天理の石 — 第26話

第二十六話 松と桃

2026.08.04 6,068字 ・ 約11分
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 山まで三日、というところで、道に人が立っていた。
朝の街道である。夜のうちに雨が通ったらしく、道は湿り、稲の葉が光っていた。田の中を貫く一本道は遠くまで見通せて、遮るものは石橋が一つあるきりである。
その石橋の袂に、馬が一頭繋がれている。
傍らに、老人がひとり。
楊文の手が、柄にかかった。
沈曉は、それを目で止めた。
「……お一人です」
「一人だから、なんだってんだ」
「あの方は、兵を連れて来る時は、兵を見せます。見せないのは、兵がいない時です」
楊文は、柄から手を離さない。
そのまま、歩を進めた。沈曉が、半歩先に出る。
橋の袂で、老人がこちらを向いた。
裴松である。
常服に、供もない。腰に剣だけを佩いている。日除けの笠を橋の欄干に置き、老人は二人が近づくのを待っていた。待ち方に、構えがなかった。旅の年寄りが涼んでいる、としか見えない立ち姿である。それでいて、街道のこの位置は、北へ抜ける者が必ず通る一点だった。網を張る男は、一人でも網の張り方をする。
「遅かったな」
と、裴松は言った。
「灯りの噂は、半月前から儂の耳にあった。お前が聞きつけて、腰を上げて、この道を来る。……勘定では、二日早う着く読みだった」
「……渡しが、増水していました」
「そうか」
裴松は、それだけで頷いた。
十年ぶりの、牢の外での再会である。再会の言葉は、それで終わりだった。互いに、それ以上を言わなかった。言わないことが、この二人の間では、いちばん自然な挨拶だった。
それから、裴松の目が、細くなった。
沈曉の顔を、見ている。牢の灯りの下で見た顔である。あの時と、違うものがそこにあった。こめかみの白。橋の袂まで来るのに、息が上がっている。日の下では、隠れようがない。
老人は、長いこと黙っていた。
牢では、変わらぬ顔を恐ろしいと言った男である。父も兄も妻も先に逝き、お前だけが後まで残る、と言った男だった。その男が、白いものの混じった髪を、まばたきもせずに見ている。
見方が、他人のそれではなかった。
「……老けたな」
と、裴松は言った。
「はい」
「そうか」
それだけだった。
何をした、とは聞かなかった。聞かない代わりに、老人は一度だけ、深く息を吐いた。
その意味を、沈曉は問わなかった。安堵に似たものが、そこに混じっていたことだけを、聞いた。
楊文が、二人を見比べている。牢の闇で声だけ聞いた老人と、明るい往来で向かい合うのは、初めてだった。

「お前が、楊文か」
裴松の目が、こちらへ向いた。
楊文の背が、伸びた。名乗った覚えはない。
その名を、この老人は知っていた。
「白澗観の生き残り。武の筋は江湖仕込み。臨江では、儂の役所の裏塀を越えた」
「……見てたのか」
「儂の役所だ」
裴松は、表情を変えずに言った。
「番犬に干し肉をやったろう。あれは儂が仔犬の頃から飼うとる犬でな。餌をやった人間の顔は忘れん。……お前が門前で拳の皮を破った時から、儂は知っておった」
楊文は、何も言えずにいた。
「錠を、鍔で打ったな」
裴松は、続けた。
「三度、鳴った。詰所に誰もおらんことに気づかず、走った。……気づかんくらいで、ちょうどよかった。気づいておれば、迷うたろう」
その言い方に、楊文が眉を寄せた。
「あんた」
「なんだ」
「あの晩、わざと兵を外したのか」
裴松は、答えなかった。
答えない代わりに、視線をわずかに逸らした。老人にしては、珍しい逃げ方だった。
言えないまま、楊文の片手が無意識に、懐へ動いた。
懐には、鉄の鍵がある。
裴松の目が、その手の動きを見た。見て、何も言わなかった。言わずに、視線を沈曉へ戻した。
楊文の手が、懐の上で止まり、下りた。

「この先の道に、兵は置いておらん」
裴松は、橋の向こうを顎で示した。
「北の検問は三日前に畳ませた。山裾の駅の兵は、東の街道へ回した。理由は書類に書いてある。書いてあることは、全部正しい。正しいことしか、書いておらん」
「……勅命は」
「果たしておる」
老人の声は、平らだった。
「儂の任は、十年前の罪人を探すことだ。探しておる。今日も、探しておる。……この街道は、昨日検めた。誰もおらんかった」
沈曉は、その顔を見た。
四十年、軍法と人の間を歩いてきた男の顔である。曲げずに、通す。破らずに、開ける。牢の卓に鍵を置いた手が、いま、街道を一本、空にしていた。
「なぜ、と聞いてよいですか」
「聞くな」
裴松は、短く言った。
「聞けば、儂は答える。答えれば、長くなる。……長い話は、もう一つの方でしてしまった。今日はそちらの持ち時間だ」
老人は、欄干の笠を取った。
取って、被らずに、手の中で回した。回す指が、止まった。
「陳霖」
「はい」
「山におるものの話を、する」

 橋の下を、水が流れていた。
増水の名残で、濁っている。裴松はその水を見ながら、話し始めた。
「十年前、儂は焼け跡へ行った。骸を見た、という話は牢でした。……一つ、しなかった話がある」
笠が、手の中で止まっている。
「生きておる者が、一人おった」
沈曉は、動かなかった。
「山門の外だ。年寄りの道士の骸から、少し離れた草の中に、子供が倒れておった。胸から腹へ、一太刀。誰もが骸だと思うた。儂も思うた。抱え上げた時、その子の指が、儂の袖を掴んだ」
水の音が、続いている。
李慕言リ・ムーイェンという」
その名を、裴松は静かに置いた。
「観の記録は焼けておったから、俗名は麓の村で調べた。物心つく前に観へ上がった子で、親はもう、村におらんかった。……引き取る者がない。儂が、引き取った」
楊文が、息を詰めているのが分かった。
生き残り。その言葉を、この男は谷の夜からずっと抱えている。抱えていたものに、いま、名と、歳と、傷の形がついた。
「医者は、助からんと言うた。助かった。助かって、それきり、あまり喋らん子になった」
裴松は、笠を欄干へ戻す。
「儂の屋敷で育った。飯を食い、字を書き、儂の孫のような顔をして、十年おった」
老人は、そこで少し黙った。
「拾うた年は、まだ傷が塞がらんかった。粥しか食えん体でな。儂の女房が、匙で口まで運んでやった。あれは、目を開けたまま、じっと天井を見ておった。うまいとも、まずいとも言わん。ただ、口を開けて、飲んで、また開けた」
橋の下の水が、石に当たって音を立てた。
「傷が塞がって、床上げした日。あれは初めて口をきいた。ありがとうございます、と言った。それだけだ。名を聞いても、村の名を聞いても、答えん。答えんのは、忘れたからだと思うておった。……後で分かった。忘れたのではない。答える意味が、あれには分からなんだのだ。行儀のよい子だった」
老人は、続けた。
「出されたものは残さず食う。好き嫌いを、一度も言わなんだ。甘いものを出しても、辛いものを出しても、同じ顔で、同じ速さで食う。……子供というのは、そういうものではなかろう。儂の娘は、椎茸で三日泣いた。孫は、青菜を庭に埋めて隠しておった」
楊文が、わずかに目を動かした。
同じ顔で、同じ速さで食う男を、この男は一人、知っている。
「読み書きは、驚くほど早う覚えた」
裴松の声に、僅かに温度が戻った。
「儂が師を付けたら、ひと月で師の方が困った。教えることがない、と言いおった。あれは字を、決して崩さん。手本と寸分違わぬように書く。……なぜそこまで正しく書くのかと聞いたら、答えが返ってきた」
老人は、少し間を置いた。
「間違えると、直されますから、と言うた」
沈曉の指先が、微かに動いた。
「誰に直されるのかを、儂は聞かなんだ。聞けば、あれの中の誰かが、傷つく気がした」
水音が、続いている。
「拾うて一年が過ぎた頃、初めて笑うのを見た。庭の池で、鯉が跳ねた時だ。……儂は嬉しゅうて、その日一日、鯉の話ばかりしておった。あの一瞬は、二度と来なんだ」
「夜中に、廊下で会うことがあった」
裴松の声は、また平らに戻る。
「眠れんのだろう。庭を見ておる。儂が声をかけると、起こしましたか、と詫びる。詫びて、部屋へ戻る。……戻る背中に、儂は何も言うてやれなんだ。何がその子の夜を埋めるのか、儂には分からなんだからだ」
水が、橋の下を流れていく。
「十四の年、剣を振り始めた」
老人の手が、欄干の上で組まれた。
「体が癒えてすぐだ。裏庭で、雨の日も振った。筋が悪い。何百回振っても、良うならん。それでも振る。……儂が教えてやると言うたら、断られた」
「――」
「結構です、と言いおった。丁寧にな。儂はそれきり、教えると言わなんだ」
風が、橋を渡った。
「十年で、あれは儂に、何一つねだらなかった」
「銭も、着物も、剣もだ。要るものは要ると言え、と幾度も言うた。あれは、ありがとうございます、と頭を下げて、何も言わん。……何も欲しがらん子供ほど、恐ろしいものはない。欲しいものが一つもないのではない。欲しいものが一つしかないから、他の全部が要らんのだ」
沈曉は、目を伏せた。
「儂は、その一つが何なのかを、十年、聞けなんだ」
沈曉は、聞いていた。
聞きながら、彼の頭の中で、二つの十年が並んでいた。彼の知らない場所で、あの子は飯を食い、字を書き、雨の日に剣を振っていた。彼が村々を移り歩いていた同じ歳月を、あの子は一つの屋敷で、待つことに使っていた。
断った理由を、彼は知っている。教わった者は、教えた者の形になる。あの子が、誰の形になりたかったのかも。
知っていることを、彼は言わなかった。

「三年前から、あれは屋敷を空けるようになった」
裴松の声が、低くなった。
「都の勤めだ、と言うておった。ひと月、ふた月と出て、戻ってくる。戻ってきた顔が、出ていく前より静かになっておる。……儂は、それを見ておった」
老人は、橋の欄干に手を置く。
「同じ頃から、儂の耳に、妙な噂が届き始めた。地方で、人がまとめて死ぬ。傷がない。歩いたと言う者がおる。……儂は将軍職にあった男だ。報せを地図に置く癖が、体に残っておる」
沈曉は、目を伏せた。
円である。
この老人も、あの円を見ていた。楊文が麻紐で描いたものを、この男は三年かけて、報せの束の中に読み取っていた。
「置いた印が、輪を描いた」
裴松の手が、欄干の上で握られた。
「輪の縮む先に、何があるのかは分からなんだ。ただ、あれの留守と、印の日付が、重なっておった。……重なっておることに、儂は気づいておった」
水が、流れている。
「気づいて、儂は、見ないふりをした」
その言葉に、沈曉は顔を上げた。
見ないふり。知らないふり。呼び名は違っても、同じ形をしたものである。彼はそれを、薬房の戸の陰に対してした。火の番の親切に対してもした。そして今、目の前の老人が、同じ形の罪を、同じ乾いた声で数えている。
「問えば、答えが出る。答えが出れば、儂は動かねばならん。動けば、あれを法に渡すことになる。……儂は、問わなんだ。孫のような顔を毎朝見て、行ってくるかと聞いて、行ってまいりますと返される。それでよい、ということにした。四十年、軍法を曲げなんだが、家の内でだけ、目を瞑った」
裴松は、こちらを見た。
「儂が、行かせてしまった」
声は、揺れなかった。
揺れないことに、力が要る声だった。
「牢破りの報せが都へ上った日に、あれは屋敷を出た。行き先は言わなんだ。儂も、聞かなんだ。……聞かんことが、儂の弱さの形だ。お前の黙りと、儂の聞かずは、たぶん、同じ穴の獣よ」
沈曉は、何も言えなかった。
言えないことまで、同じだった。
「じいさん」
楊文が、初めて口を挟んだ。
声が、硬い。
「あんたは、止めに行かねえのか。育てたんだろう、十年」
裴松は、楊文を見た。
「儂が行けば、あれは戸を閉める」
「……」
「十年、同じ屋根の下で閉められ続けた戸だ。儂には、開け方が分からなんだ。分からんまま、飯だけ食わせた。……開けられる者がおるとすれば、儂ではない」
老人の目が、沈曉へ動いた。
その先を、楊文も見た。見て、それ以上、何も言わなかった。
代わりに、この男は自分の掌を見ていた。門派を焼かれた男が、門派を焼かれた男の話を聞いた後の顔だった。同い年である。同じ夜に、同じものを失った者が、片方は仇を討つ側に、片方は討たれる側に立って、三日先の山で待っている。
その割り振りを決めたものの正体を、楊文は考えている。
考えて、答えの出る問いではなかった。

 裴松は、馬の手綱にかかった。
解く前に、老人は楊文の方を向く。
「白澗観の」
「……なんだ」
「三年の輪の中に、お前の山が入っておった。儂が早うに目を開けておれば、届いたかどうかは、分からん。分からんが――」
老人は、頭を下げた。
浅くはない下げ方だった。元将軍が、江湖の若い剣士に、往来で頭を下げている。
「済まなんだ」
楊文は、動かなかった。
動かないまま、拳が握られ、ほどかれた。何かを言いかけて、やめて、それから、短く言った。
「……頭を上げてくれ。あんたが下げる頭じゃねえ」
「儂の頭だ。どこで下げるかは、儂が決める」
裴松は、頭を上げた。
その顔は、もう元の顔だった。
それから、馬の手綱を解いた。鞍に手をかけ、かけた手を一度止めた。
「陳霖。儂はもう、十年前のことを問わん。牢で問うて、答えは貰った。答えぬというのが、お前の答えなのだろう。……ただ、一つだけ言うておく」
老人は、山の方を見た。
三日先の、灰色の稜線である。
「あの子が山で何をしておるのか、儂は知らん。麓の村は、もう誰も上らん。夜の灯りを見て、道士様が帰ってきなさった、と拝む年寄りと、祟りだと戸を閉める者が半々だそうだ。……昼間、材木が上がっていくのを見た者がおる。あれは山で、何かを建てておる」
建てておる。
その言葉を、沈曉は聞いた。焼け跡に、何を建てるのか。建て方を、誰に習ったのか。習っていないはずだった。習っていないものを、あの子は、いつも見て覚えた。
「知らんが、待っておることだけは分かる。十年、あれは待つことしかしてこなんだ。……待たれておるのは、お前だ」
裴松は、鞍に上がった。
右足を庇う上がり方である。鞍上で、老人は姿勢を正した。二十年前と寸分違わない、真っ直ぐな背だった。
「儂は、麓の駅におる」
馬首が、巡らされた。
「山から誰が降りてきても、儂が迎える。……誰が降りてきてもだ」
馬が、歩き出した。
二歩目で、老人は思い出したように手綱を引いた。振り返らずに、言った。
「言い忘れておった」
朝の光の中で、その背中が言った。
「あれは今、望曉と名乗っておる」
馬は、南へ去った。
蹄の音が、稲田の間へ遠ざかっていく。
望曉。
夜明けを望む、と書く。二十歳の彼が選び、十年前の夜に沈めた号である。沈めたはずのものが、拾われて、十年、日の下を歩いていた。彼の知らない屋敷で、彼の知らない声で、名乗られ続けていた。
名は、呼ばれるためにある。
あの子は、十年、彼の名で呼ばれてきた。呼ばれるたびに、何を聞いていたのか。
二人は、北へ歩き出した。橋を渡り、稲田を抜け、道が緩やかに上り始める。楊文が先を行き、沈曉が続いた。
その足が、一歩分だけ、遅れた。
遅れたことに、前を行く男は気づいた。気づいて、歩を緩めた。緩めたことを、口には出さなかった。

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