天理の石 — 第6話

第六話 同行

2026.07.12 6,174字 ・ 約11分
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 発つ前に、二人で山門の扉を閉めた。
三日のあいだ、開いたままだった扉である。片方ずつ、二人で押した。木の軋む音が山に響いて、内側の景色が細くなっていく。掃き清められた石畳、堂の白壁、裏山へ続く径。最後に残った細い隙間から、朝の光がひと筋、境内の奥へ差し込んでいた。
扉が、合わさった。
楊文は閂を落とし、それから門に向き直って、拱手し、深く頭を下げた。
長い礼だった。
春の風が、頭を下げたままの男の裾を、幾度か揺らして通り過ぎた。
上げた顔は、もういつもの顔である。
「行こう。……いや」
言い直した。
「行ってきます、だな」
石段を下りる間、楊文は一度も振り返らなかった。振り返らないと決めている背中は、振り返る背中より、いくらか硬い。標石の数が増えていくのを、二人とも数えずに過ぎた。

 街道へ出て、まず沈曉の家に寄った。
旅の分の薬と符の紙を包み、それから沈曉は、家の中を順に片付け始めた。筵の薬草は乾いた分から仕舞い、薬研は拭って油を引き、棚の引き出しをひとつずつ検めて、名札を揃え直す。楊文が手伝いを申し出て、座っていてください、と初めて断られた。狭い家である。手順は、一人分しかない。
仕舞い終えた棚から、売り物になる薬を全部下ろした。戸口の貼り紙は書き替えた。しばらく、が、当分、に変わる。当分、の下に続ける言葉を探して、筆を持ったままそうしていて、結局、何も足さなかった。
墨の乾くのを待つ間、家の中を見渡した。
空の棚。拭き上げた薬研。埃だけ払われ続けた葛籠の、なくなった場所。十年ぶんの暮らしは、半日で仕舞い終わる嵩しかなかった。彼はそれを、良いとも悪いとも思わずに見た。
表の物音を聞きつけて、隣の婆が出てきた。
「先生、出かけなさるか」
「ええ。少し、遠くへ」
「いつ帰りなさる」
「……分かりません」
それが、一番正直な言葉だった。婆は沈曉の顔を見て、それから楊文の顔を見て、何かを勝手に得心した。
「湿布、置いていきなされ。ある分だけ」
沈曉は下ろした薬を、湿布ごと全部渡した。空になった棚が、戸を閉ざした薄闇に並んでいる。勘定の話は、どちらもしなかった。婆は包みを抱えて、達者でな、とだけ言う。縁談の話は、今日はしなかった。
戸に錠を下ろし、沈曉は掌を戸板に一度だけ当てた。
十年、変わらないものだけで組み上げてきた家である。次にこの戸を開けるのが自分だという理由は、探してみれば、どこにもない。掌を下ろして、歩き出した。
村外れの坂で、足が半歩だけ遅れた。
振り返りは、しなかった。遅れた半歩を、楊文は見ていたらしい。
「いい村だな」
「ええ」
「戻る場所ってのは、あるうちに分かっとくもんだ」
それが誰に向けた言葉なのか、楊文自身も決めていない言い方だった。

 尋ね人の手がかりは、街道筋にしかない。
都から来た客なら、都へ続く道を通ったはずである。二人は宿場ごと、村ごとに足を止めて、聞いて回った。ひと月ほど前、若い旅の男を見なかったか。都の言葉を話す、身なりのいい男を。
問いの形は、歩くうちに磨かれていった。
初めは長かった問いが、無駄を削がれていく。短いほど、答える側の記憶は余計な方へ逸れない。狩りの仕方に似ている、と楊文は言った。獲物の通り道にだけ、罠を置く。
聞き込みは、もっぱら楊文の仕事になった。
茶屋の親父とは茶の値段から、馬方とは馬の疝気から話が始まり、四半刻後には相手が勝手に喋っている。人懐っこさが銭のかからない手形になる男である。沈曉は半歩後ろで聞き、覚えておくべきことだけを覚えた。
収穫は、なかなか出ない。
都から下る旅人は多く、若い男も多く、ひと月前の一人を覚えている者は少ない。それでも二人は聞き続けた。否まれるたびに、名も顔もない人影が、少しずつ縁取られていく。派手ではない。供を連れていない。目立つ男なら、覚えている者がいるはずなのだ。
同じ男を、追っている。
ただ、追う理由だけが重ならない。楊文は仇として追い、沈曉は――何として追っているのか、それに当てる言葉を、彼はまだ選べずにいる。ずれがあることを知っているのは、並んで歩く二人のうち、一人だけだった。

 街道の日々には、街道の日々の形ができていった。
楊文の歩幅は大きい。大きくて、速い。気がつくと沈曉の三歩先にいて、三歩先で気がついて、歩をゆるめる。ゆるめすぎて、今度は沈曉が並びかける。その繰り返しだった初日が、二日目には間遠になり、三日目には、どちらも直さなくなった。直さなくても、揃うようになっていた。
足音が揃うと、話さなくても間が持つ。
そのことに、楊文の方が先に気づいたらしい。喋る量は変わらないのに、喋らない時間を惜しまなくなった。街道の右と左に菜の花が続き、季節だけは明るい。花の香は日向の匂いと混ざり、蜂の羽音が道の上に低く漂っている。明るい季節を、暗い用事で歩いていることを、時折どちらかがふと思い出し、口にしないまま、また歩いた。
夕暮れには、西の空が菜の花と同じ色に燃えた。
燃える空の下を、二つの影が東へ長く伸びて歩く。影の丈は違うのに、足の運びだけが同じだった。
野営の夜は、手が分かれた。
薪と水は楊文、火と鍋は沈曉。取り決めた覚えはないのに、二晩目からそうなった。焚き火を挟んで座る位置も、いつの間にか決まっている。沈曉は火に背を向け、楊文はその向かい。互いの位置が決まると、闇の中で相手を探す手間が消える。探さずに済む相手がいる夜を、沈曉は久しく持ったことがなかった。楊文は横になると同時に眠る男で、予告通り鼾が大きい。夜の番は自然と沈曉が先に立ち、後の番のはずの楊文が起こされないまま朝になる日が続いた。
「おい、また通しで起きてたのか」
「よく眠れる質ではないので」
「質って、あんたな」
楊文は文句を言い、言いながら朝の火に薪を足した。それ以上は追わない。その加減を、この男は肌で知っている。

 峠の茶屋は、街道が尾根を越える鞍部にあった。
登り詰めると風が変わり、汗の引く冷たさが首筋を撫でる。眼下には越えてきた道が糸のように畳まれ、遠くの田の水が、鈍色に光っていた。
腰掛けが二つ、渋茶と蒸かし芋。昼下がりで他に客はなく、話し好きらしい主人は、注文を運びながらもう喋り始めている。どこから来なすった、北か、北は今時分まだ冷える――
楊文が調子を合わせ、話は街道の様子に移った。
「そういや、お客さんら」
主人は盆を抱えたまま、声を落とした。
「夜道は気をつけなせえよ。近頃この街道は、物騒でねえ」
「物騒って、追い剥ぎか」
「それならまだ、いいんだがね」
芋の湯気の向こうで、主人は首を振る。
「北のどこかの山寺が、一夜で空になったって話だ。人がみんな消えたんだと。狐の仕業だの、祟りだの、いや生き残りが一人いたの……まあ、旅の者の与太だろうけどもね。ここ数年、そういう妙な話が、妙に増えた」
碗を持つ楊文の手が、止まっていた。
沈曉は、先に目を伏せた。
ここ数年、という言葉だけが耳に残って、消えない。
十年前ではない。ここ数年、である。二つの言葉の間に横たわるものを、彼は碗の中の茶柱ごと、静かに見下ろしていた。
峠を、風が越えていく。
主人は二人の様子に気づかず、湯気の向こうで、まだ喋っている。

 峠を下りて二日目の夕方、最初の宿場町に着いた。
町に入る手前から、もう匂いが変わる。煮売りの鍋の湯気、浴堂の煙、馬糞と藁。軒下には掛け提灯がともり始め、宿の女たちが往来へ声を投げ、荷駄の馬が鈴を鳴らして二人を追い越していく。山と野営の日々の後では、雑踏そのものが湯のようなものである。楊文の背筋から、歩くうちに強張りがひとつ抜けたのが、隣にいると分かった。
「今夜は屋根の下だ。あんたも枕を高くして眠れるぞ」
「野営でも、枕は同じ高さです」
「ものの喩えだよ。……あと、俺の鼾のことなら謝らんからな」
「三晩とも、数えられる調子でした。雷より正確です」
「数えるな。あと誰が雷だ」
宿を取り、帳面を繰ってもらう。
ひと月前の頁に、都から下った客の名は三つあった。商人がふた組と、薬種問屋の隠居がひとり。どれも供連れで、歳が合わない。番頭は申し訳なさそうに頁を戻した。
「お尋ねの若い方は、うちには。……もっとも、街道の宿はうちだけじゃございませんし、野宿の口もありますからな」
「だな。順に当たるさ」
楊文は礼を言って、番頭に酒手を渡した。渡し方が堂に入っている。人に物を尋ねる作法を、体で知っている男である。

 翌朝は、市の立つ日だった。
通りの両側に筵と台が出て、青物が山を作り、蕨だの独活だの、春の山菜が籠から溢れている。飴売りの前には子供が鈴なりで、鍋を直す槌の音と、川魚を並べる呼び声と、値切る客のやり取りとがぶつかり合い、通りぜんたいがひとつの生き物のように鳴いていた。
三日前まで、二人は音のない山にいた。
誰も口にしなかったが、この喧噪の中を歩くこと自体が、薬のようなものだった。楊文の声は市に入ってから半段高くなり、歩幅も心持ち大きい。
旅で減った物を買い足す日である。草鞋、麻縄、油、塩、それから沈曉の符の紙と朱。
最初の草鞋屋で、事が起きる。
と言って、店主が悪いのではない。旅の客と見た店主は、まず倍の値を言った。それが市の作法である。言われた沈曉は頷いて、素直に懐へ手を入れた。
「待て待て待て」
楊文が横から袖を引いた。
「親父、それは都の値段だろう」
「へへ、お目が高い」
「高いのは値だ。半分にしろ」
「そりゃ殺生だ。二割引きまで」
「四割。連れは歩くのが仕事でな、減りが早い。また買いに来る」
「……三割五分」
「買った」
やり取りの間、沈曉は草鞋を持ったまま、真剣な顔で二人を見比べている。値が決まると、店主に向かって生真面目に確かめた。
「品は、同じものですね」
「同じだよ」
「値だけが、変わるのですか」
「……そういうもんだよ、お客さん」
「不思議な商いです」
心底から不思議がっている声だった。店主は毒気を抜かれた顔になり、鼻緒の替えを一組、黙っておまけに付けた。
次の油屋では、沈曉が口を開く前に袖を引かれる。
「まだ、何も言っていませんが」
「言う前から分かる。あんたのは、言い値で買う顔だ」
「顔で分かるものですか」
「もう市じゅうに知れてる」
紙屋では、逆のことが起きた。
符に使う紙を、沈曉は選び始める。漉きの目を光に透かし、指の腹で厚みを確かめ、束の中から迷いなく三帖を抜き出した。店主の目の色が変わる。抜かれた三帖は、店のいちばんいい紙だった。
「お目が高い。こちらは値も張りますが」
「これを」
「値を聞け。せめて聞いてからにしろ」
「聞いても、買います」
「だろうな……」
楊文は額を押さえたが、今度は袖を引かなかった。良い符が良い紙からしか生まれないことくらい、この数日で見て知っている。引く代わりに、勘定の間、腕を組んで何かを考えていた。
考えの答えは、店を出たところで出る。
「財布、俺が預かる」
「……はい」
沈曉は素直に巾着を渡した。中を検めた楊文の手が、止まる。つまみ出した一枚を、日に透かした。
「おい、これ」
銭である。ただ、色が違った。すり減って縁が丸く、刻まれた年号が読み取れないほど古い。日に透かすと、模様の名残が影のように浮かんで、それも形にはならない。長い歳月が、字を窪みへ、窪みを平らへと磨き上げた一枚である。店先から首を伸ばした紙屋の店主が、ほう、と声を上げた。
「こりゃまた、古いお銭だ。先代どころの騒ぎじゃないよ。なんなら、いま買ってもらった紙とその一枚、替えっこしてもいいくらいだ」
「駄目です」
返事だけが、妙に早かった。
沈曉は手を出してその一枚を受け取り、巾着とは別に、懐の奥へ仕舞った。仕舞う手つきは、銭に対するものより少し丁寧である。楊文はそれには気づかず、形見か何かだろうと勝手に得心して、それ以上は聞かなかった。聞かない代わりに、一言だけ呆れた声を出した。
「あんた、財布に何を入れて歩いてるんだ……」

 財布が替わってからの市は、楊文の独擅場である。
曰く、旅の買い物は昼前に限る。昼を過ぎると売り手が強気になる。曰く、値切りは三度まで。四度目は喧嘩の値段になる。曰く、釣り銭は店先で数える。数えるのは疑うことじゃなく、後腐れをなくす礼儀だ――
講釈のひとつひとつに、沈曉は生真面目に頷いた。頷くだけでなく、覚える顔で頷くのである。乾物屋の前で、教わったことを試す気になったらしい。干し肉を指して、いつもの平らな声で言う。
「もう少し、安くなりませんか」
抑揚も、駆け引きの色もない。言うだけ言って、あとは黙って店主を見た。値切りの続きを、まだ習っていないのである。
沈黙が、少し長かった。店主は背筋を伸ばし、黙って一割引いた。
「……なんで今ので通るんだ」
「三度までは、値切ってよいと」
「一度で済んでたぞ」
「二度目は、要りませんでした」
「そういうことじゃ、ねえんだよなあ」
次の八百屋でも、同じ声で同じことを言い、同じだけ黙った。値引きの上に、葱を一把おまけに付けられる。店主は、なぜ付けたのか自分でも分からない顔をしていた。
「分かったぞ。あんたのは値切りじゃない。なんというか……お上のお達しだ。逆らえない感じがする」
「褒めていますか」
「褒めてない」
口ではそう言いながら、楊文の口の端は緩んでいた。この旅で初めて見る類の、屈託のない笑い方だった。
宿に戻って荷を検めると、買い覚えのない小さな袋がひとつ出てきた。楊文が摘まみ上げる。飴である。
「薬を苦がる患者に、含ませるためのものです」
聞かれる前に、沈曉は言った。
「……患者、今どこにいるんだ」
「これから、いるかもしれません」
楊文は袋と沈曉を二度見比べ、何か言いかけて、やめた。袋の口を丁寧に縛り直し、荷のいちばん上の、取り出しやすいところへ置いた。

 夕餉は宿で取った。
川魚の塩焼きに、菜飯と汁。膳を挟んで、楊文が帳面を広げる。今日の払い、残りの路銀、この先の宿代の見当。筆はやや太いが、数字の並びは几帳面だった。
「山じゃ、買い出しはいつも俺の役目だった」
帳面から目を上げずに、楊文は言った。
「値切るのがうまいからって、師匠が。……で、そのたびに下山してたわけだ」
筆の音だけが、少しの間続いた。あの日の買い出しの話であることは、どちらも口にしなかった。口にしないまま、楊文は帳面を閉じて、路銀は当分持つ、たぶん俺が生き延びた分の役目だ、というようなことを、ずっと軽い言葉で言った。
「あんたは薬と符の番だ。俺は銭の番。悪くない手分けだろ」
「はい」
「返事がいちいち素直なんだよな、あんた……」
膳が下げられ、灯りを落とす刻限になった。
窓の外を、夜回りの鉦が通り過ぎていく。宿場の夜は、山の夜より音が多い。その一つ一つに悪意がないことを、体のどこかが確かめてから緩む。そういう緩み方を、沈曉は久しく忘れていた。
壁の薄い宿である。隣室の旅人たちの声が、酒の入った調子で筒抜けに聞こえてくる。街道の噂話、馬の値段、どこそこの関所の混みよう。聞くともなく聞いていた声が、ふいに低くなった。
「――おい、聞いたか。また出たらしいぞ」
箸を置く音が、隣室でした。
また、という言葉だけが、壁を抜けて部屋の真ん中に残った。楊文が半身を起こす。沈曉は灯りに手を伸ばしかけた形のまま、動かなかった。
声は続いている。

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