天理の石 — 第28話
第二十八話 借り物
山道は、変わっていなかった。
木の位置も、岩の出っ張りも、十年前のままである。下草だけが伸び放題になっていた。踏み分ける者がいなくなれば、道は十年でこうなる。二人は、獣道に近い径を上った。
夏の終わりの木立は、蝉の声が薄くなり、代わりに秋の虫が鳴き始めていた。道端に、見覚えのある薬草が群生している。かつて弟子たちに摘ませていたものである。摘む者がいなくなって十年、根が張り放題に張って、葉が異様に大きくなっていた。
誰も採らない薬草は、こうなるのか。
沈曉は、それを見ながら歩いた。楊文は、口数が少なかった。この男は、上りながら喋る質である。喋らないのは、上るにつれて、隣の男の息が乱れていくのを気にしているからだった。
やがて、石段に出た。
三百と六段。数えるまでもなく、彼はそれを知っていた。段の一つひとつの高さも、覚えている。上の段ほど低く刻んである。上るほど脚が草臥れるからだと、誰かに教わった。
それが誰だったかは、もう思い出せない。ずっと昔、この山を造った者たちの、名も残らない心遣いだった。
幼いころ、隣を歩く足に合わせてもらいながら、数えた段である。
その段を、今日、彼は独りで数えていた。
三十を数えたところで息が上がり、五十を数えたところで足が重くなった。百を数えたところで、彼は一度、立ち止まった。
立ち止まったことに、彼自身が驚いた。
この石段を、彼は幾千回と上ってきた。息を切らしたことは、一度もない。修為が体を支えていたからである。支えが減った体は、石段の高さを、律儀に一段ずつ数え上げてくる。
楊文が、振り返った。
振り返って、歩を緩めた。そのことを、口に出さない。沈曉も、何も言わなかった。息を整えながら、また上り始める。
百五十を数えた頃、脇の岩に、見覚えのある窪みがあった。
雨の日、弟子たちが傘代わりに使った岩である。窪みの下に立てば、頭の分だけ濡れずに済んだ。誰が最初に見つけたのかは、覚えていない。
それでも、彼自身、幾度もそこに立ったことがある。
二百を数えた頃、額に汗が浮いた。
汗をかくということが、この石段では、生まれて初めてだった。生まれて、というのは正しい言い方ではない。百数十年生きて、初めてだった。
三百に届く頃には、脚の付け根が鈍く痛んでいる。
痛みながら、彼は数え続けた。数えることをやめれば、そこで座り込みそうだった。座り込めば、上れなくなる。上れなければ、この段の先で待っている者に、会えない。
三百と六段目に、足を置いた。
その足が、震えていた。震えを、彼は黙って見ていた。
見ながら、七つの年を思った。
あの日、この段の途中で、幼い足が何度も数えを乱した。三度目にようやく揃った歩幅は、彼のものではない。隣を歩く小さな足に、彼の方が合わせていた。
今日、合わせる歩幅はない。
自分の足だけで、彼はその段を越えた。
山門が見えたのは、日が高くなってからだった。
扁額は、なかった。
焼け落ちたまま、十年、掛け直されていない。門柱の上部に、額を吊っていた金具の跡だけが、黒く残る。門そのものは、崩れずに立っていた。柱は焼け焦げているが太い。焼けても倒れないだけの太さで、建てられている。
軒に、風鐸がない。
吊り金具はそのままで、先に何も下がっていなかった。風が軒先を抜けても、音がしない。
沈曉は、その軒先を見上げた。
東の軒の、二番目の金具である。あの濁った音を鳴らしていた鐸は、そこに吊られていた。十年前、焼け落ちたのか、誰かが外したのか、彼は知らない。
門柱に、手を触れた。
焦げた木の感触が、指先に残る。十年前の火が、まだそこにあるような気がした。実際には、ただの炭化した木である。熱は、とうに失われている。
門をくぐった。
境内は、草に覆われている。石畳の目地から、丈の高い草が伸びていた。かつて堂があった場所に、黒い土台の輪郭だけが残る。輪郭は、幾つも並んでいた。
左手の輪郭が、いちばん大きい。本堂のあった場所である。
土台の上には、瓦の破片と、焼けた釘が積もっていた。金気のものは、それきりである。
脚の裏に同じ印の入った器が、十九あった。二代前の祭酒が誂えさせ、彼が二十年、年に一度ずつ並べたものである。焼ければ溶け、溶けなければ拾う者がある。焼け跡に、一つも落ちていない。
本堂の奥、少し離れた一角に、小さな輪郭が幾つも並んでいた。弟子たちの住房である。
いちばん端が、最年少の房になる。入門の順に延びていく並びだった。
十年前、そこにいたのは十四の子だった。
端の輪郭を、沈曉は長く見た。
草が、そこだけ短い。幾度も踏まれた跡である。
踏んだ者は、この山にいる。
沈曉は、その数を数えなかった。数えるための場所ではない。
丹房は、境内の奥にあった。
あった、という言い方が正しいのかどうか、彼には分からなかった。
建物が、そこに建っている。屋根があり、壁があり、戸口がある。だが、どこかが違う。柱の間隔が均等でなく、屋根の勾配は左右で微妙に食い違い、壁の継ぎ目には、余った木材が押し込まれて隙間を塞いでいた。
元の丹房は、この倍の広さがあった。
この建物は、その半分ほどしかない。半分の広さに、元の間取りを詰め込もうとした跡がある。窓の位置が、記憶の中の丹房と同じ側にある。戸口の向きも、同じだった。図面ではなく、体で覚えていた配置を、そのまま縮めて写したものらしかった。
図面を見ずに、記憶だけで建てた建物である。
一度だけ見た図面を、頭の中で組み立て直したような建物だった。骨組みは、正しい理屈で組まれている。理屈は正しいのに、寸法が合わない。
その寸法を、力業で継いでいた。
継ぎ目の一つに、沈曉は目を留めた。
木材の断面が、真新しい。ここひと月ほどの間に、補修された跡である。行商の噂にあった、材木が上がっていく光景を、彼は思い浮かべた。独りで、この歪んだ建物を、独りで直し続けている。
風が、吹いた。
建物の中から、音がした。
軋みである。歪んだ柱が、風に押されて、微かに鳴った。一箇所ではない。幾つもの箇所が、少しずつ違う高さで鳴っている。息を吸うような、吐くような、規則の崩れた呼吸の音だった。
沈曉は、足を止めた。
その背に、楊文が並んだ。並びながら、剣の柄に手をかける。
「あんた」
「はい」
「ここが」
「はい」
それ以上、言葉はいらなかった。
戸口が、開いた。
中から、人が出てきた。
背は、高くない。灰色の、飾りのない衣を着ている。歳の頃は、二十五かそこらだった。顔立ちは整っているが、印象に残りにくい顔である。腰に、剣を一振り提げていた。
その男は、戸口に立って、こちらを見た。
沈曉は、その顔を見た。
覚えのある顔ではない。十四だった子供の面影は、どこにも残っていなかった。それでいて、目だけが、記憶のどこかに触れる。戸の隙間から、印を組む手を見ていた、あの目である。
李慕言だった。
「お帰りなさい」
李慕言が、言った。
声は、静かだった。喜びも、怒りもない。ただ、そう言うことに決めていた者の声だった。
沈曉は、答えなかった。
答える代わりに、境内を見渡す。焼け跡の輪郭。軒に音のない風鐸。歪んだ丹房。それらの向こうで、李慕言は十年、待ち続けた。
李慕言の衣は、灰色である。飾りがない。裴松の屋敷で育てば、もっと良い衣を着せられていたはずだった。良い衣を、この男は選ばなかったのだろう。
背丈は、想像より低かった。
十四で斬られた時のまま、育ちが止まったような印象がある。実際には育っているのだろう。それでも、記憶の中の十四歳の輪郭が、その体に薄く重なって見えた。
「……よく、ここまで」
言葉が、そこで止まった。
続く言葉を、彼は持っていなかった。よく、ここまで、何をしたのか。何をさせてしまったのか。どの言葉も、口に出す前に、意味を持ちすぎた。
李慕言は、待っていた。
待つことに慣れた男である。急がず、こちらの言葉を、いつまでも待てる顔をしていた。この待ち方を、沈曉は見たことがあった。十年前、薬房の戸の陰から見ていた、あの視線の待ち方と同じだった。
沈曉は、口を開いた。
「知還」
その号を、彼は十年ぶりに口にした。
十年余り前、この子がまだ十四だった年に、彼が付けた号である。還るを知る、という意味である。何に還ることを願ったのかまでは、当時の彼も言葉にしていない。古い詩から二字を取って、書き付けを一枚、置いただけだった。
李慕言の目が、動いた。
初めて、僅かに動いた。
「その名は」
李慕言は、静かに言った。
「捨てました」
風が、また軒先を渡った。
軋みが鳴る。幾つもの音が、少しずつ違う高さで、崩れた呼吸のように続いた。
沈曉は、その音を聞いている。
捨てた名を、李慕言は今、返してきた。返された名の代わりに、彼が捨てた方の名を、この男は名乗っている。
望曉と、知還。
二つとも、彼が名づけた名である。
その入れ替わりの意味を、沈曉は口にしなかった。
口にすれば、十年分の何かが、一度に溢れてしまう。まだ、その支度ができていない。
楊文は、半歩下がった場所に立っていた。
剣の柄から、手を離さない。
そのまま、何も言わなかった。この男が、これほど長く黙っているのを、沈曉は見たことがなかった。
李慕言が、目の前にいる。門派を焼かれた男と、門派を焼いた張本人に育てられた子。同い年である。二十五歳が、二十五歳と向かい合っていた。
李慕言は、楊文を見て、何も言わなかった。見る時間だけが、少し長い。
見られる側の楊文も、動かなかった。剣の柄を握る指の関節が、白くなっている。それでも、抜かない。抜かずに、見られるままでいた。
沈曉は、その視線に気づいていた。
山狭で、七体の式が楊文だけを狙った理由を、彼は改めて理解した。狙われたのは、隣にいるからである。
根拠を作ったのは、自分だった。
二十五歳と二十五歳が、視線だけで何かを測り合っている。
風が、止んだ。
軋みも、止んだ。
境内が、静かになる。夏の終わりの陽が、焼け跡の草を白く照らしていた。
李慕言は、戸口へ手を向けた。
「中で、お話ししましょう」
声に、抑揚はない。
沈曉は、動かなかった。
動かないまま、歪んだ丹房を見上げる。図面を知らずに建てられた建物である。骨組みの理屈は、彼の教えたものだった。教えた理屈で、教えていないものが、組み上がっている。
捨てた者と、拾った者が、いま、焼け跡の真ん中で向かい合っていた。
丹房の中は、外よりも歪んでいた。
柱が、内側へ幾らか傾いている。床は水平ではなく、隅へ向かってわずかに沈んでいた。歩くと、沈んだ側へ体が引かれる。慣れない者には、酔うような感覚だった。
中央に、卓が一つ。椅子は、二つしかない。李慕言が、その一つを手で示す。
「お座りください」
沈曉は、座らなかった。立ったまま、卓の向こうを見ている。李慕言も、勧めた椅子には座らず、そのまま向かい合う位置に立った。
楊文は、戸口に立ったままである。
中へ入るように、李慕言が視線で促した。楊文は、動かない。剣の柄に手を置いたままである。
「お連れの方は、外でお待ちいただいても」
「いいえ」
沈曉が、答えた。
「彼も、聞きます」
李慕言は、それ以上言わず、卓の向こうへ回って椅子に腰を下ろす。座り方が、静かである。物音を立てない座り方を、この男も、いつからか身につけていた。
卓を挟んで、李慕言はこちらの顔を見ていた。見る時間が、少し長い。
「……失礼」
李慕言が、初めて、静かに詫びた。
「まじまじと見てしまいました。……お変わりに、なられたので」
沈曉は、答えない。
「こめかみの、白いもの。歩き方も、以前とは違います。石段を、あんなふうに息を切らして上る方では、なかったはずです」
李慕言の声に、初めて、抑揚に似たものが混じる。感情というほど強いものではない。ただ、平らな声の底が、わずかに波立っただけだった。
「何があったのかは、伺いません。伺いたいのは、そこではないので」
彼は、卓の一点を見ていた。
「私は、あなたのようになりたいと思っていました」
沈曉が、顔を上げた。
「歳を取らず、傷も負わず、何を前にしても表情の変わらない方でした。誰かを羨むことも、何かを欲しがることもない。……そういう方だと、私は思っていました。だから、なりたいと思いました」
声が、僅かに落ちた。
「今、目の前におられるのは、老いて、疲れて、階を上るのに難儀する方です。私が長く思い描いてきた形とは、違います」
李慕言は、そこで初めて目を伏せた。その目に浮かんだものを、沈曉は名付けられない。落胆と呼ぶには静かすぎ、悲しみと呼ぶには乾いていた。
「……惜しい、と思うのです」
小さな声だった。
「なぜ、こうなられたのかは分かりません。分かりませんが、私が十年、目指してきた形が、今、ここにない。追いついた時には、もう、そこにいないものを追いかけていたことになります」
沈曉は、何も言えなかった。
あなたが望んだ形は、人ではないものの形だったのです、と言うことはできた。老いず、欲さず、傷つかない体は、幸福な体ではないのだと、言うこともできた。
どちらも、言わなかった。
言えば、これから語る全部の順序が、狂ってしまう気がした。
李慕言は目を上げた。もう、平らな声に戻っている。
「十年」
李慕言が、あらためて口を開いた。
「長い、とは思いません。短い、とも」
沈曉は、立ったまま聞いていた。
「あなたが去られてから、私は宮中で育ちました。裴松様の屋敷で、飯を頂き、字を習い、剣を振りました」
声に、抑揚がない。
「恨み言から、始めるべきなのでしょう。皆、そうします」
李慕言は、卓の上に両手を置く。
「裴松様が育ての親の話をなさる時、幾度も、恨んでよいのだぞ、と言われました。門派を、家族を、体を奪われたのだから、恨んでよいと。恨んでよい、と言われるたびに、私は考えました。何を恨めばいいのかを」
口調は、乱れなかった。
「裴松様の屋敷に出入りする若い武人は、私に、あの人を殺してやろうかと言ってくれたことがあります。憎いだろう、憎んでいいのだと。私は、その申し出に、うまく礼を言えませんでした。憎いのかどうかが、自分でも分からなかったからです」
李慕言は、卓の上で指を一度、組み替えた。
「裴松様の娘御は、私に優しくしてくれました。姉のように慕ってくれと言われて、そうしようとしました。……できませんでした。慕うということが、どういう手続きなのか、私には分からなかったからです。皆、当たり前のようにそれをします。私だけが、手順を知りませんでした。」
李慕言は、平坦に続けた。
「あなたは、私を殺そうとしました。急所を、外しました。……外れたことを、恨めばいいのでしょうか。外さなかった方が、よかったのでしょうか。それとも、殺そうとしたこと自体を、恨めばいいのでしょうか」
沈曉は、答えなかった。
「答えは、出ませんでした。十年、出ませんでした」
李慕言の指が、卓の木目をなぞった。
「恨むという行いには、形が要ります。誰を、何のために、どれほど。……私には、その形が組めませんでした。あなたが何のために私を殺そうとしたのかを、知らなかったからです」
「――」
「知らないものを、恨むことはできません。知らないものは、ただ、分からないだけです」
沈曉は、その言葉を聞いていた。
恨みの形を組めなかった十年と、言葉を持たなかった十年が、卓を挟んで向かい合っていた。
風が、丹房の隙間を抜けた。
軋みが、鳴った。低い音である。李慕言は、その音に慣れた様子で、続けた。
「私の術は、全部、借り物です」
言葉が、平らに落ちた。
「霊根は砕かれました。符も、印も、私には結べません。この十年、私が使ってきたものは、すべて、他から借りたものです」
李慕言は、自分の腰の剣に、片手を添える。
「実験の記録が、宮中に残っていました。焼かれなかった分だけ。私は、それを読みました。読んで、真似ました」
李慕言の声は、変わらない。
「式を組む法も、藁人形を動かす法も、私が考えたものは一つもありません。あなたが焼いたはずの知識の、燃え残りです。……七枚の符に、七通りの借り方があります。何を、どこから、どれだけ借りるか。あなたなら、一目で見抜かれたでしょう」
「――拾った号も、育てられた家も」
李慕言は、そこで初めて、僅かに口の端を動かした。笑いではない。笑いに似た形を、確かめるように動かしただけだった。
「望曉という号も、裴松様の姓も、私の食べた飯も、着た着物も。数えれば、私のものは、この身一つ以外、何もありません」
「剣だけです」
彼は、剣を抜いた。
鞘から出た刃は、傷だらけだった。研ぎ直された跡が、幾重にも重なっている。飾りのない、実用一辺倒の剣である。柄には、擦り切れて色の抜けた布が巻かれていた。
「これだけが、自前です。裏庭で、十年、独りで振りました。誰にも習わずに」
剣先が、灯りを弾いた。
「筋は、悪いままです。裴松様の目にも、そう映っていたはずです。習えば、上達したでしょう。それでも、習いませんでした」
「なぜ」
沈曉が、初めて自分から聞いた。
李慕言は、その問いに、少しだけ驚いた顔をした。
「教われば、教えた人の形になります。私は、誰の形にもなりたくありませんでした」
彼は、剣を見た。
「なりたい形が、一つだけあったからです」
「借りたものだけで、ここまで来ました。……借りたもので、十年かけて、あなたを見つけました」
沈曉は、口を開いた。
「あなたを、殺そうとは思っていません」
「知っています」
李慕言は、静かに答える。
「今日、あなたが術で私を襲うつもりなら、もっと早く仕掛けているはずです。三百六段を、あなたは息を切らして上ってこられた。……その体で、私を殺せるとは思えません」
見られていた。石段を上る間、この丹房から、あるいはもっと近くから。
「私が知りたいのは、一つだけです」
李慕言の声に、初めて、何かが滲んだ。
それが何なのかを、沈曉は言葉にできなかった。怒りでも、悲しみでもない。もっと乾いた、長く保存された何かだった。
李慕言は、そこで一度、目を閉じる。閉じた瞼の裏に何を見ているのかを、沈曉は知らない。
「あの日の夜のことは、幾度も思い出そうとしました。何が、あの晩を招いたのか。前触れが、あったはずなのです。私が見落としたものが、何かあったはずなのです」
彼は、目を開けた。
「四日前の晩、あなたは丹房で、声を荒らげられました」
沈曉の指が、微かに動いた。
「私は、廊下でその声を聞きました。何を言っておられたのかは、聞き取れませんでした。……あの晩から十年、私はそれだけを、知りたいと思ってきました」
李慕言は、卓に手を置いたまま、こちらを見上げた。
「最後の言葉ではありません。最初の言葉です」
風が、また軒を鳴らした。
「あの晩、あなたが言ったことを、聞かせて頂きたい」
丹房の中が、静かになった。
沈曉は、答えられなかった。
言葉は、彼の中にある。十年、内側に閉じ込めてきた言葉である。渡すことは、今、できた。渡せば、この対峙は終わるかもしれない。何もかもが、変わるかもしれない。
その先を、彼は恐れていた。恐れの正体を、彼自身、まだ数えきれていない。
「――まだ」
声が、掠れた。
「まだ、言えません」
李慕言は、その答えを見ていた。頷きもせず、失望も見せない。ただ、静かに、剣を持つ手に力を込めた。
「そうですか」
それだけだった。
「十年、待ちました。今日、また待てと言われるなら、待ちます。……ただ、待つ間、あなたがまた老いていくのだとしたら」
李慕言の声が、初めて、僅かに震えた。
「私が待っている形は、いつまで、そこにあるのでしょう」
沈曉は、何も返せなかった。
李慕言の視線が、一度だけ、戸口へ流れた。
戸口には、楊文が立っている。
「では、聞かせて頂けるまで、私はここにいます。……あなたが、言えるようになるまで」
言いながら、その手が卓を離れ、腰の剣の柄へ下りた。
李慕言は、椅子から立ち上がる。その動きに、迷いがない。
沈曉は、腰の剣に手を掛けた。掛けながら、この十年、この動作を何度もせずに済ませてきたことを思う。
剣を抜かずに済む道を、彼は探した。
見つからなかった。
李慕言の足が、床の傾いた側へ動いた。歪んだ床を、この男は熟知している。ここ数年、都を離れるたびに、独りでこの傾きに合わせて歩いてきたのだろう。
沈曉は、剣を抜いた。
その刃を見て、李慕言の表情が僅かに動いた。
「その剣を、覚えています」
李慕言の声は、静かなままである。
「柄を布で巻いた、飾りのない剣です。あなたは、いつも、それを腰に佩いておられました」
沈曉は、答えなかった。
代わりに、剣を構えた。
戸口で、楊文が動いた。
柄を握り、鞘を払う。刃こぼれのない、買ったばかりのなまくらである。刃は、まだ誰の血も吸っていない。
李慕言の目が、その剣へ向いた。
「あなたが」
「そうだ」
楊文の声は、硬かった。
「白澗観の生き残り、楊文だ」
「存じています」
李慕言は、剣を構え直した。
「……同じ歳だと聞いています」
「知ったこっちゃねえ」
李慕言は、答えなかった。
答える代わりに、剣先を、僅かに下げた。その先が、狙いを変えた。沈曉ではない。楊文へ、向いていた。
風が、止んだ。丹房の軋みも、止まる。
傾いた床の上で、三人が対峙していた。灯りは、隅の一つだけである。灯りの届かない場所に、影が濃く落ちていた。
李慕言の剣が、動いた。
速い。術の助けを借りない、剣一本の速さである。狙いは迷いなく、楊文へ向かっていた。
楊文の剣が、それを受けた。
鉄と鉄が、ぶつかる。
その音が、歪んだ丹房の中で長く尾を引いた。二十五歳の剣と、二十五歳の剣が、初めて噛み合っていた。