天理の石 — 第11話
第十一話 祝言
村は、ひっくり返っていた。
三日前まで葬列のような顔で歩いていた者たちが、道の真ん中で怒鳴り合っている。喧嘩ではない。祝言の支度である。誰の家から膳を出すか、どの豚を潰すか、酒はもう一甕買い足すべきか——結論の出ない相談が、あちこちで同時に立ち上がっては、大声のまま散っていく。
働き手が、一人増えていた。
「そこの若いの! 米を頼む!」
「おう」
楊文である。
朝に道を歩いていたところを捕まって、以来ずっと担いでいる。米俵、酒甕、祭壇に足す板、井戸から広場までの水。断らない男だと知れ渡ってからは、村じゅうの用事が一箇所へ集まってくる。
「そっちの棚も頼めるかね」
「任せろ」
「若いの、この樽も」
「よし来た」
半日で、村の子供に名前を覚えられる。夕方には、婆たちに「あんちゃん」と呼ばれ始めていた。
沈曉はというと、朝のうちは薬を配って回った。
三日の騒ぎで寝込んだ年寄りが二人、泣きすぎて頭が痛いと言う女が三人。診て、包んで、渡す。銭は誰も受け取らせない。祝いの物ばかりが押しつけられて、断りきれずに抱えて帰る羽目になった。
昼、広場の隅で饅頭を使っていると、阿石が来た。
ふた月ぶんの肉は落ちたままだが、顔の色が違う。あれから毎日、母親が炊いた粥を三杯ずつ食っているのだという。歩き方はまだ危なっかしく、それでも自分の足で歩いている。
楊文の隣に腰を下ろし、黙って広場の方を向いていた。
祭壇に、女たちが花を挿している。杏児もその中にいた。頭を寄せ合って何か言い、笑っている。ふた月、村の中で気の触れた娘と呼ばれていた娘が、今日は輪の真ん中にいた。
「……なあ、あんた」
阿石が、低く言った。
「杏児に、何か言われたか」
「何かって」
「なんで毎晩来るのか、とか」
楊文が、饅頭を口へ運ぶ手を止めた。
「聞いた。……最後まで、言わなかったな」
「そうか」
阿石は膝の上で手を組んだ。厚い、働く者の手である。
「あいつは、言わねえよ。昔から」
それから、誰にともなく話し始めた。
「七つの年に、そこの木の下でな」
顎で示した先に、大きな棠梨の木があった。広場の端の、花の盛りの木である。
「言ったんだ。俺が。大きくなったら、お前を嫁にする、って」
楊文は、饅頭を置いた。
「あいつ、返事しなかった」
阿石は、その木を見上げていた。
「怒りもしねえ、笑いもしねえ。ただ黙って、俺の顔を見てた。俺は恥ずかしくなって走って逃げた。……それきりだ。二十年、どっちもその話をしたことがねえ」
風が来て、木から花が散った。
その白いものが、祭壇の女たちの髪や肩に降りて、誰かが笑い声を上げた。
「祝言の話が決まった時も、俺は何も聞かなかった。親同士が決めた話だ。あいつが厭がってねえかどうか、聞く度胸がなかった。……で、俺がああなった」
阿石は、そこで一度、言葉を切った。
「牢に入って、三日目の夜だ。昼の俺が目を覚ました時、格子の外に、あいつが座ってた」
声が、掠れた。
「灯りも持たねえで。上掛け一枚で。……朝までいたって、後から母ちゃんに聞いた」
誰も、口を挟まなかった。
「俺は、帰れって言ったよ。何度も言った。来るな、忘れろ、いい人を見つけろ。あいつは、はい、って返事だけして、次の晩も来た」
阿石は掌を開き、閉じ、それからゆっくりと立ち上がった。
「二十年、返事を待ってたわけじゃねえんだ。忘れてたつもりだった。……でも、あの三日目の晩に、分かった」
広場の花を、男は見ていた。
「返事は、二十年遅れて、そこにあったんだ」
楊文は、饅頭の残りへ目を落とした。
そのまま、しばらく食べなかった。
「……阿石さん」
「なんだ」
「あの晩、あんたが最初に呼んだ名前、聞いてたか」
「覚えてねえ」
「そうか」
楊文は、笑わずに言った。
「なら、俺が覚えてる」
薬を届けた帰り道で、沈曉は子供に囲まれた。
最初は一人だった。塀の陰から、頭だけ出してこちらを見ている。沈曉が足を止めると引っ込み、歩き出すとまた出てくる。次の角で二人になり、その次で四人になり、井戸の前まで来た時には五人が、一列になって後ろをついてきていた。
沈曉は振り返った。
五人が、一斉に立ち止まった。
彼が歩く。五人が歩く。彼が止まる。五人が止まる。三度それを繰り返して、沈曉は道の真ん中で、真面目な顔で考え込んだ。
「……何か、御用ですか」
いちばん小さい子が、後ろへ隠れた。いちばん大きい子が、押し出された。
「なあ先生。おっちゃんが言っとった。先生は、鬼を素手で退治したって」
「素手ではありません」
「じゃあ、退治したんか」
「……退治も、していません」
子供たちは、それでは面白くないという顔をした。面白くない話を、沈曉は言い直しもせずに置いておいた。代わりに、いちばん小さい子が、袖を引いた。
「先生、字ぃ書ける?」
「書けます」
「書いてみせて」
沈曉は棒切れを拾い、道端の土に、その子の言った字を書いた。名前らしい。書き終わると、五つの頭が一斉に覗き込む。
沈黙が、あった。
「……これ、なんか変だ」
「変ですか」
「変っていうか」
子供たちは顔を見合わせた。うまく言えないらしい。
村の道端の土の上で、その字だけが、場違いに古かった。
「もっぺん書いて」
「同じ字を?」
「うん」
沈曉は、同じ字をもう一度書く。
二つの字は、寸分違わなかった。
子供たちが騒ぎ出す。真似しようとして棒を握り、書いて、うまくいかず、また騒ぐ。誰かの書いた字が蚯蚓のようになり、笑われた子が泣きべそをかいた。沈曉はその子の手から棒を取り、書いて見せ、返す。
「ここで、一度止めます」
「とめる?」
「筆を、置くように。……止めてから、次へ」
子供は言われた通りに止め、止めすぎて墨溜まりならぬ土溜まりを作り、また笑われた。沈曉は少し考えて、その土溜まりの上に点をひとつ足した。
字が、蜻蛉の顔になった。
子供たちが転げ回った。
そこまでのことだろうかと、沈曉は不思議そうに眺めていた。それから、もう一つ、隣に点を足す。
二匹目である。
今度は自分でも少しおかしかったのか、口の端が、わずかに動いた。
それからは収拾がつかなかった。書け書けとせがまれるまま、沈曉は棒切れで土に字を書き続けた。福の字、寿の字、それぞれの名前、村の名前。書くたびに歓声が上がる。いちばん小さい子が「先生の名前も」と言い、沈曉は棒を持ったまま、一拍だけ止まった。
書いたのは、沈曉、の二字だった。
子供たちには、その一拍の意味が分からなかった。
「先生、なんで字ぃそんなに上手いん」
「長く、書いてきましたから」
「どんくらい」
「……たくさん」
答えになっていない答えに、子供たちは満足した。次に、袖を引いた子が言った。
「うち、先生の弟子になったら、そんくらい書ける?」
沈曉は、その子を見た。
そのまま、返事をしなかった。長い間である。子供は待った。待たれて、沈曉は棒切れを子供の手に持たせ、その上から自分の手を添えた。
「毎日、書けば」
添えた手で、一画目をゆっくりと引いた。
「上手くなります。……私よりも」
子供は満足して、走り去った。走り去る背に、沈曉は一言も付け足さなかった。
顔を上げると、荷を担いだ楊文が、少し離れたところに立っていた。
目が合った。
そのまま、楊文は行ってしまった。
道の土には、まだ字が並んだままだった。
夕暮れ、二人が土地廟へ引き上げようとした時、呼び止められた。
阿石と杏児が、並んで立っていた。
二人の後ろに、母親と、里正と、村の年寄りが幾人か。子供らまでが遠巻きに集まっている。何が始まるのか、沈曉には分かっていなかった。分かっていない顔をしていたのは、たぶん彼一人だった。
阿石が、深く頭を下げる。
杏児も、同じ深さで下げた。
「命の恩人です」
と、阿石は言った。
「この村に、返せるもんは何もねえ。だから、これだけは言わせてくれ。俺の命は、あんたにもらったもんだ。俺は、それを忘れねえ」
沈曉は、動かなかった。
礼を言われた経験が、この十年、ないわけではない。薬が効いたと言われ、符が守ってくれたと言われ、その度に、恐れ入ります、と頭を下げてきた。
だが今、目の前で下げられている頭は、種類が違った。
命を返された者の頭である。彼が奪ってきたもののことを、この村の誰も知らない。だから、真っ直ぐに下げられる。真っ直ぐさは、受け取り方の分からない形をしていた。
沈曉は口を開き、閉じ、それから、深く一礼する。
言葉は、出てこなかった。
出てこないことに、その場の誰も気づかなかった。楊文だけが、隣で少し目を細めた。
杏児が、顔を上げた。
「先生」
「はい」
「……ありがとうございました」
それだけだった。それだけ言って、彼女はもう一度頭を下げた。
沈曉は、もう一度、深く礼を返した。
夜道を、二人で戻る。
空に、新しい月が細く出ていた。三日前には何もなかった場所である。谷の花が、その細い光を受けて、うっすらと白い。
楊文は荷を担ぎ直しながら、思い出したように言った。
「そういえば」
「はい」
「あんた、字が綺麗なんだな」
沈曉の足が、半歩、遅れた。
「……子供らの手習いの、真似事です」
「そうか」
楊文は、それ以上聞かなかった。
聞かずに、細い月を見上げて、明日は祝言だな、とだけ言った。
婚礼の日は、朝から花が散った。
風のせいではない。盛りが過ぎたのである。谷の斜面が、ひと晩で一段白さを減らし、代わりに道も水路も屋根も、散った花で白くなった。掃いても掃いても追いつかず、しまいに村人は掃くのをやめた。花の上を歩いて、祝言の支度をした。
散る花が、これほど明るい村を、沈曉は見たことがなかった。
祭壇は、三度組み替えられていた。
最初は婿を送るために。次に、迎えるために。今日は、迎えるためだけの形である。紅い布は新しくなり、対の提灯は張り替えられ、村の入り口の老木の飾りも、朝のうちに新しいものに掛け替えられた。
褪せた紅を外す時、里正が一人でそれをやった。
梯子に登り、色の落ちた布と、破れた提灯を、丁寧に外して抱えて降りた。誰も手伝わず、誰も声をかけなかった。老人は抱えたそれを、自分の家の裏で焼いた。煙が細く上がるのを、村の何人かが遠くから眺めていた。
夕刻、灯りが入る。
広場に篝が焚かれ、家々の軒に提灯が並び、谷ぜんたいが赤く浮かび上がった。三日前まで、日が落ちれば灯りを消して息を潜めていた村である。今夜は、どの家も灯りを絞らない。
膳が並び、酒甕の口が開き、豚が焼けた。
脂の爆ぜる匂いと、酒の甘い匂いと、花の香とが、夜気の中で混ざり合う。村じゅうの人間が広場に出た。老人も、赤子も、寝込んでいた者まで戸板で運ばれてきた。誰も彼もが、誰かの手を握ったり、意味もなく肩を叩いたりしている。ふた月ぶんの息が、一晩で吐き出されているようだった。
花婿と花嫁が並んだ時、広場が静かになった。
紅い衣の阿石は、大きな体を窮屈そうにして立っている。杏児は伏し目のまま、その隣に立っていた。二人が並んだだけで、老人たちが泣き始める。
礼が交わされ、杯が回る。
三度目の杯を干した時、阿石が広場に向かって、大きく息を吸って、何か言おうとした。言えずに、口を開けたまま突っ立っていた。
杏児が、その袖を軽く引いた。
それだけで阿石は我に返り、ばつが悪そうに頭を掻いて、杯を高く掲げた。歓声が上がった。楽が鳴り、皿が回り、宴が始まった。
沈曉は、広場の隅にいた。
勧められた席は上座だったが、いつの間にか隅へ移っている。移った先で、次から次へと人が来た。
礼を言う者。手を握る者。名前を聞く者。孫が熱を出したと相談してくる者。祝いの席で、この男の周りだけが小さな診療所のようになった。沈曉は一人ずつ相手をして、飲めない酒を受け、口をつけ、置いた。
やがて人が引き、隅に静けさが戻った頃、楊文が来た。
両手に椀を持っている。片方を差し出しながら、どさりと隣に座る。顔が赤い。担ぎ手として村じゅうに酌をされた男である。
「あんた、飲めるのか」
「たしなむ程度です」
「たしなめ」
押しつけられた椀を、沈曉は受け取った。地酒である。強い。ひと口飲んで、顔色ひとつ変えずに置く。楊文が横目でそれを追った。
広場では、輪になった村人が踊っている。楽は下手で、拍子が合わない。ずれたまま、皆が笑っている。
「……いい夜だな」
楊文は、椀を傾けた。
「白澗を出てから、こんな夜は初めてだ」
「はい」
「阿石さんが、さっき言ってたぞ。この村じゃ、あんたを祀るとか祀らんとか」
「困ります」
「困れ」
楊文が笑った。笑い声は、酒の分だけ大きい。
二人とも、黙って踊りの方を向いていた。篝の火の粉が上がって、花びらと混ざって落ちてくる。楊文は椀を空け、注ぎ足し、また空けた。
三杯目の途中で、その手が止まった。
「あんた」
声の調子が、変わっていた。
「昔は、何をしてた人なんだ」
踊りの拍子が、遠くなった。
沈曉は、椀の中を見ていた。地酒の面に、篝の火が小さく映って、揺れている。
この問いが来ることを、彼は知っていた。
あの小屋で、阿石の胸に掌を当てていた時、隣で息を呑む音を聞いた。呑んだのは問いの方だった。それから三日、この男はそれを腹に抱えたまま、薬湯を運び、水を替え、村人に頭を下げていた。
素面では聞かない男である。
だから今夜、酒を借りに来た。借りてまで聞くと決めるまでに、この男は何日か使ったのだろう。
「……薬を」
と、沈曉は言った。
「作っていました」
「薬売りじゃなくてか」
「売る前の話です」
沈曉は椀を置いた。
指が、縁を撫でる。
「人を救う薬を、作ろうとしていました」
嘘では、なかった。
彼の作ったものは、確かに人を救うはずのものだった。老いを止め、死を退け、この世でいちばん多くの人が欲しがるものだった。皇帝が欲しがり、道士たちが人生を賭け、そのために囚人が運ばれてきた。
作ろうとして、作った。
作ったから、焼いた。
椀の中で、映り込んだ篝の火が揺れている。火を映した酒は、あの夜の色に少しだけ似ていた。
言葉は、そこで止まった。続きを言うだけの言葉を、この男は持ったことがない。
楊文は、隣で椀を握っている。
沈曉は、覚悟していた。次の問いが来る。それはどんな薬だ。誰のために作った。なぜやめた。順に問われれば、順に嘘を重ねるしかない。嘘の一つ目を、彼はもう決めてあった。
問いは、来なかった。
「そうか」
楊文は、それだけ言った。
それから、椀の残りを飲み干して、大きく息を吐いた。
「……救う薬か。あんたらしいな」
沈曉は、答えなかった。
「うまくいかなかったのか」
「はい」
「そうか」
楊文は、二度目の「そうか」を、前より柔らかく言った。
そして、それ以上聞かなかった。
風が来て、篝の火が傾いだ。
花びらが二人の膝に落ち、楊文がそれを摘まんで、広場の方へ弾いた。弾かれた白いひとひらは、火明かりの中を斜めに漂い、踊りの足元へ紛れて見えなくなった。
「聞いてやるよ」
と、楊文は言った。
「いつか、あんたが言いたくなったらな」
沈曉の手が、椀の縁で止まった。
踊りの輪から誰かが呼び、楊文が、おう、と応えて片手を挙げた。沈曉の目は、その横顔にあった。
言いたくなる日が来るとは、思っていなかった。
言えないことと、言いたくないことは、違う。十年、その二つを分けて考えたことが、彼にはなかった。
宴は更けた。
踊りの輪は崩れ、酔い潰れた者が筵の上に転がり、女たちが片付けを始めている。篝は熾に落ち、熾の赤が、散り敷いた花びらの縁を淡く染めていた。空に、三日月が出ていた。新月の夜から、二晩でここまで戻った月である。
消えた月は、戻ってくる。
戻った月の下で、戻った男が笑っていた。
沈曉が席を立とうとした時、広場の向こうから声がかかった。
阿石だった。
紅い衣を着崩し、片手に椀を持って、人垣の間からこちらへ手招きしている。酒が回った顔だが、目は据わっていた。何か思い出した男の目である。
「先生! 楊文!」
二人が近づくと、阿石は椀を置き、酔いを追い払うように、顔を一度こすった。
「今、思い出したんだ。……なんで今まで忘れてたのか、分からねえ」
楊文が、隣で足を止めた。
「そういえば、数ヶ月前――」