天理の石 — 第5話
第五話 弔い
楊文は、堂の敷居で足を止めた。
朝の光の中に、十五の白が並んでいる。堂の内は線香の匂いが薄く残り、夜のうちに足された跡が、香炉の灰に幾筋も立っていた。楊文は、夜のうちに覆われた顔を、端から端まで、二度見渡した。喉が一度動いて、言葉は別のものになった。
「……そうか。ありがとうな」
誰に言ったのか、はっきりしない言い方だった。覆いの下の顔がもう昨日と同じでないことを、この男は知っている。知っていて、確かめない。そうしてあることの意味も、たぶん分かっている。沈曉は井戸の水を汲んできて、桶を土間へ下ろした。
朝のうちに、傷を検めた。一昨日の乱戦で、縫い目は二針ほど切れている。滲んだ痕を焼酒で拭い、縫い直して、晒しを替えた。掌には、骸を運んだ麻縄の痕が赤く残っている。楊文の顔は、針の間ずっと堂の方を向いていた。
「今日、埋める支度をする」
「はい」
「手順やら作法やら、俺は半端にしか知らん。門派の弔いは、いつも師匠が」
そこで切れた言葉を、沈曉は拾わなかった。黙って、薬箱を閉めた。
墓地は、裏山の斜面にあった。
歴代の墓が、古い順に段を成して並んでいる。古い墓標は字が読めないほど風化して、それでも同じ向きに、同じ間隔で立っていた。この門派が山にあった年月が、段の数のまま斜面に刻まれている。いちばん新しい段の先に、まだ何もない斜面が広がっていた。
朝の霧が、斜面の裾にまだ薄く残っている。
楊文はそこに立って、日当たりと水はけを確かめ、ここだ、と決めた。全員この山に帰す。そこまでに、迷いは見えなかった。
支度は、手を分けて進めた。
沈曉は納屋から板を出し、鋸を引き、鉋をかけて、墓標の牌を作った。楊文は堂で、骸を一人ずつ夜具ごと包み、麻縄で結んでいく。
包む前に、楊文は昨夜の品を、それぞれの胸元へ納めていった。
廊下に並べた順のままである。取り上げ、包みの中へ入れ、次へ移る。どれが誰のものかを確かめる手つきが、一度もなかった。
「……全部、分かっちまうんだよな」
手を止めずに、楊文が言った。誰に言うでもない声である。
「十年も一緒に暮らしてりゃ、箸の癖まで分かる。分かることが、こんなに――」
続きは、言葉にならなかった。沈曉は麻縄の端を押さえたまま、結び目が固くなるのを待った。
牌が十五枚になった頃、楊文が墨と筆を持ってきた。
最初の一枚に、師匠の名を書いた。筆を下ろすまでが長く、下りてからは一息だった。二枚目からは入門の古い順である。書き終えた牌を乾かす並びも、その順に揃えていく。頭の中の名簿は、一度もつかえなかった。太く、力の入った字である。整ってはいないが、一画も略さない書き方だった。
最後の一枚の前で、筆が止まった。
「……こいつは、まだ号をもらってないんだ」
竹箒の、いちばん若い弟子の牌である。
「この春にもらうはずだった。師匠が、もう考えてあると言ってた。俺は聞いてない。誰も聞いてない。……師匠のなかにだけ、あるんだ」
楊文は結局、幼名をそのまま書いた。書いてから、名の横に小さく、白澗観弟子、と書き添えた。号の入るはずだった場所を、埋めるように。
沈曉は隣で黙って鉋を使い、白い牌を切らさないことだけをした。
書き上がった牌は、乾かすために壁際へ立てかけた。
立てかけ終えて、楊文は列の前に立った。端から、指を差していく。
幾つ目かで、指が止まった。
動かなくなった指を、楊文はそのままにしていた。それから下ろして、堂の方へ戻った。
昼を回った頃、楊文が客間の前で立ち止まった。
斎堂の並びのいちばん奥、来客のための一間である。戸は開いていた。中の夜具は隅にきちんと畳まれ、使った茶器は洗って、盆の上に伏せてある。
几帳面な客の跡だった。
立つ鳥の後を濁さない滞在である。十幾人の暮らしが途中で止まったこの山で、この一間だけが、きちんと終わっていた。
「……そういえば」
楊文が、畳まれた夜具を見たまま言った。
「客が来るって話があった。俺が下りる前の日だ。師匠が言ってた。都から客人が見えるから、粗相のないようにと」
「会いましたか」
「いや。着いたのは俺が発った後のはずだ。名前も、顔も知らん。何の用かも聞いてない。ただ――丁重にもてなせと。師匠がああいう言い方をするのは、身分のある筋の客だ」
沈曉の目は、盆の上の茶器にあった。
「いつ発つ、という話は」
「聞いてない」
「供の人数は」
「知らん。……なんでそんなことまで」
「歳の頃は。若いのか、年寄りなのか」
「だから、会ってないんだって」
楊文が振り向いた。沈曉は問いを重ねる自分の声が、僅かに硬いことに、途中から気づいていた。気づいて、なお止まらなかった声である。一拍おいて、口調を戻した。
「……失礼しました。手がかりが、それしかないもので」
「いや。……いいんだ。俺も同じことを考えてる」
楊文は夜具の前にしゃがみ込んだ。
「昨日から数えてたんだ。堂に並んでるのは十五、全部俺の知った顔だった。よその者は一人もいない。客人が来てたんなら、その客人は、どこだ」
巻き込まれて逃げたか。攫われたか。それとも。
どの言い方も、楊文は口にしなかった。口にしない形のまま、空白の人影が、二人の間で像を結び始めていた。畳んだ夜具。伏せた茶器。名も顔もない、礼儀正しい誰か。
「……茶ぁ出したのは、あいつかもしれん」
伏せられた茶器を見たまま、楊文が言った。
「決まりなんだ。客の世話は、いちばん下の者がやる。俺もさんざんやらされた」
手は、最後まで茶器に伸びなかった。
「丹房が焼けてる」
と、立ち上がりながら楊文が言った。
「うちの山で火事なんて、俺が入門してからは一度もない。あれも、あの晩か」
「……焼け跡を、今朝見ました。周りに燃え移っていません。中から、丁寧に焼かれています」
「丁寧に、って」
「消したいものが、中にあったのでしょう」
それ以上は、言わなかった。土の下に重なっていた跡のことも、弧の端の一画のことも。楊文は焼け跡の方角を長いこと見て、それから、低い声で言った。
「その客人が、やったのか」
「決めるには、早い」
「早いか」
「早いです。ただ――」
沈曉は、伏せられた茶器から目を離した。
「探す価値は、あります」
楊文は頷いた。
その顔は、朝よりも一つ、歳を取って見えた。
日が西に傾いて、支度はあらかた終わった。
包まれた骸が堂に並び、名の書かれた牌が、乾くのを待って壁際に立てかけてある。夕餉の粥を、今日は二人とも半分ほど食べた。食べながら、どちらも口をきかなかった。きかないことが、昨日ほど重くない。それだけの一日だった。
椀を置くと、楊文は立ち上がり、納屋から鋤を担いで出てきた。
「明日からじゃ、ないんですか」
「穴だけでも、掘っておく。……夜は、どうせ眠れん」
沈曉は何か言いかけて、やめた。言う代わりに灯りを提げて、裏山の入り口まで、黙って先を歩いた。
鋤の音は、規則正しかった。
一つ目の穴を、楊文は思いのほか深く掘った。浅く埋めれば、獣が来る。山で暮らした者の知恵である。深さを測る棒をわざわざ拵え、几帳面に当てながら掘り進めていく。十五を、同じ深さで掘るつもりなのだった。
沈曉は少し離れた石の上に灯りを置き、湯を沸かして、椀を手の届くところへ黙って置いた。手伝う、という言葉は使わなかった。使えば断られることの分かる、そういう背中だった。
椀の湯気が消えても、鋤の音は続いている。時折、音が乱れた。傷か、掌の豆か。乱れて、また戻る。
日が落ちて、山の稜線が藍に沈んだ。
やがて、欠け始めの月が稜線の上に出る。灯りと月とで、掘る男の影が二つ、土の上に落ちた。掘り上げられた土は、夜気の中で微かに湯気を立てている。土の中の方が、夜より温かいのである。
沈曉は石の上から、その湯気を見ていた。
埋めるための穴から、生きているものの温度が立ちのぼる。そのことを、彼は誰にも言わない。
言わずに済ませたものが、また一つ積まれた。
夜が更けても、土を穿つ音は止まなかった。
夜のうちに、穴は九つ掘られていた。
朝靄が斜面を這い、掘り返された土の匂いが、霧の中で妙に濃い。楊文はもう鋤を握っている。眠ったのかどうか、訊いても答えないだろう。掌には晒しが巻かれ、巻いた上から土で汚れていた。
鋤の刃が土に入る音だけが、靄の中で規則正しく続いている。山はまだ薄暗く、墓標の並ぶ古い段は、霧の底に沈んで見えなかった。
沈曉は隣に立った。
「掘るのを、手伝わせてもらえませんか」
「……悪い」
鋤は止まらなかった。
「これは、俺の仕事だ」
断られた男は、それでも隣にいた。掘るのではなく、掘り出されて山になる土を、畚で運んで脇へ均した。埋め戻しの時に使いやすいように、穴ごとに分けて積んでいく。楊文は二度目を断らなかった。言葉を探すより先に、体が次の穴へ向かうのだった。
日が昇りきる頃、十五の穴が、斜面に整然と口を開けた。深さは、どれも同じである。
霧は晴れ、山の朝は何も知らない明るさになっていた。掘り上げた土の山に、椎の若葉の影が揺れている。二人とも、穴の列の前に立っていた。どちらからともなく、堂の方へ戻り始めた。
埋葬は、師匠からだった。
夜具ごと包まれた骸を、楊文は背負って斜面を上がり、麻縄を使って、一人で穴の底へ下ろした。縄を解き、形を整え、それから穴の縁に膝をついて、名を呼んだ。
「聴瀾師匠」
呼んで、少しの間、黙っていた。
「……小竹の号、持っていっちまうんですね」
それだけ言うと、立ち上がって鋤を取った。土が、夜具の白を少しずつ隠していく。沈曉は積んでおいた土を運び、楊文が最後の一鋤を入れると、乾いた牌を差し出した。楊文がそれを受け取り、墓の頭に深く挿す。
一人が、終わった。
二人目からは、入門の順である。
名を呼び、時折ひとこと添え、土を被せ、牌を挿す。手順は変わらなかった。それが、この男の弔い方である。
「周敬師兄」
墨染みの指の兄弟子の番で、楊文の声に、初めて笑いに似たものが混ざった。
「あんたに叱られたがってた奴が、こんなにいたんだ。……知ってたか」
周敬の包みには、写経の手本が一枚、胸元に納めてある。昨日、文机から楊文が選んだ一枚だった。土が被さる間、楊文はその胸のあたりから目を上げなかった。
日は高くなり、傾き始めた。
名を呼ぶ声は、続いた。呼ばれる名を、沈曉はひとつずつ聞いた。会ったことのない十五人と、この二日で会ったようなものである。読みかけの書の主、碁敵の二人、朝いちばんに怒鳴る係だったという兄弟子。名を呼ばれるたび、骸は骸でなく、誰かに戻ってから土に入った。
土を被せる音の合間に、沈曉はそれを考え、いつものように言葉の外へ置いた。彼が十年呼ばれずにきた名が、懐の奥の銭より深いところに、ひとつ沈んでいる。
風が斜面を渡り、椎の葉が幾枚か、開いた穴の底へ舞い込んだ。楊文はそれを、ひとつずつ拾い上げてから土を入れた。
泣くのだろう、と沈曉は思っていた。
楊文は、泣かなかった。
声は昼過ぎから嗄れ始め、夕方には低く割れたが、途切れはしなかった。掌の晒しは二度替えた。二度目に替えた時、下の豆はほとんど潰れていたが、楊文は巻き直す間ももどかしそうに、次の包みを背負った。
最後の一人は、小竹だった。
いちばん小さな包みを、楊文はいちばん時間をかけて下ろした。縄を解き、形を整える。
胸の上に載せてあった落ち葉が、幾枚か崩れて夜具の白へ散った。楊文はそれを指で集め、元の場所へ戻した。
穴の縁に、膝をつく。
「小竹」
呼んで、続きが出てくるまでに、今日いちばんの間があった。
「……箒はもう、俺が代わる」
声は、割れたままだった。割れたまま、揺れなかった。土を被せ、幼名の牌を挿し、名の横の小さな書き添えを、指の背でひと撫でする。
立ち上がった時、どこかで一声、鳥が鳴いた。
この山に入って、三日ぶりに聞く声だった。
夕暮れの墓地に、十五の牌が並んだ。
楊文は列の前に立っていた。手を合わせ、頭を下げ、それから、斜面を下りていく。沈曉は最後にもう一度だけ列を見た。夕日を受けて、新しい牌はどれも同じ色に染まっている。号のない一本だけが、列の端で少し小さい。
山門の前で、楊文は足を止めた。
敷石の上に、竹箒が三日前のままの形で倒れている。楊文はそれを拾い上げた。柄は、大人の背丈には少し短い。握りのあたりだけ、竹の色が変わるほど使い込まれていた。小さな手の、高さである。
楊文は箒を持ち直し、門前の石畳を掃き始めた。
朝夕二度の決まりの、夕の分だった。夕日の中で、箒の音だけが規則正しく続く。教えたのは俺だ、と言った男の箒目は、なるほど教えた側のものだった。習った側は、うまくなる前に終わった。
椎は、春に古い葉を落とす木である。掃くそばから、一枚、また一枚と石畳に降りた。楊文はそれも箒の先で寄せた。その先の石畳を、明日はもう誰も踏まない。それでも、門の端から端まで、箒目は一列も飛ばなかった。
沈曉は堂の前の広場で火を熾しながら、その音を聞いていた。
夕暮れに箒を使う弟子の影は、どこの山にもいる。振り向けば見えるその影を、火が育ちきるまで、沈曉は一度も振り向かなかった。
掃き終えると、楊文は箒を門の脇へ立てかけた。倒れていた場所ではなく、本来立てて置くべきだったらしい場所へ、まっすぐに。それから火の向かいへ来て、腰を下ろした。
粥を炊き、干し肉を炙った。今日は、二人とも椀を空にした。空にできることが、体というものの図々しさであり、有難さでもある。楊文は器を置き、火に薪を足して、長いこと黙っていた。
「……俺がいたら、どうにかなったのかって、今日一日ずっと考えてた」
火を見たまま、楊文は言った。
「考えても始まらんことくらい、分かってるんだけどな」
沈曉は、答えなかった。答えていい問いではない。楊文も、答えを待ってはいなかった。薪がひとつ爆ぜて、火の粉が上がり、消えた。
「仇は、討つ」
静かな声だった。
「誰がやったのか。何のためか。なんで、うちだったのか。全部調べて、見つけて、討つ。江湖の仇は、江湖で取る。それが掟だ」
沈曉は、火の正面にいた。いつもなら背を向ける火である。今夜は、真向かいに座っていた。
火は、見る者を選ばない。誓う者の顔も、黙る者の顔も、同じ色に照らす。頬に届く熱の中で、彼は自分がなぜ今夜に限って火に向かって座ったのか、その理由を探さなかった。探せば、見つかってしまう類の理由である。
「それから――門派は、建て直す」
楊文の目が、裏山の方角を一度だけ向いた。
「いつになるかは分からん。だが必ずだ。師匠の白澗観を、このまま終わらせない。……十五の墓の前で、もう言っちまったからな」
言葉は、そこで途切れた。火の爆ぜる音と、夜の山の風だけになった。楊文はそれ以上を言わず、沈曉が何か言うのを待つでもなく、ただ火の方を向いていた。
「……私も、その者を知りたい」
沈曉が口にしたのは、それだけである。
なぜ、と楊文は訊かなかった。江湖の礼というだけでは、なさそうだった。
「そうか」
と、一言。それから、少しだけ声の調子を上げた。
「なら、しばらく道連れだな。言っとくが、俺は鼾がでかいぞ」
「存じています。三晩、隣で聞きました」
「……先に言えよ、そういうことは」
火が小さくなり、薪が足され、また小さくなった。
どちらも、眠ろうとは言い出さない。眠れないことを、互いに知っている夜だった。焼けた丹房も、伏せられた茶器も、十五の牌も、闇の中でそれぞれの場所にある。夜が明ければ、この山を下りる。それももう、どちらも分かっていた。
夜半、山の上に月が出た。
裏山の斜面が、薄い光の中に浮かぶ。新しい牌の列は、ここからでは見えない。
そこにも、同じ月が当たっている。
二つの影が、朝までそこにあった。