天理の石 — 第36話
第三十六話 看板
二人は、白澗観に半月ほど留まった。
留まる、と決めたわけではない。堂の雨漏りを直し、井戸を浚い、物置の柱を継ぐ。一つ終えると、次が見つかり、楊文が手を出す。手を出せば、日が暮れる。
沈曉は、薬を煎じた。
楊文の腹の傷は塞がっているが、長く動くと、まだ引き攣れる。丹房での戦いが、その内側を乱していた。毎朝、彼は薬を煎じ、毎晩、飲ませる。
「苦ぇ」
「はい」
「あんた、わざと苦くしてるだろ」
「効きます」
楊文は、飲んだ。
文句を言いながら、一滴も残さずに飲む男である。
沈曉の朝は、遅くなった。
起きるまでに、時間がかかる。膝と腰が、寝ている間に固まってしまう。それを、彼は毎朝、揉みほぐしてから立った。
立って、水を汲みに行く。
井戸の縄が、以前より重い。彼は二度に分けて汲むようになった。
ある朝から、桶が二つ、井戸端に置かれるようになった。小さい方の桶が、沈曉の分である。
誰も、そのことに触れなかった。
白髪は、四本になった。
楊文が数えた。彼は毎朝、沈曉の顔を見る。見て、増えていれば、言う。
「三本目だ」
「はい」
「……四本目」
「はい」
「増えたな」
「増えました」
それだけである。抜くか、とは、もう聞かなかった。
銭は、楊文が持っていた。
旅の初めから、そうである。沈曉は値切らない。まけようかと言われて、いえ結構ですと答える男に、財布は持たせられない。楊文はそう言って、路銀を全部握った。
その財布が、この半月で、目に見えて軽くなった。
釘を買い、材木を買い、大工に前金を払った。楊文は、毎晩、財布の中身を数える。数え終えると、口の中で何か呟いて、紐を締めた。
ある晩、沈曉が薬草を売りに行くと言った。
断られた。
「あんたは、座ってろ」
断り方が、いつもと同じだった。
半月が過ぎて、堂の修繕が一段落した。
残りは、大工が要る仕事である。楊文は、麓の村へ人を頼みに行くと言った。銭も要る。江湖の伝手を辿って、集めるつもりらしかった。
「一年、かかるかもしれん」
彼は、そう言った。
「二年かも」
沈曉は、頷いた。
それ以上のことを、どちらも言わなかった。
麓の町へ、二人で下りた。
市が立っている。中秋である。
通りに、月餅を売る屋台が並んでいた。餡の種類を叫ぶ声。蒸籠の湯気。紅い紙に包まれた菓子の山。子供が、包みを抱えて走っていく。走った先で、母親に叱られていた。
棠梨村の市を、沈曉は思い出した。
あの時も、この男は先を歩いていた。人混みの中で、迷子にならないように、時々振り返った。振り返るたびに、この男は不思議そうな顔をした。当たり前の顔で隣を歩いてくる男が、そこにいたからである。
今日も、楊文は先を歩いている。
振り返らない。
楊文は、月餅の屋台の前で足を止めた。
止めて、二つ買った。
値切らなかった。銭を払い、包みを二つ受け取り、片方を、そのまま差し出す。
「ん」
沈曉は、両手で受け取った。
楊文は、それを見なかった。見ずに、自分の分を開け、歩きながら齧る。
沈曉も、歩きながら食べた。
餡が甘い。去年と、同じ味である。去年は、この男が半分に割ってくれた。半分に割った理由を、彼は聞かなかった。今年は、二つある。
その理由も、聞かなかった。
その夜、二人は町外れで野営した。
宿を取る銭はある。取らなかった。楊文が、火を熾したいと言った。理由は言わない。
沈曉は、符で火を点けた。
もう、驚かれない。楊文は、当たり前の顔で薪を足す。
月が、出ていた。
中秋の月である。大きく、明るく、雲がない。焚き火の光より、月の光の方が強かった。二人の影が、地面に長く伸びている。
「明日、分かれ道だな」
楊文が、そう言った。
月を見ながらである。
「はい」
「あんたは、どうするんだ」
「……歩きます」
「どこへ」
「決めていません」
楊文は、それを聞いて、頷いた。
「あんたらしいな」
それだけだった。
彼は、それ以上聞かなかった。行くなとも、来いとも言わない。
沈曉は、月を見た。
この十年、彼は幾つの村を通り過ぎただろう。名を変え、顔を覚えられる前に去り、誰の名も覚えないようにしてきた。歩くというのは、そういう歩き方のことだった。
明日からの歩き方が、同じものになるのかどうか。
彼には、分からない。
それでも、歩きます、と答えた。
「腹が減ったら、来い」
楊文が、月を見たまま言った。
「白澗観の飯は、うまくねえけどな」
沈曉は、答えなかった。
夜が、更けた。
楊文は、白澗観の話をした。
弟子を、どうやって集めるか。銭を、どうやって作るか。師匠の位牌を、どこに置くか。話しながら、この男は幾度も指を折る。折った指が、足りなくなった。
「まず、屋根だ」
「はい」
「それから、位牌の間だ。位牌は、まだ作ってねえ。字を彫れる奴を探さねえと」
「はい」
「あんた、彫れるか」
「彫ったことは、ありません」
「じゃあ、駄目だな」
楊文は、そう言って笑った。
沈曉は、火を見ていた。
その先に自分がいるかどうかを、この男は確かめようとしない。
沈曉は、薬箱を開けた。
中の包みを、幾つか取り出す。傷薬。腹の薬。熱冷まし。それぞれの使い方を、彼は紙に書いた。その紙を、薬と一緒に包む。
「なんだ、それは」
「置いていきます」
「いらねえよ」
「腹の傷は、まだ完全ではありません」
楊文は、黙った。それから、その包みを受け取る。
「……字が、綺麗だな」
彼は、紙を見ながら言った。
「読みやすい」
沈曉は、答えずに、薬箱を閉じる。
火が、小さくなった。
楊文が、横になった。
「明日、早く出るぞ」
「はい」
「返事だけは、いつも早いな」
やがて、鼾になった。
沈曉は、火の番をした。背を向けずに、火を見ながら。薪を足し、燃え尽きた灰を寄せ、また足した。
月が、傾いた。
その光の中で、彼は隣で眠る男を見た。腹の傷は塞がっている。肩の傷は、白い筋になっていた。この男の体には、彼が縫った跡が幾つも残っている。
残るということを、彼はこの半年で覚えた。
そのことを、この男には言わない。
朝が来た。
楊文は、いつも通りに起きた。起きて、伸びをして、腹が減ったと言った。
沈曉は、粥を炊いた。
二人は、それを食べた。楊文が二杯食べ、沈曉が一杯食べた。器を洗い、火を消し、荷をまとめた。手順に、何一つ変わったところがない。
知っていて、何もしなかった。それが、この二人の、特別のやり方だった。
街道へ出た。
秋の朝である。空が高い。稲が刈られたばかりの田が、両側に広がっている。刈り跡から、白い霧が立っていた。
二人は、歩いた。
いつものように、楊文が先に歩き出し、沈曉が続く。半町ほど行ったところで、楊文が歩を緩めた。その場所で、二人の足音が揃う。
揃ったまま、しばらく歩いた。
どちらも、歩幅を戻さなかった。
半刻ほど歩くと、道が二つに分かれる場所に出た。
立て札が、立っている。
古い木の札である。字が、風雨で薄くなっていた。それでも、読める。右へ行けば山、左へ行けば街道の続き、と書いてある。
右は、白澗観へ続く道である。左は、南へ伸びていく。
二人は、その札の前で、足を止めた。
朝の霧が、刈り跡の田から立ち上っていた。霧の底で、鵙が一声、高く鳴く。秋の朝の、澄んで冷たい空気である。昨夜の月餅の甘さが、まだどこかに残っていた。
道の脇に、木が一本ある。
桃だった。細い、古い木である。実の季節はとうに過ぎ、葉は色を変えかけ、枝は乾いていた。
その枝の先に、花が咲いている。
二輪だけである。
秋に咲く花ではない。何かの拍子に季節を取り違えた枝が、この朝、二つだけ開いていた。
沈曉は、それを見上げた。見上げて、何も言わなかった。
楊文が、荷を担ぎ直した。
担ぎ直して、右の道を見る。それから、左の道を見た。
沈黙が、続いた。
この半年、沈黙を破るのはいつもこの男である。宿の部屋で。川原の焚き火の傍で。牢の外の闇で。焼け跡の朝で。沈曉が言葉を探している間、この男はいつも先に喋った。
「なあ」
楊文が、口を開いた。
山の方を見たままである。
「門派を建て直すって話だがな」
「はい」
「屋根を直して、位牌を作って、弟子を集める。……それは、まあ、なんとかなる」
「はい」
「一つ、どうにもならんことがある」
沈曉は、待った。
「看板だ」
楊文は、そう言った。
「山門の扁額だ。あれが割れた。真っ二つじゃねえ。端が欠けて、字の途中に罅が入ってる」
「掛け直すことは」
「できねえ」
即答だった。
「割れた字を掛けとくのは、死んだ奴の名を、半分だけ書いとくのと同じだ」
沈曉は、答えなかった。
「新しく作る。板はある。裏の椎を、去年の風で一本倒した。まだ寝かせてあるはずだ。彫るのは、麓の大工に頼めばいい」
楊文は、そこで足元の石を蹴った。
石が、転がった。
「けど、字を書ける奴が、いねえんだ」
「あなたが、お書きになれば」
「俺の字は、見たろう」
「拝見しました」
「読めりゃいい、って字だ。あんなもんを山門に掛けたら、師匠に笑われる」
楊文は、そこで少し笑った。
「……いや。師匠の字も、下手だったけどな。下手なくせに、書くのだけは俺にやらせなかった」
風が、渡った。
「棠梨村で、あんた、地面に字を書いたことがある」
沈曉の指が、僅かに動いた。
「阿石の親父に、薬の名を教えるのに、棒で書いた。俺は、後ろで見てた」
楊文は、山を見ている。
「あれを、俺は覚えてる。土の上の字なのに、消すのが惜しかった」
「消えました」
「消えた。次の日には、跡もなかった」
「土に書いたものは、そうなります」
「そうだろうな」
彼は、頷いた。
「昨日の晩の、包み紙もそうだ。薬の名と、飲む刻限と、あと一行、なんか書いてただろう」
「湯の温さのことです」
「それだ。……あの婆さん、あれを取っとくぞ」
「捨てて構いません」
「捨てねえよ」
楊文は、そこで一度、息を吸った。
「字の綺麗な道士を、一人」
山の方を見たままである。
「客分に、雇いてえんだが」
風が、渡った。
桃の枝が、揺れた。
沈曉は、その横顔を見た。
この男は、こちらを見ない。見ずに、山を見ている。
断る言葉なら、幾つもある。
私は罪人です。あなたの門派を殺した知識の持ち主です。あなたが弔った人たちの死に、私が関わっています。あなたの門下に、私が立つことはできません。
どれも、正しい。
十年、彼はその正しさで、誰にも何も言わずに去ってきた。
彼は、口を開いた。開いて、閉じた。
言うべき言葉が、今日も見つからない。
見つからないまま、何かが口から出た。
「……考えておきます」
沈曉は、そう言った。
言いながら、自分の口の端が僅かに動いているのに気づいた。彼は、それを止めなかった。
楊文が、こちらを向いた。
目を丸くしている。
それから、その顔がゆっくりと崩れた。笑いになった。声を立てない笑いである。肩が震え、腹の傷が引き攣れたらしく、この男は脇腹を押さえた。押さえながら、まだ笑っている。
「痛みますか」
「痛え」
笑いながら、そう言った。
「あんた、いま」
「はい」
「……いや」
彼は、手を振った。それ以上は、言わなかった。
やがて笑いを収めると、楊文は荷を担ぎ直した。
「麓の村に、小僧が一人いる」
担ぎ直しながら、そう言った。
「十六か、十七だ。去年から、剣を教えろってうるさかった。門派が潰れたと言ったら、じゃあ建て直すまで待つ、と言いやがった」
「待っておられるのですね」
「待たれてる」
楊文は、右の道へ足を向けた。
「面倒なもんだぞ、待たれるってのは。こっちの都合なんぞ、一つも聞きゃしねえ」
沈曉は、答えなかった。
楊文は、一度だけ、片手を挙げた。
それだけで、何も言わずに、歩き出した。
沈曉は、その背中を見送った。
背中は、山道を上っていく。三日で白澗観に着くだろう。着けば、この男は箒を取り、掃くだろう。朝と夕、二度。
背中が、道の彎曲の向こうへ消えかけた。
沈曉は、深く頭を下げた。
顔を上げた時には、もう誰もいない。
彼は、左の道へ向き直った。
街道が、南へ伸びている。稲の刈り跡が、両側に広がっている。霧が、少しずつ晴れていく。晴れた分だけ、道の先が遠くまで見えた。遠くまで見える道を独りで歩くのは、半年ぶりである。
彼は、歩き出した。
一歩、二歩。
三歩目で、何かが頬に触れた。
軽い。
彼は足を止めた。触れたものは頬を離れ、落ちていく。
花びらだった。
桃の、花びらである。狂い咲きの二輪のうちの一つが、風に散ったのだろう。
白い花びらが、肩を掠め、袖に触れ、それから道の土の上へ落ちた。
沈曉は、それを見下ろした。
長く、見ていた。
四十年前、桃林で、若い将軍が何か言った。あの時も、花は散っていたはずである。彼は、それを見ていなかった。
彼は、身を屈めた。
屈むのに、少し時間がかかった。膝が、言うことを聞かない。
花びらを、拾った。掌に乗せる。白い。薄い。指で押せば破れる。数日で茶色くなり、それから土に還るだろう。
彼は、それを懐へ入れた。
古銭を包んだ、あの布の中である。
入れて、彼は歩き出した。
道は、南へ続いている。行き先は、決めていない。
決めていない道を歩くのは、十年、慣れたことである。
十歩ほど行って、彼は足を止め、振り返った。
霧は、もう晴れている。山道は見えない。木立の上に、稜線が一筋あるだけだった。
白澗山である。
彼は、それを見ていた。
それから、また歩き出す。歩きながら、懐の上に、一度だけ掌を置いた。