天理の石 — 第37話
第三十七話 白澗観
行商人は、山道を上っていた。
背に、荷を負っている。針、糸、紙、墨、朱、それから塩と乾物。山の上に道観があると聞いた。道観があれば、紙と朱が売れる。売れなければ、塩を売ればいい。
道は、思ったより歩きやすい。
下草が刈ってある。石の露出したところには、土が入れてあった。誰かが、この道を手入れしている。行商人は、その事実に少し驚いた。参詣人の来る大きな道観なら、麓の村が道を直す。だが、この山の麓の村は小さかった。
半刻ほど上ると、木立が切れた。
その先に、門がある。
小さな山門である。
新しくはない。柱は古く、日に灼けている。それでも、掃き清められていた。門前の石畳に、落ち葉が一枚もない。掃いたばかりらしく、箒目が残っている。
門の脇に、箒が二本、立てかけてあった。
一本は、大きい。柄が太く、長い。
もう一本は、小さい。柄が細く、短い。子供が使うものかもしれないと、行商人は思った。
それから、彼は顔を上げた。
門柱の間に、何もなかった。
扁額の掛かるべき場所である。掛け金だけが、左右に残っていた。錆びてはいない。近ごろ磨いたものらしく、朝の光を鈍く返している。
磨いてある。掛けるものが、無い。
行商人は、足元を見た。
門柱の間の地面に、板が一枚、字を下にして伏せてあった。厚い板である。縁の一方が欠けていた。土が、その縁を三分ほど埋めている。
周りは掃いてある。板の上だけ、箒の目が入っていない。
葉が、一枚も載っていなかった。
誰かが、避けて掃いている。
行商人は、それをしばらく見ていた。
商いの道は長い。焼けた寺も、潰れた社も、幾つも見てきた。板を割られた門も、珍しくはない。珍しいのは、割れた板を捨てずに置いてあることだった。捨てるか、燃やすか、どちらかである。伏せて置いて、その周りだけを掃くというのは、見たことがない。
風が、渡った。
どこかで、音がする。
彼は、辺りを見回した。軒に、小さな鐘のようなものが吊るされている。風鐸である。一つではない。堂の軒に、廊下の軒に、幾つも下がっていた。
風が抜けるたびに、それが鳴る。
音は、揃っていない。
高いものと、低いものがある。中に一つ、濁った音を出すものが混じっていた。鋳が悪いのだろう。直さないのか、と行商人は思う。思って、すぐに、どうでもよくなった。
濁った音も、悪くない。揃っていない音の中に混じっていると、それが一つの音の顔のように聞こえる。
門をくぐると、境内から声がした。
子供の声である。二つ。何かを唱えている。読み上げの稽古らしかった。声が揃わず、途中で片方が吹き出し、それを叱る声がした。
声の絶え間に、水の音が聞こえる。裏手のどこかを、谷川が流れているらしい。子供の声と、風鐸と、水の音。山の上の道観の音は、それで全部だった。
叱る声も、若かった。
やがて、その若い男が出てきた。
二十代の後半か、三十になるかならないか。背が高く、日に灼けている。道士の衣を着ているが、着方が少し崩れていた。武人の歩き方をする男だった。
「何か」
「へえ、行商でございます」
行商人は、荷を下ろした。
「紙と、墨と、朱を扱っております。道観さまなら、お入り用かと」
男は、荷を見た。
見て、紙を一帖、手に取る。指で厚みを確かめ、日に透かして見た。慣れた手つきではない。誰かの真似をしている手つきだった。
「これは、いくらだ」
行商人が、値を言った。
「その値は、麓の市でも見た」
男は、それだけ言った。
そして、黙った。
行商人は、次を待った。待っても、来ない。値の高い安いを並べる客なら、こちらにも返す言葉がある。並べずに黙る客は、始末が悪かった。
「……山道を上ってまいりましたので」
「そうか」
「三帖なら、まけさせていただきます」
「三帖もらう」
男は、頷いた。
それきり、値のことは言わなかった。
それから、朱を手に取った。
「そちらは、上物でございます。値は張りますが、色が違います」
「上物か」
「へえ」
男は、それを長く見た。
「……いちばん上のを、くれ」
「よろしいので」
「俺が使うんじゃねえ」
彼は、そう言った。
それだけ言って、銭を数え始める。数える手つきは、慎重だった。財布の紐を、この男は何度も締め直した。
銭を受け取りながら、行商人は境内を見た。
小さな道観である。堂が一つ、住房が幾つか。庭は狭いが、よく掃かれている。
庭の隅の土が、一坪ばかり掘り返してあった。
石が除けてあり、根も抜いてある。掘り返したままで、何も植わっていない。
「畑でございますか」
「いや」
男は、銭を数え終えたところだった。
「木を植える」
「何を」
「決めてねえ」
彼は、それ以上言わなかった。
言わずに、紙と朱を抱えて、堂の方へ歩いていった。歩きながら、子供らに何か怒鳴った。稽古が、また始まった。
行商人は、荷を担ぎ直した。
担ぎ直しながら、一つ思い出した。
「北の方へは、お出になりますか」
「北」
「いえ。近ごろ、触書が回っておりましてな。……少し、変わった触れで」
彼は、そこで言葉を選び、やめた。
「いえ。私も、又聞きでございます」
男は、少し待った。
聞き返しては、こなかった。
「石段が、上の方だけまだ濡れてる。気をつけて下りな」
門を出る時、彼はもう一度、門柱の間を見上げた。
何も、掛かっていない。
掛け金だけが、左右で光っている。
行商人は、そこで少し考えた。
道観に名が無いということは、無い。名が無ければ、麓の者が何と呼ぶ。彼がこの山を聞いた時にも、名はちゃんと付いていた。
名は、ある。掛かっていないだけである。
彼は、それきり、その疑問を忘れた。山道を下り始める。
下りながら、彼は今日の売り上げを勘定した。悪くない。上物の朱が一つ、思ったよりいい値で捌けた。次にこの山へ来るのは、半年後だろう。
背後で、風鐸が鳴っていた。
揃わない音である。その中に、濁った音が一つ混じっている。
音は、木立に紛れて、じきに聞こえなくなった。
行商人は、この山で何があったのかを知らない。
十年か、十五年か前に、都の南の山で道観が焼けたという話は、聞いたことがある。祭酒が、不老不死の丹を独り占めしようとして、門下を皆殺しにした。そういう話だった。市の茶屋で、幾度か聞いた。
半年前には、こんな話も聞いた。
その罪人は、とうに死んでいる。焼け跡で骸が見つかった。将軍が検めた。丹は、どこにもなかった。
どちらの話も、彼にとっては、遠い山の話である。
彼は、荷を負って歩く男だった。
歩いて、売って、また歩く。それが彼の道であり、他人の道のことは、知らずに済む。
道が、麓へ出た。
振り返ると、山が夕日を受けている。木立の上に、屋根の一部が僅かに見えた。
あの門には、名が掛かっていなかった。
いつか掛かるのだろう、と彼は思った。
誰が書くのかは、知らない。半年後に来れば、掛かっているかもしれない。掛かっていなければ、また朱を売ればいい。
彼は、また歩き出した。