天理の石 — 第14話
第十四話 臨江へ
臨江城までは、四日の道のりだった。
街道は次第に広くなり、行き交う人と荷が増えていく。轍が深く、路傍の茶屋には人が絶えない。川が近づくにつれ、風に水の匂いが混じり始めた。夏が来ていた。棠梨の花は、もうどこにもない。
楊文の足取りは、軽かった。
軽い、というのは速いという意味ではない。歩きながら喋り、喋りながら道端の桑の実を摘まみ、宿場では気前よく酒手を渡した。三日ぶりに鼾も戻った。あの円が形になってから、この男の中で何かが片付いたらしかった。
「臨江に着いたら、まず茶館だ」
と、楊文は言った。
「大きい街の茶館ってのは、噂の集まる場所でな。物売りと、船頭と、暇な連中がいる。三日も通えば、街の話は大方拾える」
「はい」
「それから、道観だ。街に幾つか、道観か廟がある。この三年、この辺で妙な話がなかったかを聞く。……あんたが聞いた方が、話が早いか」
「私は、あまり」
「そうか、あんた喋らんもんな」
楊文は笑い、荷を担ぎ直した。
「まあいい。俺が喋る。あんたは隣で頷いてろ。あんたが頷くと、なぜか話が本当らしく聞こえる」
「……それは、褒めていますか」
「褒めてる。この旅で覚えた術のうち、いちばん役に立ってる」
二日目の宿場で、楊文は薬を売らせた。
宿場の外れで足を痛めた馬方がいて、沈曉が診て、膏薬を出した。銭を受け取らずに済ませようとするのを、楊文が横から遮って、きっちり相場で受け取る。受け取った銭を、その場で二つに分けて、片方を馬方の手に戻した。
「これは、話の分だ。この三年、この街道で変わった話はなかったかい」
馬方は、喜んで喋った。
その話に、拾えるものはなかった。
「無駄だったな」
と、宿へ戻る道で楊文は言った。無駄だった、と言う声が、少しも落胆していない。
「無駄は当たり前だ。九つ拾うのに、九十は聞いてる」
沈曉は、その横顔を見た。
この男は、旅の間に一度も泣き言を言っていない。門派を焼かれ、十五を埋め、生き延びた理由が値切りの腕であることを知り、間に合う時などなかったと告げられて、それでも毎朝、荷を担いで歩き出す。
円の中心にいる者を、この男は探しに行く。
見つけて、事情を話し、頭を下げて、囮になってくれと頼むつもりでいる。
頼まれる側は、隣を歩いている。
沈曉の歩幅は、変わらなかった。
変わらないことに、力が要る。
それを知る者は、この街道にはいない。
朝、決まった刻限に目を覚ます。日の出前に水を汲み、荷をまとめ、火を熾す。歩幅を守る。息を乱さない。問われたことに答え、問われないことは言わない。声の調子を、一日のうちで一度も変えない。
十年、彼はそれをしてきた。
名を変え、髪の色を変え、顔の造作を少しだけ変えた。それは初めの一年で済む仕事である。難しいのは、その後だった。
同じ村に、長く住まないこと。
誰とも、深く親しくならないこと。
誰かが病めば診るが、看取りには立ち会わないこと。
人の記憶に、輪郭を残さないこと。
薬売りは、そのために選んだ生業だった。人は薬を買う。買って、飲んで、治って、忘れる。売り手の顔まで覚えている者は少ない。丁寧で、無口で、値切れば言い値でまける道士——それが、彼が十年かけて作った輪郭である。作った輪郭を、彼は毎朝、被り直した。
三年ごとに、彼は住まいを変えてきた。
村の者が、先生はいつからここにいるのだったかと考え始める頃合いが、だいたい三年である。考え始める前に、彼は次の村へ移った。移る時は、書き置きも残さなかった。残せば、そこに輪郭ができる。
最後の村には、四年いた。
一年、長すぎた。それが分かっていて、動かなかった。薬研の音を村が覚え、婆が縁談を持ってくるようになり、包み紙の字を捨てずに取っておく家が何軒かできた。輪郭は、そこで少しずつ濃くなっていた。
濃くなっていくことに、彼は気づいていた。
気づいていて、四年目の春を、あの家で迎えた。なぜ発たなかったのかを、彼は自分に問うたことがない。問えば、答えが出る。答えが出れば、それは弱さの名前を持つ。
いま、それが試されている。
隣の男は、彼を探している者の輪郭を、正しく描いた。次に描くのは、探されている者の輪郭である。
訂正しないことは、嘘をつくことに似ている。似ていて、違う。
嘘なら、いつか露見して終わる。何も言わないことには、終わりがない。毎日、言わないことを選び直す。今日も選び、明日も選ぶ。選ぶたびに、選んだことを忘れる。忘れなければ、続けられない。
選び続けた十年が、彼の顔だった。
その顔で、彼は隣の男の講釈に頷いている。頷きながら、円が閉じていく音を聞いている。
三日目の宿で、楊文が地図を出した。
円の中心の余白を、また指で辿っている。
「あんた、この辺に来たことはあるか」
沈曉は、灯りの芯を切る手を止めなかった。
「……街道は、通ったことがあります」
「そりゃ、街道は誰でも通るだろ」
楊文は笑った。笑って、地図を畳んだ。
「中心の圏内ってのは、結構広いんだ。村が幾つも入る。宿場が二つ、川沿いに集落。一軒ずつ当たってたら、一年かかる」
「はい」
「だから、臨江から始める。人が集まるところから、話を集める。……上手くいかなかったら、その時考える」
楊文は地図を懐にしまい、床に転がった。
「なあ、聞いていいか」
「はい」
「あんた、十年、どこにいたんだ」
部屋が、静かになった。
沈曉は、灯りの芯を切り終えた。切った芯を紙に包み、隅に置く。手つきは、いつもと同じ速さだった。
「あちこちに」
「あちこち」
「北の方に、しばらく。それから、南へ」
嘘では、なかった。彼はあちこちにいた。北にも、南にもいた。
「そうか」
楊文は、天井を見ていた。
「……聞いといて、なんだけどな。俺は、あんたが昔何をしてた人だろうと、たぶん気にしねえよ」
沈曉は、動かなかった。
「白澗の連中を鎮めた時に、そう決めた。あんたが誰だろうと、あの日、あの山に来てくれたのはあんただ。それで足りる」
寝返りを打つ音がした。
「その人が見つかったらさ」
声は、眠たげになっていた。
「たぶん、いい人ではねえよな」
沈曉は、答えなかった。
「そんな術を知ってる奴だ。まともな道じゃ、身につかん。……犯人の師匠だったら、どうする」
「――」
「俺は、それでも会いに行く」
楊文は、欠伸をした。
「会って、聞いて、頭を下げる。使えるものは、何でも使う。それが仇討ちだ」
それきり、鼾になった。
沈曉の目は、暗い天井へ開いたままだった。
まともな道では身につかない。その通りだった。
あんたが誰だろうと。この男は、そうも言った。祝言の夜と同じことを、二度、同じ調子で言っている。二度目の方が、重かった。
彼は灯りを消し、暗がりの中で目を開けていた。
四日目の午後、街が見えた。
城壁は思ったより高く、灰色の帯のように川沿いに続いている。壁の向こうに櫓が幾つも突き出て、その屋根に日が反射していた。城門の前には荷車と人の列ができ、川には帆が林立している。水運の街である。
二人は列の後ろについた。
列は、進まなかった。
「なんだ、これは」
楊文が首を伸ばした。門の前に、兵が立っている。一人や二人ではない。
皇軍だった。
紺色の甲を着けた兵が、門の左右に立ち、通る者を一人ずつ検めている。荷を開けさせ、身元を問い、時に呼び止めて脇へ寄らせる。列は、そのたびに止まった。
「ずいぶん、厳しいな」
前に並んでいた行商が、振り返って言った。
「先月からだよ。都のお偉方が来てるって話だ」
「都から?」
「なんでも、大罪人を探してるんだと。十年も前の罪人をな。今頃になって、何を掘り返すんだか」
行商は肩をすくめた。
「おかげで、荷を検められるわ、通行料は上がるわ。商売あがったりだ」
楊文は、それ以上聞かなかった。
沈曉も、聞かなかった。
二人は、列の進むのを待った。
夏の日差しが、城壁に照り返している。列の中で、誰かが子供を叱り、誰かが笑い、誰かが暑さに文句を言った。ごく普通の、街の門前の午後である。
列は、少しずつ進んだ。
前から三人目の男が、脇へ寄らされた。荷を全部開けられ、身元を三度聞かれ、それから通された。
男は、後ろを振り返りもせずに、足早に街の中へ消えた。
二人目は、老婆だった。兵は荷も見ずに通した。
前の一人は、若い僧である。兵が顔を上げ、僧の顔を見て、それから卓の上の紙束へ目を落とした。指がかかり、二枚ほどめくれる。めくって、戻した。
「通れ」
僧が、門をくぐっていく。
沈曉の歩幅は、列に合わせて進んだ。
一歩、また一歩。速くも遅くもない。
背後で、楊文が首を回して城壁を見上げている。高いな、と誰にともなく言った。返事をする者はいなかった。
やがて、二人の番が来た。
「どこから」
兵が、面倒くさそうに聞いた。
「西の方からだ。棠梨村の先」
楊文が答え、荷を下ろした。兵は荷を開け、餅の残りと、乾いた肉と、薬の包みを見て、蓋を閉じた。
「商いか」
「薬売りだ。連れが道士でな」
兵の目が、沈曉に向いた。
沈曉は、目礼した。
兵は、その顔を長く見た。それから、傍らの卓に置かれた紙の束へ目を落とす。上から二枚目か、三枚目か。指をかけて、めくろうとした。
風が、来た。
川からの、強い風である。城門の下を吹き抜けて、卓の上の紙が、一斉にめくれた。押さえようとした兵の手の下で、紙は数枚が舞い上がり、地面に散った。
「――くそ」
兵は舌打ちして、紙を追った。追いながら、後ろの列に向かって手を振った。
「行け。通れ。次!」
二人は、門をくぐった。
背後で、兵が紙を拾い集めている。拾った紙を揃え直し、卓の上に戻して、また次の旅人を検め始める。
風は、まだ吹いていた。
卓の上の紙束の、いちばん上の一枚が、時折めくれては戻る。めくれた下から、墨で描かれた顔の輪郭が覗いた。覗いて、また隠れた。
誰の顔なのか、門をくぐった二人には、見えなかった。