天理の石 — 第8話
第八話 冥婚
棠梨村は、花の底にあった。
谷戸の細長い村である。谷川に沿って段々の田が上がり、低い石垣を挟んで、二十戸ばかりの家が一本道の両側に並んでいる。白壁に灰色の瓦、家々の間を細い水路が音を立てて流れ、その水路の面まで、流れ込んだ花びらで白かった。
斜面という斜面が白く、風が通るたび、花びらが粉雪のように道へ吹き込んでくる。棠梨の花の香は淡く、それでいて谷いっぱいに満ちて、息を吸うたび胸の奥まで白くなるようだった。年に幾日もない、村がいちばん美しい時季のはずだった。
その花の下を、人が俯いて歩いていた。
畑へ出る鍬を担いだ男も、水桶を提げた女も、誰一人、顔を上げて歩いていない。二人が道を譲っても会釈は返らず、目が合いかけると、合う寸前で逸らされた。逸らし方に険はない。険がないまま、戸が閉まるように閉じる。
「……こんにちは、って言っただけなんだがな」
楊文が小声で言った。子供の一人が物珍しげに近寄りかけて、家の中から伸びた手に、袖ごと引き込まれた。戸の閉まる音が、それきり通りに響いた。
村は、暮らしの音が半分になっていた。
鶏は鳴き、水路は鳴り、田には水も張られている。だが、人の立てる音がない。機を織る音も、槌の音も、子を叱る声もなく、井戸端に女が三人寄っても、三人とも黙って水を汲んでいた。畑には鍬が置きっぱなしのものがあり、水路の曲がり角には掬われないままの花びらが溜まって、縁から薄茶色に饐え始めている。花は盛りでも、村の手は、花までは回っていなかった。
痩せた犬が一匹、道の端からついてきた。
吠えない。吠えずに、目だけでずっと二人を追ってくる。楊文が乾いた肉の切れ端を投げてやると、犬は餌と楊文を長いこと見比べて、餌だけ咥え、塀の陰へ消えた。
軒先には、ここにも紅い飾りが残っていた。
村の入り口の老木と同じ、褪せた婚礼の紅である。とりわけ谷の奥の一軒は目立った。門柱に対の提灯を掛け、扉には紅い紙の、喜の字が貼られている。対で貼られたはずの字は、片方が剥がれ落ちて、片方だけが残っていた。祝いの支度をそっくり残したまま、その全部が、ひと冬越したように古びている。
村人は、その家の前を通る時だけ歩みが速くなった。速くなって、誰も飾りを見上げない。
見ないことに、力が要る見なさだった。
楊文は歩きながら、懐の帳面を親指で開いた。行商の話と、目の前の村とを、頁の上で突き合わせている。祝言はふた月余り前のはず。飾りの古び方が、合う。村の口の重さも、合う。
「合いすぎて、嫌になるな」
帳面を閉じて、楊文は言った。
宿探しは、難航した。
村に客桟はない。こういう時、楊文は普段なら困らない男である。畑の隅で一服している年寄りに煙管の火を借り、井戸端の女たちに道を尋ね、四半刻後には誰かの家の軒先で茶が出てくる——白澗観を出てからの道中、それで通らなかった村はなかった。
この村では、煙管の火も借りられなかった。
年寄りは煙管を仕舞って立ち去り、井戸端の女たちは桶を抱えて散った。雑貨屋らしき店は、二人が近づくだけで表戸が半分閉まり、泊めるところはねえよ、と、聞かれる前に中から声がした。
「……俺、なんかしたか」
「いえ」
「だよな。あんたは何もしてないよな」
「はい」
「そこは、二人とも、と言ってくれ」
日が傾き始めた頃、ようやく里正らしい年寄りが一人、根負けした顔で出てきた。二人を上から下まで眺め、腰の剣を長く見て、それから顎で谷の外れを示した。
「土地廟なら、空いとる。雨露はしのげる」
「助かる。宿賃は――」
「要らん」
年寄りは銭を見もしなかった。見もせずに、一つだけ付け足した。
「日が落ちたら、廟から出るな。灯りも、表に漏らすな。……朝までだ」
「聞いても、答えちゃくれないんだろうな」
年寄りは、問いに応じなかった。もう一度だけ、同じことを言った。
「朝までだ」
土地廟は、村外れの丘の裾にあった。
小さな祠で、土地神の像が一体、奥の暗がりに座っている。彩色は剥げ落ちて、笑っていたはずの口元が、剥落のせいで曖昧になっていた。像の肩には埃が積もり、供物の皿は乾いて空である。花は谷じゅうに溢れているのに、神前にだけ、一枝も供えられていない。
「……罰当たりな村だな」
「いえ」
沈曉は皿の埃を指先で確かめた。
「拝む先を、失くしただけでしょう」
「拝んで、駄目だったってことか」
「皿の乾き方が、そう言っています」
二人は像に一礼して、隅に筵を敷いた。夕餉は乾いた餅と、道中の残りの肉である。火は焚かず、携行の小さな灯りを一つ、扉に背を向けて置いた。言いつけの理由を知るには、まず守るのがいちばん早い。
夕暮れの村には、炊煙が上がった。
二十戸分の煙が谷底に薄く棚引いて、飯を炊く匂いが廟まで届く。暮らしは、続いているのだった。続け方だけが、息を潜めていた。
日が、落ちた。
村の方角に、灯りがぽつぽつと点る。細い月が谷の上に浮かんで、白い花ばかりが夜目にも仄白い。楊文は扉の隙間から村を眺め、帳面に何かを書き付け、それからは黙って剣の手入れを始めた。油布を握り直す時に、一度だけ左の肩が止まる。糸はまだ入っている。
夜半——
声が、した。
谷の奥、村はずれの方角である。初めは風かと思う低さで始まり、思っているうちに、風では有り得ない長さになった。
長い。
息継ぎが、ない。獣の声は息で切れる。人の声も切れる。これは切れないまま高くなり、高くなりきったところで、折れるように落ちて、また始まった。谷の斜面に反響して、一つの声が三つにも四つにも聞こえる。何かを呼んでいる声にも、何かに応えている声にも聞こえた。
楊文の手が、剣の上で止まっていた。
動かないのではない。動けるのに、動く先がない手だった。
沈曉は扉の隙間に寄り、村を見た。
灯りが、消えていく。
一軒、また一軒、ではない。声が始まってひと呼吸の間に、村じゅうの灯りが申し合わせたように落ちた。悲鳴はない。戸を叩く音も、犬の声もない。手順として体に染みついた消え方だった。
誰も、騒がない。
声は、長いことかかって細り、途切れた。途切れてからも、谷はまだ鳴っているような気がした。村の灯りは、朝まで戻らなかった。
「……あれが」
楊文が、低く言った。それきり続きは言わず、剣を抱え直して壁に凭れた。眠れる夜ではない。眠れないまま、二人とも横にならずに朝を待った。廟の土地神だけが、暗がりで何も言わずに座っていた。
夜が明けて、水を汲みに井戸へ出た。
村はまだ半分眠っていて、井戸端には老婆が一人、先に来ていた。昨日、桶を抱えて散った女たちの中にはいなかった、腰の深く曲がった婆である。
沈曉が黙って釣瓶を引き上げ、婆の桶に先に注いだ。婆は礼を言わず、拒みもせず、満ちていく水面を見ていた。
「……昨夜の声を、聞きなさったろ」
問いの形をした、確かめだった。楊文が頷くと、婆は桶を持ち上げ、二人のどちらでもない、谷の奥の方角へ目をやった。
「婿どのは、もう呼ばれとる」
それだけ言って、婆は水を運んで行った。曲がった腰が、白い花の下を遠ざかっていく。
残された桶の水に、明け方の細い月が揺れていた。
呼ばれとる。
婆はその言い方を、決まった作法のように使った。この谷で、その一語だけが古い。
沈曉は釣瓶の縄を巻き戻しながら、水面の月が静まるのを待った。
静まったところで、二杯目を汲んだ。月は、また揺れた。
声の主の家は、尋ねるまでもなかった。
朝の村を歩けば、視線が教える。二人が谷の奥へ向かうと知れた途端、村人の目は一斉にこちらへ集まり、集まった目は、二人が例の家に近づくにつれて、一斉に逸れた。見ることと見ないことの境目に、その家はあった。
片方だけ残った喜の字の、あの家である。
近づくと、昨日は分からなかったものが見えた。母屋の脇に、納屋を建て直した小屋がひとつある。壁の木口がそこだけ新しい。窓は高く小さく、奥の一間を太い格子で仕切って、外から閂を掛けられるようにした造りだった。数ヶ月前の、急ごしらえである。
訪いを入れると、母屋から年配の女が出てきた。
二人の旅装と剣を見て、女の顔から血の気が引いた。
「……うちには、何も。お参りなら廟の方へ」
「昨夜の声のことで」
楊文が言い終わる前に、女は首を振った。振りながら、体で小屋への道を塞ぐ。
「帰っとくれ。見世物じゃねえ」
「見世物にしに来たんじゃない。俺たちは――」
「道士様なら、前にも来てもらった」
女の声が、初めて割れた。
「三人も来てもらった。祓いも、符も、沐浴の祈祷も。何ともならなかった。銭だけ取られて、あの子は――」
言葉は続かなかった。続かない言葉の先を、二人とも埋めなかった。
その沈黙の中に、小屋から声がした。
「……母ちゃん」
低い、よく通る声だった。
「入ってもらってくれ」
「阿石」
「見てもらった方がいい。俺がどういうもんか、分かってもらってからの方が、夜に間違いがねえ」
女は小屋を振り返り、二人を振り返り、それから何かを諦めた顔で、道を空けた。
小屋の中は、綺麗だった。
土間の向こうに太い木の格子が組まれ、その内側が板敷きの一間になっている。夜具は畳まれ、食器は隅に伏せられ、床には塵ひとつない。窓は高く、光は一日のうち僅かな刻限だけ、板敷きの決まった場所に落ちるのだろう。その一角だけ、板の色が薄く灼けていた。
牢の体裁の中で、暮らしだけがきちんと立っていた。立てているのは、内側の男である。
格子の向こうに、大きな男が座っていた。
阿石と呼ばれた男である。石臼のような体、と行商は言った。その通りの造りの体から、ふた月分の肉が落ちている。それでもまだ大きい。男は膝を揃えて座り直し、格子越しに、深く頭を下げた。
「昨夜は、すまなかった。……あんたら、廟に泊まった旅の人だろう。さぞ、おっかなかったろう」
詫びから始まった。それから村の非礼を詫び、母親の剣幕を詫び、詫び終えてから、ようやく自分のことを話した。
声は、昨夜のあの声と同じ喉から出ている。同じ喉から出て、これほど違う。よく通る、飾りのない、畑の声だった。話しながら時折、手が板の目を撫でる。その手つきに、行き場のない力が籠もっては、抜けた。
「変わったのは、ふた月と少し前だ。ある晩から、夜になると覚えがなくなった。朝、気がつくと家の中が荒れてて、爪が割れてる」
「それで、ここを」
「三晩目に、親父の腕を折りかけた。それで自分から頼んで、組んでもらった」
「祝言は」
「十日後だった」
阿石は、言い直さなかった。十日後のはずだった、とは言わなかった。
「きっかけに、覚えは」
楊文が聞いた。
「ねえんだ。それがいちばん、気味が悪い。誰かの恨みを買った覚えもねえ。山で妙なもんに触った覚えもねえ。畑に出て、飯を食って、寝た。……いつも通りの日の、次の晩からだ」
阿石は自分の掌を見下ろした。厚い、働く者の掌である。
「夜の俺が何をしてるのか、俺は知らねえ。声だけは、母ちゃんから聞いた。だからあんたらにも、昼のうちに言っとく。日が落ちたら、この小屋に近づくな。……格子は太いが、俺は力だけは強えんだ」
沈曉は、格子の木を見た。
太い。大人の腕ほどもある樫の角材である。その内側の、低い位置にだけ、爪の痕が幾筋も走っていた。木の面が毛羽立つほど、同じ場所を、幾晩も。
昼の阿石の爪は、深く短く切り揃えられていた。
家を出て、楊文は黙って歩いた。
口を開いたのは、水路の橋を渡る時である。
「……似てる」
誰に、とは言わなかった。言わなくても分かった。
「息の詰まり方が、時々あの連中と同じになる。話してる最中に、ふっと。あんたも見てただろ」
「ええ」
「だが、違う」
楊文は足を止めた。
「白澗の連中は、喋らなかった。詫びたりしなかった。朝も昼もなく、ずっと、あのままだった。……あいつは昼は人で、夜だけああなる。同じもんなら、なんでだ。違うもんなら――」
違うもんなら、何なのだ。
問いは形にならないまま、水路の音に呑まれた。沈曉は答えなかった。今夜見せてもらいます、とだけ言った。
日暮れ前に、二人はもう一度、あの家を訪ねた。
夜の観察の許しを、阿石は自分の口で出した。母親は最後まで渋り、渋りながら、灯りと茶を運んでくれた。運んで、日が沈む前に母屋へ引き上げた。
土間の隅に灯りを置き、二人は格子から三歩の距離に座った。
座る前に、沈曉は地面に目を留めた。格子のすぐ外、土間の一箇所だけが、擦り切れたように滑らかになっている。誰かが夜ごと、同じ場所に座り続けた跡だった。夜のこの小屋に残る者はいない、はずである。
沈曉は何も言わず、その跡を避けて座った。
日が、落ちた。
変化は、音から始まった。
格子の内で、阿石の息が浅くなる。浅くなり、間遠になり——止まった。
止まったまま、体は倒れない。座った形のまま、ゆっくりと立ち上がる。灯りに、顔を向けない。昼のあいだ、あれほどこちらを真っ直ぐ見て話した男が、夜は光のある方を一度も見なかった。見ないまま、格子の内をゆっくりと歩き出す。右と左の歩幅が、揃っていない。
瞬きが、ない。
息の音が、ない。
生きている体から、生きている徴だけが順に退いていくのを、沈曉は灯りの際で見ていた。楊文は膝の上で拳を握ったまま、身じろぎもしない。
灯りの炎だけが、微かに揺れている。
小屋の中の空気が、日暮れとともに冷えた。春の夜の冷えではない。水底の冷えに似た、動かない冷たさである。熱を作らない体がひとつあるだけで、部屋の空気は底から変わるのだった。
夜半、声が来た。
昨夜、谷越しに聞いたあの声である。間近で聞けば、それは喉から出ていながら、息を使っていない声だった。吸いも吐きもしない胸から、長い、切れ目のない声だけが立ち上る。谷の方角へ——村の外の、どこか遠くへ向けて。
呼んでいるのか。応えているのか。
声の主の体は、格子の向こうで、外の闇の一点を向いたまま動かなかった。
沈曉は、長いこと観察した。
息の絶えた胸。止まった瞬き。揃わない歩幅。白澗観の徴と、ひとつずつ引き合わせていく。合うものは、合う。だが、根の浅さが違った。徴は日暮れとともに来て、体の芯までは届いていない。届く前に、何かが途中で止まっている。
打ち込まれて、打ち込みきれていない。
夜明けが近づくと、声は細り、阿石の体は板敷きに崩れた。崩れて、ひとつ、大きく息を吸った。生きている音だった。眠りに落ちた男の胸が、上下し始める。
窓の高いところが、藍色に変わっていく。
夜通し立ち続けた体は、崩れた形のまま、深く眠っていた。眠りの中で、太い指が一度だけ、何かを探すように板の上を動いて、止まった。
沈曉は灯りを引き寄せ、白み始めた格子の内を見つめたまま、呟いた。
「……失敗している」
楊文が顔を上げた。聞き返す言葉より先に、沈曉はもう立ち上がって、眠る阿石の呼吸を数えている。
廟に戻り、筵に横になって、泥のように二刻ばかり眠った。
目覚めると、高窓から差す光はもう昼の色で、土地神の剥げた顔が、その光の中に黙って浮かんでいた。
外へ出ると、村の様子が変わっていた。
畑に、人影がない。
その代わり、道の口々に年寄りが二人三人と固まって、低い声で何かを話している。話し声は、二人が通ると止んだ。昨日までは、目を逸らされた。今日は逸らし方に、別の色が混ざっている。決まりの悪さに似た、伏せ方だった。
昼前になって、その理由が分かった。
里正の家に、人が集まったのである。年寄りばかりが十人ほど、順に敷居をまたいでいく。装いは常のままなのに、どの顔もどこか改まっていた。最後の一人が入ると戸が閉められ、昼日中の村で、その家だけが夜のように静かになった。
谷の上を、雲がゆっくり流れていく。
花は今日も散り続け、閉まった戸の前の石段に、白が薄く積もった。誰も、掃きに出てこなかった。
「集まりだな」
楊文が呟いた。何を決める集まりなのかは、分からない。二人は呼ばれていない。近づこうとした楊文を、通りかかった女が身振りだけで押し止めた。
仕方なく、井戸端で水を使った。
その井戸端で、女たちの話し声を拾った。低く、途切れがちで、それでも聞くまいとして聞こえてしまう類の話だった。
「――杏児が、また昨夜も」
「夜通しだと。親が泣いて連れ戻しに行っても、朝まで動かんそうな」
「気が触れたんだ、あの娘も。もう決まることだのに」
「決まる、って。ほんとうに、やるのかね」
「やるしかなかろうよ。……婆様の時分にも、一度あったって言うでねえか」
女たちは水を汲み終え、散っていった。
杏児、という名。決まる、という言葉。婆様の時分、という言葉。三つが後に残って、どれも中身が分からない。楊文は帳面にその三つだけを書き付けた。
「決まる、ってのは、何が決まるんだ」
「……阿石のことでしょう」
それきり、二人にできることはなかった。
集まりは、昼過ぎに終わった。出てきた年寄りたちは誰とも口をきかずに散り、それぞれの家へ帰った。その日は結局、誰も畑に出なかった。村は、何かを決めた後の顔で、静まり返っていた。
夕暮れになって、廟に人が来た。
里正の年寄りである。決まったことを、旅の者にわざわざ告げに来た——その足取りだけで、告げねばならない類の決定であることが知れた。
年寄りは敷居の外に立ったまま、なかなか口を開かない。夕日が、その背の向こうで谷の白い斜面を淡い茜に染めていた。楊文が白湯を勧め、断られ、断ってから、年寄りは観念したように土間の縁へ腰を下ろした。
腰を下ろしてからも、年寄りは廟の土地神から目を離さない。拝みはしなかった。ただ、見ていた。
「あんたらは旅の人だ。二日もすりゃ発つ。……だから、聞かなかったことにして発ってくれ」
「何をだ」
「衆の集まりで、決まったことをだ」
年寄りは、膝の上で拳を組んだ。
「阿石に、祝言を挙げさせる。三日後の晩に」
楊文が、目を上げた。
牢の中の男に、祝言。言葉としては、めでたい。それでも意味の取りようがなくて、楊文は聞き返した。
「……祝言を挙げて、それから、どうなるんだ」
「送る」
その一語で、楊文の顔から表情が消えた。
廟の外で、風が花を渡る音だけが続いている。音のないものばかりが、この谷では降り積もっていく。
年寄りは、こちらが何も知らずに聞き返したのだと悟ったらしい。膝の拳を解き、ゆっくりと、順を立てて話し始めた。何百年、この谷で語り継がれてきた話である。
「呼ばれる、ちゅうのはな。あの世の側に、先約ができるっちゅうことだ」
昔から、何十年かに一度、あるのだという。婚礼を控えた婿が、ある晩から夜ごと人でなくなる。それは冥界の側が婿を見初めて、呼んでいるのだ——夜ごとの声は、呼ばれて、応えている声なのだと。
「呼ばれた婿は、もう半分あちらのもんだ。医者にも道士にも、どうにもならん。うちの婆様の時分にも一度あって、その時は……呼ばれたまんま、ほっといた。婿は牢を破って山へ入って、冬に、谷で見つかった。それからの三年、村じゃ人がよう死んだ。祟った、と皆言うた」
井戸端の女たちが言っていた、婆様の時分、である。
だから、送るのだという。
「娶らせもせんで死なせるから、迷って祟る。ちゃんと祝言を挙げさせて、夫婦にして、婚礼の形のまま、あちらへ発たせてやる。そうすりゃ収まりがつく。婿はあちらで居場所をもらえるし、村は祟られん。……それが冥婚だ」
「送るって」
楊文の声は、低かった。
「どうやってだ」
年寄りは、すぐには答えなかった。答えるまでの間が、答えの半分だった。
「祝いの酒に、眠りの薬を混ぜる。……苦しませはせん。眠ったまま、発ってもらう」
沈黙が、廟に降りた。
楊文が何か言いかけるのを、年寄りは手で制した。
その手が、震えていた。
「言いたいことは分かる。儂らが鬼に見えるだろう。……だがな、旅の人。できることは、みんなやったんだ。道士様を三人呼んだ。祈祷も、符も、沐浴も。銭も出した。ふた月、待った。あの子の親は、儂の従弟だ。阿石は、儂が名付けた子だ」
声は、しまいの方で崩れかけて、崩れなかった。
「近頃、声が強くなっとる。夜が明けても戻りが遅い日がある。皆、気づいとるんだ。もう長くは保たん。……三日後は、新月だ。陰が極まって、あちらとの境がいちばん薄くなる晩だ。送るなら、その晩しかない。逃せば次の新月まで、ひと月。この村は、もうひと月は保たんよ」
年寄りは立ち上がり、腰を伸ばし、最後にもう一度だけ言った。
「聞かなかったことにして、発ってくれ」
返事を待たずに、年寄りは夕暮れの道を帰っていった。
楊文は土間の縁に座ったまま、長いこと動かなかった。口の中で、三日後、と繰り返した。沈曉は白湯の椀を置いた。
その手が、椀の上でわずかに止まっていたことに、楊文は気づかなかった。
「……本人は。阿石は、頷いたのか」
誰にともなく、楊文が言った。
日が落ちてから、二人は谷の奥へ歩いた。
廟から出るなという言いつけは、今夜は破ると決めていた。月は昨日より細く、あと三日で尽きる月である。白い花ばかりが仄かに浮かんで、道はその花明かりで足りた。
あの小屋の手前まで来て、二人は足を止めた。
格子の外の、あの擦り切れた場所に、人が座っていた。
小柄な娘である。薄い衣に上掛けを羽織っただけの姿で、膝を抱え、格子に横顔を向けて座っている。灯りは持っていない。持たずに、夜のこの場所へ通う道を、体が覚えているのだった。
格子の内に、大きな影が立っている。
夜の阿石である。今夜は、あの長い声を上げていなかった。娘のいる側の格子際に立ち、立ったまま、時折、喉の奥から掠れた音を漏らす。声になりそこねた、息だけの音である。
夜気は冷え、娘の羽織の肩に、散り込んだ花びらが幾ひらか白く載っている。払った様子がない。積もるに任せて、座り続けているのだった。
娘は、それに返事をしていた。
「……うん」
掠れに、うん、と返す。
「今日はね、上の田に水が回ったよ。あんたが直した樋、ちゃんと保ってる」
掠れ。
「うん。……犬っころがね、また廟の旅の人に餌もらっとった。現金なやつ」
掠れ。
「うん。そう」
会話だった。
誰が聞いても会話ではないものが、そこでは会話として続いていた。娘は返事のたびに少し笑い、笑った形のまま、笑いを引っ込めない。引っ込めれば、続かなくなる何かを、その顔だけで支えている。
楊文は、動けずにいた。
沈曉も、声をかけなかった。かける言葉のある場面ではない。ただ、気配は隠さずにいたから、娘の方が先に気づいた。膝を抱えたまま、顔だけこちらへ向ける。
「……見張りですか」
「いや」
楊文が、それだけ言った。
「そう」
娘は、それだけで興味を失くしたように、格子へ向き直った。旅の道士が阿石を診たことも、衆の決定も、この娘の耳にはとうに入っているはずだった。入った上で、問うことも縋ることもしない。この場所で夜を過ごすことだけを、ふた月、続けている。
格子の内から、また掠れが漏れた。
娘が、返事をする。
「うん。ここにいるよ」
二人は、来た道を黙って戻った。
楊文は幾度か、何かを言いかけて、やめた。
振り返ると、花明かりの底に、小屋の影と、その際の小さな影が見えた。夜のこの小屋に残る者はいない——村の言い分が正しくない側に、あの擦り切れた座り跡はできたのである。
ふた月。
ひと晩も欠かさなかったのだとすれば、六十夜である。六十夜ぶんの夜気と花びらを肩に積もらせて、あの娘は、うん、と返事をし続けてきた。届く先があるのかどうかを確かめる術は、娘にはない。
細い月が、谷の稜線に沈みかけていた。あと三日で、月はなくなる。
声にならない声に、杏児は今夜も返事をしていた。