黒が下辺で二つ取られて、白がそれを追いかける形だった。碁笥の蓋が両方とも開いている。片方の蓋の裏には、爪で削った線が幾本も引いてあった。負けた数だと、本人が言っていた。
この一局は、白の勝ちだった。
楊文には分かる。この二人の碁を、幾晩も横で眺めてきた。口を挟むと両方から叱られるので、眺めるだけだった。
碁笥の石を、ひと握りずつ取った。
黒をひと握り、白をひと握り。半分ずつのつもりで掴んだ手が、思ったより多く掴んでいた。彼は幾つか戻し、また掴み直した。何粒が正しいのかを決める決まりは、どこにもない。
四つ目の房で、彼は立ち往生した。
何も無い。
夜具は昨日運び出した。机の上は拭いてあり、筆は筆架に揃い、衣は畳んで棚に載っている。この兄弟子は、朝いちばんに山じゅうを怒鳴って回る係だった。その仕事に出る前に、必ず自分の房を片付けていく。
持ち出せるものが、一つもない。
楊文は房の真ん中に立って、灯りを回した。光の先に、机の縁の窪みが見えた。書き物の時に指で押さえる癖があって、そこだけ木が凹んでいる。
凹みは、持って行けない。
彼は棚から一番上の衣を取った。畳み目が几帳面に揃っている。それを抱えて、房を出た。
残りの房も、順に回った。
欠けた硯。麓で買った安物の匕首。乾かしかけの薬草を紙に包んだもの。誰の手のものかも分からない、小さな木彫りが一つ。名を呼びながら探せば、たいてい一つは行き当たる。
行き当たらない房が、二つあった。
一つには、壁に山の刷り物が貼ってある。麓の紙屋のもので、破れた角が糊で継いであった。剥がせば、そこから裂ける。もう一つの房では、窓の桟に小さな石が並べてあった。谷で拾ったものだろう。大きさの順でも色の順でもない並び方で、本人にだけ理由がある。楊文はその列を長く眺め、崩さずに出た。
この二人には、何も持たせられない。
抱えるものが、増えていく。
両腕が塞がるたび、彼は廊下へ出て、床に並べた。並べる順は、入門の順である。順を間違えないことだけに、頭を使った。
一つだけ、開けない戸があった。
入門の順でいえば、彼より前になる房である。十五年前から空いている。あの人は山を下りた。石段を下りていく背中を、楊文は門のところで見送った。一度も、振り返らなかった。
その前で、足が止まった。
ここには、選ぶものがない。無い方がいい房が、この廊下に一つだけあった。
周敬の房は、右の並びの真ん中にある。
文机に、写経の手本が束になって積んであった。上に一枚、書き上げたばかりのものが載っている。墨が、まだ新しい。
楊文は、その一枚を取った。
罰の写経は、この人が手本を書く決まりだった。叱られた者が手本を貰って、同じものを二十枚写す。手本の紙が上物だった。上物だから、皆わざと叱られた。皆がわざと叱られていることを、この人は知っていた。それでも毎度、同じ顔で怒った。
入門した年、楊文は字が汚いと言われた。
汚いのは事実だった。麓で銭の勘定を書いていただけの手だった。周敬は筆を取り上げず、代わりに手本を書いた。書いて、二十枚と言った。二十枚では終わらなかった。半年、毎晩書かされた。
今の楊文の字は、あの半年の字である。
太くて、整っていない。整っていないが、一画も略さない。略せば、この人に見つかる。
手本を一枚だけ抜いて、束はそのままにした。
束の下に、白紙が挟んである。次に叱る相手のぶんを、この人はいつも先に用意しておく。誰を叱るつもりだったのかは、もう分からない。
廊下に、足音がした。
沈曉が油の壺を提げて立っている。灯りが細くなっているのを、どこかから見ていたらしい。
「注ぎます」
「ああ」
灯りを渡し、受け取った。その間、どちらも喋らない。注ぎ終えた壺を提げて、沈曉は廊下を戻っていく。床に並べた品の列を、脇へ寄って避けていった。
その避け方に、楊文は気づいた。
気づいて、呼び止めなかった。
自分の房は、周敬の隣である。
入って、彼は灯りを机に置いた。
置いて、何をしに入ったのかが分からなくなった。ここに埋めるものはない。埋まる方の房ではない。
寝床は、出た日のままだ。夜具は昨日運び出したので、床板が剥き出しになっていた。壁の剣掛けは、空いている。剣は腰にある。
棚の下に、木箱が一つあった。
内門に上がる時に渡される箱で、皆が同じものを持っている。楊文は蓋を開けた。
中身は少ない。古い襟布。折れた筆。麓の市で買って一度も使わなかった火打ち石。それから、二つ折りの紙が一枚。
紙を開いた。
字が二つ、書いてある。
師匠の字である。下手な字だった。山門の扁額を書いたのと、同じ手だ。
号を貰ったのは、内門に上がった年のことだった。
あの日、師匠は房へ呼んで、この紙を渡した。読み上げもせず、意味も言わなかった。ただ、持っておけ、と言った。楊文はそれを箱へ入れて、それきり出したことがない。
白澗観では、誰も号で呼ばない。
師匠は名で呼び、兄弟子たちも名で呼んだ。小竹は幼名のままだ。号は紙の上にだけあって、この山の誰の口にも一度も乗らなかった。
紙を、楊文は元通りに畳んだ。
蓋を閉じ、少し考えて、また開けた。取り出して、懐へ入れた。
その上から、一度だけ、掌で押さえた。
剣掛けが空いているのは、山を下りたからである。
薬の買い出しは、いつからか彼の役目になっていた。値の付け合いに強いのだと、師匠がそう決めた。どういう言い方だったかは、覚えていない。覚えているのは、月に二度、道を下りるようになったことだけだった。
値切りが達者なのには、覚えがある。
十まで、彼は麓の市にいた。親はない。字は読めなかったが、銭の勘定だけはできた。だから店番の代わりをして、その日の飯を得ていた。
十の年の冬、勘定を誤魔化された。
言い立てて、殴られた。相手は大人だった。地面に転がされて、鼻から血が出て、それでも間違いは間違いだと言うのをやめなかった。
その場に、道士がいた。
まだ髭が黒かった頃の師匠である。喧嘩を止めなかった。終わるまで、離れたところで立っていた。終わって、楊文が鼻を押さえて座り込んでいると、傍へ来てしゃがんだ。
「勘定は、合っていたか」
「合ってねえ」
「では、お前が正しい」
それだけ言って、その人は立ち上がった。歩き出して、五歩ほど行って、振り返った。
「飯は、山にもある」
ついていった理由を、楊文は今でも説明できない。正しい、と言われたのが初めてだったからかもしれない。
その市へ、月に二度、彼は下りるようになった。
三日前も、下りた。
二日で戻る道である。買うものは決まっていて、値は前から動かない。それでも、彼は毎度押した。押さないと、拾ってきた甲斐がない気がした。
宿で、炭焼きの噂を聞いた。
山の方で、夜に灯りが動いていたという。一つではなく、幾つも。楊文は聞き流した。この山に夜、灯りが幾つも動く理由はない。強いて言えば火の番だが、火の番は一つしか要らない。
帰りの荷は、重かった。
薬と、紙と、頼まれた墨と、小竹に土産の飴。荷を担いで最後の石段を上りながら、彼は誰に何から渡すかを考えていた。順まで決めていた。
最初は師匠に薬。次に周敬へ墨。碁の二人には麓の菓子を一包み、割って半分ずつ。飴は、いちばん最後にした。
その順を、彼は今も覚えている。
師匠の房は、寮ではない。
堂の裏手の、少し離れた一間である。楊文は灯りを提げて廊下を出た。夜になっていた。境内に風があり、炎が幾度も傾いた。
戸を開けると、線香の匂いがした。
この人の房は、いつも線香の匂いがする。焚いているところを、彼は一度も見たことがない。
寝床の脇に、書見台がある。乗っているのは経ではなく、麓の暦である。祭の日取りを書き込んでおくものだった。祈雨、土地神、収穫、弔い。この山の祭は小さいものばかりで、それでも日取りだけは几帳面に埋まっていた。
この春の欄に、書き込みが一つある。
日付だけで、中身がない。
楊文は、その日付を長く見た。
小竹に号を渡すつもりだった日である。もう考えてある、と師匠は言った。誰にも言わずに、この人は逝った。日付だけが、暦の上に残っている。
俺の号は、この人の中から出て、紙になった。
あいつの号は、この人の中から出なかった。
暦を閉じかけて、彼はやめた。閉じずに、そのまま置いた。
枕元には、夜具の跡がある。
この人の鼾は、雷より正確に六つ刻みだった。夜中に目が覚めても、その音を聞けば刻限が分かる。分かって、また眠れた。
持ち出すものを、彼は探した。
暦は、置いていくことにした。書き込みは、この房にある方が正しい。代わりに、書見台の脇の硯を取った。使い込まれて、中央が深く窪んでいる。あの下手な字を、この人はこの硯で幾十年も書いてきた。
小竹の房は、いちばん端だった。
去年の秋に上がってきたばかりで、右の並びの、突き当たりにある。
戸を開けて、楊文は灯りを掲げた。
狭い。
もとは物置だった一間を、弟子が増えたので空けた。荷が少ない。棚は空で、机はない。壁に、竹の物差しが一本立てかけてあった。去年、箒の柄を切ってやった時に使ったものである。あいつの背には柄が長すぎて、二寸ほど詰めた。
持ち出せるものが、ない。
書もなければ、碁笥もない。針も、硯も、箱も。木箱は内門に上がる時に渡されるもので、あいつはまだ貰っていなかった。
楊文は房の真ん中に立って、灯りを回した。
何もない。
この山に、あいつのものは何もなかった。あるのは箒が一本で、それは今、門の敷石に倒れている。倒れたままにしておくと決めたのは、自分である。
膝が、床についた。
その傍が、部屋の隅だった。
隅に、落ち葉が寄せてある。
ひと掴みほどである。掃き集めて、捨てに行く前に置いたものだった。椎の、乾いた古い葉だった。三日、誰も触っていない。
楊文は、それを掌に取った。
軽い。指の間で、細かく鳴った。
立ち上がって、房を出た。
廊下の床に、選んだものが並んでいる。
入門の順に、端から。楊文は灯りを提げて、その列の前に立つ。
端から、指を差していった。
十四で、止まった。
もう一つは、掌の中にある。彼は列のいちばん端まで歩いて、そこへ落ち葉を置いた。
十五になった。
廊下の突き当たりの戸が開いたままで、そこから風が入ってくる。列の端で、乾いた葉が一枚めくれた。
楊文は指を伸ばして、それを押さえた。
葉は、指の下でもう鳴らなかった。