天理の石 — 第7話
第七話 火の番
壁が、薄い。
隣室の声は、酒の回った調子で続いていた。楊文は横になったまま帳面を引き寄せ、手探りで筆を取った。話し手は西から来たらしい行商で、聞き手が二人ほど。酒を注ぎながら合いの手を入れている。行きつ戻りつする話を拾い集めると、およそこういう筋だった。
西へ二日、谷あいに、棠梨の花の白い村がある。行商が半年前に通った時には祝言を控えた家があって、村じゅうが浮かれていた。婿になる男にも会った。石臼みたいな体で、よく笑う、気のいい若い衆だったという。
ところが、その祝言が、いつまで経っても挙がらない。
ふた月ほど前に通りかかると、村は様子が変わっていた。誰も彼も口が重い。婿の話を出した途端に婆さんに塩を撒かれ、宿を頼めば断られた。仕方なく日暮れの道を隣村まで歩く、その途中で――
「……聞いたんだよ。村はずれの方から」
声が、そこで低くなった。
「連れは獣だろうと言った。だが俺は猟師の倅だ。獣なら、何の獣かまで分かる。あれは、どの獣でもねえ。かと言って――」
人でもねえ、と言ったのだろう。言葉の代わりに、杯を呷る音がした。
聞き手の一人が笑い飛ばそうとして、失敗した。もう一人が、婿はそれからどうなったのだと聞いた。
「知らんよ。村の連中は隠してる。家から出さねえのか、どこかに繋いでるのか。……昼間は元のまんまだ、って話も聞いたがな。夜になると、ああなる。もう幾月もだ。あの村はめでたい飾りを下げたまんま、葬式みてえな顔で暮らしてるのさ」
隣室が、静かになった。
筆が、止まっていた。
昼間は元のまんま。
そこだけが、合わない。
「……昼は、人に戻るのか」
壁の向こうにではなく、こちらへ向けて言った。
「白澗の連中は、戻らなかった。朝になっても昼になっても、ずっとあのままだった。同じものなら、なんでそいつだけ」
「分かりません」
押したのは、一度である。あとは黙った。
市で通る手順だった。合わないところを一つ拾って、一度だけ押す。押し返せない者は、黙っていられずに自分から喋り出す。四半刻もかからない。
沈曉は、喋り出さなかった。
息の音も、寝返りの音もしない。ただ、待っている側の沈黙ではなかった。待たれていることを承知したうえで、そのまま座っている沈黙である。
「見なければ、分かりません」
やがて言ったのは、それだけだった。
「見れば分かるのか」
「多少は」
楊文は、帳面を閉じた。
押しても出てこない相手というのは、いる。押す場所が無い相手も、いる。この人はそのどちらでもなかった。押す場所はある。拾ってある。押せば、たぶん、届く。
届いた先に何があるのかを、こちらが知らないだけである。
横になった。寝つくまでに、いつもより手間取った。
翌朝、二人は街道を離れ、西へ折れた。
道は田の間を抜け、緩い丘をいくつも越えていく。
春は深くなっていた。畦の草が伸び、水の張られ始めた田に空が映る。街道を離れた道は轍も浅く、半日も歩くと行き交う人が減り、日が傾く頃には、道は二人のものになった。
足が、速い。
気づいて、戻す。少し行くと、また速くなっている。白澗観を出てから初めて掴んだ、手がかりらしい手がかりだった。逸るなという方が無理である。
隣の足音は、揺れなかった。こちらが速くなった分だけ離れ、戻せば、また揃う。追ってこない。急かしもしない。歩幅が、朝からひとつも変わっていなかった。
丘の上で一度、足を止めた。
暮れ残りの空に、細くなった月が低く懸かっている。もうじき消える月である。
半年前には祝言の話があった。ふた月前には村が黙っていた。間のどこかで何かが起きて、いまも続いている。
なら、行けば会える。
会って、どうする。
斬れるものなら斬る。斬れないなら、そこから先は自分の受け持ちではない。見て分かる目を持っているのは、隣の男の方である。
その男を、この道へ連れて行くのは、自分だった。
考えは、そこで止まる。止めたのではなく、先が無かった。楊文はもう一度月を見て、歩き出した。
夜は、川原で野営になった。
流木が多く、薪には困らない。日の残っているうちに集めた。一晩分では足りない気がして、二晩分ほど積んだ。なぜ足りない気がするのかは、自分でも分からなかった。
「今夜は、俺が先に起きてる。あんたは寝ろ」
火を組みながら言った。
「ここのところ、通しで起きてばかりだろう」
「夜目は、私の方が利きます。番は――」
「なら朝方に替わってもらう。先に寝ろ」
沈曉は、椀を洗い直そうとした。洗ってある椀である。
「薬の検めは、昼にやってただろ」
次に薬箱の紐へ手が伸びる前に、言った。伸びかけた手が、止まる。それから符の紙の方へ動いたので、
「三日前に数えてた。増えても減ってもいねえ」
と、それも塞いだ。
順番は、覚えていた。椀、薬箱、符の紙。この十日ばかり、夜ごと同じ順で同じことをしている。荷を積む順を覚えるのと同じで、一度入れば忘れない類のものである。
三つとも塞がれた沈曉は、火の方へ目を戻した。
断る言葉を探している顔ではなかった。探して、見つからなかった顔である。
やがて、横になった。火に背を向けて、いつもの向きに。
火は、細く保てばいい。夜番の火とは、そういうものである。
半刻もしないうちに、それでは足りないと分かった。
寝息が、変わった。
浅くなり、間が詰まり、途中で一度、止まる。止まって、また急に始まる。眠っている人間の息ではなかった。
楊文は膝を起こした。
顔は見えない。火に背を向けているからである。見えるのは背中と、夜具の襟と、暗がりに沈んだ肩の線だけだった。その肩が、細かく動いている。寒がっているのとは、動き方が違った。
手が出た。
肩に触れる手前で、止まった。
起こせば、この人は起きる。起きて、いつもの顔をする。何でもありません、という顔である。あれをやられたら、こちらはもう何も聞けない。そのまま、二人で朝まで起きていることになる。
それでは、勘定が合わない。
楊文は手を引いて、代わりに薪を掴んだ。
火にくべる。木の皮が爆ぜて、赤い粉が上がった。
寝息が、緩んだ。
そんな道理があるかと思ったが、道理でなくても事実は事実である。火が大きくなると、隣の息が落ち着く。火が細くなれば、それに合わせて息の間がまた詰まってくる。
だから、また足した。
二度目。三度目。
四つ目で、数が分からなくなった。牌を壁に立てかけた朝と、同じところである。
数えるのはやめて、足すことだけにした。
夜半に、沈曉が寝返りを打った。火の方を向いた。
額に、汗が浮いていた。春の夜にかく汗ではない。
楊文は手拭いを川で濡らし、固く絞って、額に当てた。当てて、すぐ離した。長く当てていると、起きる。
顔は、見ないようにした。
見たところで、何が分かるわけでもない。
一度、声がした。
言葉になっていなかった。なりかけて、ならなかった。
もう一度、した。今度は聞き取れた。
数を、数えていた。
何の数かは、分からない。楊文は、それを聞いていた。途中で切れて、また戻る。戻ると、最初からになる。
薪を足した。
声が、止んだ。
積んだ薪は、目に見えて減っていった。二晩分のつもりだったものが、一晩で底を見せ始めている。なぜ足りない気がしたのかが、いま分かった。分かっても、薪は増えない。
川の音が、夜のあいだ絶えずしていた。
東の空が白む頃、寝息が、ようやく寝息の形になった。
目を覚ました沈曉は、いつもより遅かった。
「おはようございます」
「……寝てない」
寝ていた。胡座のまま、半刻ばかり落ちていたらしい。
沈曉が湯を沸かそうと薪へ手を伸ばし、その手が止まった。
残りを見ている。それから、火の跡を見た。細く保つ夜番の火の跡ではない。夜通し、大きいまま絶やさなかった火の跡である。
顔が上がる前に、楊文は言った。
「……冷えたんだ、ゆうべは」
春にしては、と返されるかと思う。返されなかった。
沈曉は残った薪を火にくべ、鍋に水を張った。
言えば、詫びられる。詫びられれば、こちらは気にするなと言うしかない。そのうえで、この人は眠らずに済ませる工夫を三つばかり増やすだろう。
増やされるのは、困る。
畳まれた夜具の襟が、色を変えていた。干す間もなく荷にされて、いつもの手つきで括られていく。
川面に、朝靄が低く這っている。夜通し流れていた水は、明るみの中で、ただの浅い流れに戻っていた。
何も知らない朝と、何も言わない朝が、同じ火で湯を沸かしていた。
朝餉のあいだ、楊文はあくびを三度嚙み殺し、三度とも嚙み殺し損ねた。歩き出してからは、いつもの調子に戻した。足音は、昨日よりよく揃った。
昼下がり、道は谷へ入った。
白いものが、目につき始める。棠梨の花である。初めは道端に一本、二本。谷の奥へ進むほどに数を増し、やがて斜面ぜんたいが白くなった。噂の通りなら、この谷の奥が、その村だった。
村の入り口に、大きな老木が立っていた。
その枝に、紅いものが下がっている。
婚礼の飾りだった。紅い布と、組み紐と、対の提灯。めでたい色が、白い花の谷でそこだけ燃えるようである――はずだった。
近づくと、紅は褪せ始めていた。
布の端はほつれ、雨の染みが下がり、提灯の紙は破れて骨が覗いている。昨日今日の飾りではない。幾月も、外されないまま風雨に晒された紅だった。
外し時を失ったのだ、と楊文は思った。
祝いが済めば外す。不祝儀なら、外して仕舞う。どちらでもないものだけが、どちらの手も伸びないまま、風に吊られ続ける。
風が谷を渡ると、棠梨の花びらが幾ひらか、褪せた組み紐に触れて落ちた。
祝いの飾りだけが、白い花の中で、季節外れに古びていた。