天理の石 — 第16話

第十六話 牢

2026.08.04 9,133字 ・ 約16分
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 三日目の朝、楊文は上機嫌だった。
昨夜、船着き場の飯屋で、ようやく手応えのある話を掴んだのだという。三年前、この街の北の集落で、一晩に人がまとめて死んだ。疫病ということになったが、荷役の一人が、その集落の出だった。
「そいつの叔父が、埋葬に立ち会ってる。傷が一つもなかったってよ」
楊文は箸を止めずに喋った。
「今日、そいつの家に行く。叔父を紹介してもらう」
「はい」
「あんたは、三つ目の道観だ。昨日、行きそびれたんだろう」
「……はい」
楊文は箸を置き、帳面と地図を確かめ、剣を提げた。宿の階段を下りる足音が軽い。半日で戻る、と言い残して、この男は人混みへ出ていった。
沈曉は、部屋に残った。
夜具を畳み、楊文の分も畳んで、二つ並べて隅に寄せた。薬箱を開け、中身を検める。膏薬、粉薬、丸薬、符紙と朱。数を確かめ、順に並べ直してから、蓋を閉めた。
窓を開けると、帆柱の先が見えた。朝の川霧が、そろそろ晴れる頃合いである。
閉めずに、そのままにした。
荷の底から、巾着を出した。路銀だった。楊文が預かっているはずのものだが、宿に着いた夜、重いから半分持て、と押しつけられている。中身は思ったより減っていなかった。あの男は値切るだけでなく、使い方も上手いのである。
沈曉はそれを机の上に置き、長く見た。それから剣を取り、部屋を出た。

 街は、いつも通りだった。
物売りが声を張り、荷車が坂を下り、犬が路地を横切る。沈曉は坂を上り、三つ目の道観へ向かった。向かいながら、通りの様子を見た。
兵は、いる。
昨日と同じ数である。門の方に厚く、坂の上に薄い。人相書きを持って歩いている者は、見当たらない。
道観は、坂の中腹にあった。
昨日、行けなかった観である。門は開いていた。中に人の気配がある。沈曉は敷居の前で足を止め、そのまま入らなかった。
入らずに、踵を返した。
なぜ返したのかは、説明できない。ただ、その門をくぐって中に入り、道士と話をして、また出てくる——その手順の全部が、ひどく遠いことに思えた。彼は坂を下り始めた。
三つ目の辻で、気づいた。
昨日、屋台の茶売りがいた場所に、屋台がない。場所を変えたのかもしれず、休みなのかもしれない。ただ、その空いた場所に男が二人立っていた。荷を持たず、店を見るでもなく、ただ立っている。街の人間の立ち方ではなかった。
沈曉は通り過ぎた。次の辻で同じものを見て、その次では、確かめるのをやめた。

 彼は、道を折れた。
その先は、薬種の店が並ぶ通りである。人が多い。
その方へ、彼は歩いた。
人混みは、悪くない。
ただ、この街の人混みは川へ向かって流れる。流れに乗れば、川へ着く。川には桟橋があり、桟橋には兵がいる。彼は流れを逆らわずに、途中で横道へ抜けた。
その突き当たりに、人がいた。
振り返る。来た道の口にも、人がいた。
沈曉は、足を止めた。
両側は塀である。高くはない。越えられる高さだった。越えた先が誰かの庭で、その先が路地になり、路地を抜ければ寺の裏手へ出る。この三日で歩いた道の形は、頭の中に入っていた。
彼は、越えなかった。越えられないからではない。

 包囲は、静かに完成していた。
三日かけて、この街の兵は、彼の歩く道を覚えたのだろう。昨日、彼が路地に入った時、あるいはその前から。街の作りを知っている者が、逃げ道の少ない方へ、少しずつ寄せてきた。
寄せ方に、隙がない。
これを指図した者を、沈曉は知っている。
この老人は、昔から、こうやって兵を使った。囲む時、必ず一箇所だけ薄く空ける。追い詰められた者は、そこへ行く。行った先が、いちばん深い袋である。
沈曉は、動かなかった。
彼は、術者である。
封の術と、印訣と、符。この三つで、この場を破ることはできた。難しいことではない。兵は十数人、通りには他に人がいる。塀の向こうに、誰かの家がある。
術を使えば、風が起きる。壁が落ちる。人が飛ぶ。
飛んだ人間が、どこへ落ちるかは、選べない。
それを、彼は知っていた。十年前に知った。人を殺すつもりのない術でも、人は死ぬ。その死体を数えるのは、術を使った者である。
その数を、彼は動かさないと決めている。
決めた理由を、説明したことは一度もない。説明すれば、数の意味を語ることになる。語れないから、数だけが残った。数だけが、十年、彼の手綱だった。
だから、彼は術を使わなかった。
剣も、抜かなかった。
抜けば、斬らずに済ませられる自信はある。だが、抜いた剣を見た兵が、どう動くかは選べない。慌てた兵が槍を突き出し、突き出した槍が誰かに当たる。当たった誰かが、通りがかりの女かもしれない。
選べないことは、しない。
この十年、彼が守ってきた、たった一つの決まりである。

 兵が、近づいてきた。
二人が前へ、二人が後ろへ。他は、遠巻きに囲んでいる。手にした槍が、細かく震えていた。若い兵である。
沈曉が腰の剣に手をかけると、兵の一人が息を呑み、槍の穂先が揺れた。
彼は鞘ごと剣を帯から抜き、両手で水平に持って、静かに差し出した。
誰も、手を出さなかった。差し出された剣と、差し出した男とを、囲んだ全員が見ている。抵抗する男を捕らえる支度をしてきた者たちだった。差し出されるとは、思っていない。
「……取れ」
後ろで、年嵩の兵が言った。
若い兵が、恐る恐る手を伸ばして、剣を取った。その途端、重さによろけた。
縄が来た。沈曉が両手を前へ出すと、その出し方があまりに慣れているので、兵の方が戸惑った。手首に縄がかかり、きつく締められて、余りが背中へ回された。
「名は」
年嵩の兵が聞いた。
「沈曉と申します」
「歳は」
「二十九になります」
嘘ではなかった。彼の顔は、二十九のところで止まっている。
「連れは」
沈曉は、答えなかった。
兵が、もう一度聞いた。同じ声で、同じことを。
沈曉は、答えなかった。
三度目は、来なかった。
連行される時、彼は一度だけ坂の上を見た。人の頭が幾つも動いている。誰も、こちらを見ていない。捕らえられる男が一人いたところで、臨江城の午後は少しも変わらなかった。
いつもの歩幅では、歩けない。縄で繋がれた歩幅である。それでも息は乱さなかった。息を乱さないことだけが、彼に残された習慣だった。

 牢は、街の東の役所の地下にあった。
入り口の詰所で、持ち物を検められた。
薬の包み。符紙。朱の入った小さな壺。楊文に持たされた乾いた肉が、まだ一切れ残っていた。それらが卓の上に並べられ、一つずつ、帳面に書き付けられていく。
符紙を見て、役人が手を止めた。
「これは、何だ」
「符を書く紙です」
「書けるのか」
「書けます」
役人は、紙束を遠くへ押しやった。触りたくない、という手つきだった。
次に、懐が検められた。
沈曉は、両腕を横に広げて立っていた。役人の手が、衣の上から胸を叩く。脇腹を叩く。袖を探る。それから懐へ入り、小さな布包みを引き出した。
役人が、包みの口を緩めた。
覗いた中に、銭が一枚見えた。すり減って、年号の読めない古い銭である。
「なんだ、これは」
「銭です」
「銭だろうが。……使えるのか、こんなもの」
「両替を、忘れておりました」
役人は鼻を鳴らし、それ以上は検めなかった。値打ちのないものを検める手間を、この男は惜しんだ。包みの口を締め直し、卓の隅へ置く。他の持ち物と一緒に、木箱へ入れられた。蓋が閉まる音がした。
沈曉は、その箱を見ていた。
見ていることに、誰も気づかなかった。

 石段を、下りた。
二十段ほどある。下りるにつれ、空気が変わった。夏の午後の湿った熱が、段ごとに剥がれていく。下りきると、そこは冷えていた。
匂いが、変わっている。
石と、水と、それから、人の匂いである。長く人を入れておいた場所の匂いだった。壁の下三尺ほどが黒く濡れて、その上に白い粉が吹いている。川が近い。地下まで、水が来ているのだろう。
廊下に、灯りが二つ。
どちらも小さく、房と房の間を照らすだけである。灯りの下を歩くと、自分の影が壁に立ち上がり、通り過ぎると、また闇に落ちた。
房は、六つあった。
どれも空である。空いているというより、空けてあった。藁が新しく敷き直された房がひとつだけあり、そこが彼の房だった。
押し込まれ、格子が閉じ、錠が下りた。
錠の音が、廊下に長く残った。
獄卒が、灯りを一つ持って上がっていく。足音が石段を上りきると、地下は静かになった。残った灯りは、廊下の反対の端にある。届く光は、格子の影を床に落とすだけだった。

 沈曉は、板敷きの上に座った。
座って、壁に背を預けた。手首の縄は、房に入れられる前に解かれている。縄の跡が、両手首に赤く残っていた。
目が慣れるまで、しばらくかかった。
慣れると、天井の梁が見えた。太い梁が三本。その下に、石を積んだ壁。積み方が古い。この牢は、街と同じだけ古いのだろう。
右の壁に、字があった。
誰かが、爪か何かで彫ったものである。読めない字だった。読めないというより、字ではないのかもしれない。線が幾本か、縦に並んでいる。数を刻んだ跡かもしれなかった。
沈曉は、その線を数えなかった。
数えずに、目を逸らした。

 やがて、水の音に気づいた。
どこかで、水が滴っている。壁の下の方らしい。一定の間隔で、落ちては、また落ちる。
彼は、それを聞いていた。
十年前の朝、この街の門を、彼は歩いて出た。
同じ街に、彼は今、地下にいる。門は開かなかった。開かずに、閉じた。円が閉じるとは、そういうことである。
十年、彼は逃げ続けた。逃げ続けた末に、逃げなかった。破ろうと思えば破れた包囲を、彼は破らなかった。破らなかった理由は、彼の中では筋が通っている。
筋が通っていることを、誰も知らない。
誰にも言っていないからである。
水が、滴った。
彼は目を閉じ、それから、開けた。閉じると、灯りのない場所では、闇の色が変わらない。目を開けているのと、閉じているのとで、見えるものが同じだった。
それは、少しだけ、彼の眠りに似ていた。

 考えることは、幾つもあった。
楊文が、いつ気づくか。
あの男は、日暮れには宿へ戻る。階段を二段飛ばしで上がってくる。戸を開けて、まず夜具を見る。二つとも畳んである。それから机の上を見る。巾着の中を検めるまでもない。重さで分かる。二人分の路銀の、全部である。
窓は、開けたままにしてきた。川からの風が入っているだろう。
それだけで、半分は察する。
宿の者に聞き、通りで聞き、役所へ行く。役所は何も教えない。
だから、あの男は自分で調べる。酒手を渡し、数の合わないところを一つ拾い、一度だけ押して、黙って待つ。
待たれた側は、喋る。
調べれば、いずれ分かる。
分かった時に、あの男が何を思うか。
沈曉は、それを考えて、途中でやめた。
理由は、簡単だった。考えたところで、彼にできることは、何もない。
できることは、何もない。だが、しなかったことなら幾つもある。
言えばよかった。臨江へ入る前に。円が閉じた夜に。あるいは白澗観の堂で、十五の骸に灯りを掲げていた、あの晩に。
言わずに、彼はあの男の隣を歩いた。日数を数えたことはない。数えていないのに、覚えている。街道の埃、峠の茶屋、市の値切り、棠梨村の三日、月餅を割った火の傍。
どれも、彼の十年になかったものである。
水が、滴った。
沈曉は、膝の上で両手を組んだ。
その指の形が、印を結ぶ手前で止まっている。結ぶ相手が、ここにはいない。結んで何かを解く相手も、留める相手も、いない。
彼は、手をほどいた。
ほどいて、壁に背を預け直した。
地下は、暗い。夜が来たのかどうかも、分からなかった。

 石段に、灯りが映った。
揺れながら下りてくる。足音は一つきりで、しかも規則正しくない。段ごとに、右足の音が半拍遅れた。
沈曉は目を開けた。
起き上がりはしなかった。
灯りが廊下の闇を押しのけて近づくにつれ、房の格子の影が床の上で伸び、縮み、また伸びる。
やがて、格子の前で、止まった。
灯りが、掲げられる。
光の輪の中に、老人の顔がある。
日に灼けた顔。頬の古い傷。眉の下の目が、格子の内を見ていた。見るというより、確かめていた。
長い時間、その目は動かなかった。
板敷きの上で、沈曉も動かなかった。
互いに、何も言わなかった。灯りの芯が、一度、小さく爆ぜた。
老人の手が、震え始めた。
灯りが揺れ、格子の影が床の上でわずかに動く。老人はそれに気づき、灯りを持つ手を、もう一方の手で押さえた。押さえてもなお、光は揺れている。
「――陳霖チェン・リン
と、老人は言った。
沈曉は、答えなかった。
「陳霖」
二度目は、確かめる声ではなかった。呼ぶ声だった。
「生きていたのだな」
沈曉は、壁に背を預けたまま、その顔を見上げていた。
老人は、格子を掴んだ。
掴んで、灯りをもう一度、高く掲げた。光が、房の奥まで届いた。
「……その顔だ」
声が、掠れていた。
「儂が最後にお前を見たのは、都の門前だ。二十年前になる。あの時、儂は四十を三つ越えておった。……お前は、そこにおる顔をしておった」
老人は、灯りを持ったまま、動かない。
「儂は、白髪になった。歯も、三本ない。足も、この通りだ。……お前は、変わっておらん」
沈曉は、目を伏せた。
「二十年前も、変わっておらんかった」
老人の声は、低くなっている。
「儂が初めてお前に会ったのは、二十三の年だ。その頃、儂は、お前を三十くらいの人だと思っておった。年上の道士だと。……儂が四十を越えても、お前は三十のままだった。儂が六十を越えた今も、そこにおるのは三十の男だ」
灯りが、下げられた。
老人は格子の前に立ち、それから、傍らの腰掛けを引き寄せた。腰を下ろす時、右足を先に投げ出す。庇う動きだった。
「座らせてもらう。……立っておるのが、辛くてな」
沈曉は、目を伏せた。
「その足は」
声が、出た。
十年ぶりに出した声のように、彼自身が聞いた。
「儂の足か」
老人は、右膝を掌で叩いた。乾いた音がした。
「北の戦だ。矢を三本もらった。三本目が、悪かった」
「……いつ」
「九年前だ」
乱の、一年後である。
沈曉は、それきり黙った。老人も、しばらく黙っていた。
牢の水が、滴っている。

「沈曉、と名乗っておるそうだな」
老人が、言った。
「兵の帳面に、そう書いてあった。沈む曉、と書いて、沈曉。……歳は二十九だと」
沈曉は、答えない。
「儂は、初め、笑ったよ」
老人は、灯りを床に置いた。
「よくもまあ、そんな名を思いついたものだと。……次に、笑えなくなった」
灯りが、老人の顔を下から照らしている。
望曉ワンシャオ。夜明けを望む、という号を、お前は自分で選んだ。二十歳の年だったな」
「――」
「その曉を、お前は沈めたのか」
沈曉は、目を上げた。
上げて、老人を見た。老人も、見返した。
「答えんでもよい」
と、老人は言った。
「答えは、名の中に書いてある。十年、お前は自分の名を毎日名乗って生きてきた。名乗るたびに、自分に言い聞かせておったのだろう。……その手の刑罰を、儂は知らん。誰も課しておらん。お前が自分で決めた」

 老人は、袖から布包みを出した。
開くと、乾した棗が幾つか入っている。それを格子の隙間から、床の上に置く。
「食え。まだ何も食っておるまい」
沈曉は、手を出さなかった。
「毒は入っておらんぞ」
「……分かっています」
「では、食え」
沈曉は、棗をひとつ取った。
取って、掌の中に握る。食べなかった。老人はそれを見た。口は、挟まなかった。
「儂は、勅命を受けておる」
老人が言った。
「十年前の大罪人、陳霖を探し出せ、と。……帝は、お年を召された。夜に、眠れんそうだ」
沈曉は、掌の中の棗を見ていた。
「玉雲観は、王命で仙丹を作っておった。作り上げる寸前で、祭酒が仲間を皆殺しにし、成果を焼いて逃げた。……三十四人だ。世間はそう言っておる」
その数を、老人は正確に言った。三十四。棗を握った沈曉の指は、動かなかった。
「儂は、骸を数えた者から直に聞いた。三十四だ。焼け跡から出たのが三十三。もう一人は、山門の外で見つかった。年寄りの道士が、逃げようとして、そこで斬られておった」
言葉が切れ、水の音だけになった。
「……その一人は、お前の手か」
沈曉は答えない。
「答えんか」
老人の声は、荒れなかった。
「では、聞き方を変えよう。陳霖。お前は、丹を持っておるか」
沈曉は、掌を閉じた。
「帝は、それを知りたがっておる。丹があるのか。あるなら、どこにあるのか。お前を探しておるのは、そのためだ。……儂の役目は、そこまでだ。お前を見つけ、都へ送る。あとは儂の与り知らぬところで、お前は帝の前に引き出されるだろう。丹の在処を吐くまで、お前は死ねん」
言い終えた老人の息が、灯りを揺らした。
「ここまでが、勅命だ」
老人は腰掛けに座り直した。
「ここからは、儂の話だ」

 牢が、静かになった。
滴る水の音が、また聞こえ始めた。
「なぜだ、陳霖」
老人は、格子の向こうを見ている。
「なぜ、あんなことをした」
沈曉は、答えなかった。
「儂は、あの日、都におった。報せが来た時、儂は信じなかった。人違いだと言った。三度言って、三度目には、儂の言うことを聞く者がいなくなった」
老人の右手が、膝の上で握られている。
「儂は山へ行った。焼け跡を見て、骸を見た。それでも信じなかった。……信じられん理由が、幾つもあったからだ」
水が、滴る。
「お前は、儂が知る限り、いちばん人を殺さん男だった」
沈曉は、壁に背を預けている。
「儂が二十三の年だ。初陣で、儂は三十の兵を死なせた。生きて帰ったのは、儂が持ち場を捨てて逃げたからだ。……都へ戻って、儂は死のうと思った」
老人は、灯りの方へ目をやった。
「その頃、玉雲観に、若い祭酒がおるという噂を聞いた。この世でいちばん神仙に近い人だと。儂は、山へ上がった。神仙なら、儂の三十人を返せるかと思ったのだ。馬鹿な話だ」
水が、滴る。
「お前は、儂に何と言ったか、覚えておらんだろう」
「……」
「何も言わんかった」
老人は、少し笑った。
「儂の話を、半日、黙って聞いた。日が暮れて、腹が鳴った。そうしたらお前は、飯にしましょう、と言った。それだけだ。その晩、儂はお前の観に泊まって、粥を食って、寝た。……次の朝、儂は山を下りた。生きて下りた」
老人の手が、膝の上で握られた。
「あの粥のことを、儂は四十年、忘れておらん」
牢が、静かになった。
「それから、儂は幾度も山へ上がった。戦のたびに上がった。何も相談せんかった。ただ、粥を食って、下りた。……お前は、一度も理由を聞かんかった」
老人は、灯りに手をかざした。
「北の戦の帰りだ。儂の軍が、山道で疫病を出した。都から医者を寄越せと書いたら、お前が来た。祭酒がだ。ひと月、あの陣にいた。飯も食わずに、寝もせずに、兵を診た」
声が、低くなる。
「儂は覚えておるぞ。お前は、逃げ出した脱走兵まで診た。首を刎ねるはずの男を、儂の目の前で診て、それから儂に、この者は生かしてくださいと言った。……儂は、生かした。軍法を曲げた。曲げたことを、儂は一度も悔いておらん」
老人は、灯りを見た。
「儂が、なぜお前を桃の花のようだと言ったか、覚えておるか」
「……」
「花は、咲くとも咲かんとも言わん。ただ、時が来れば咲く。誰も見ておらん山の中でも、同じように咲く。……お前は、そういう男だった。誰も見ておらんところで、当たり前のことを、当たり前にする男だった」
老人の声が、初めて、わずかに掠れた。
「儂は、四十年、お前を敬っておった」
言い切って、老人は息を吸った。
「その男が、三十四人を殺した」
沈曉は、目を伏せていた。
「儂の知らんことがあるのだろう。あるに決まっておる。お前は、意味もなく人を殺す男ではない。……儂は、十年、それを聞きたかった」
老人は、格子に手をかけた。
「言え、陳霖」
沈曉は、動かなかった。
「言え。誰にも言わん。儂が墓まで持っていく。……お前が独りで持っていくことは、ない」
牢の水が、滴った。
沈曉は、目を上げた。
上げて、老人の顔を見た。灯りに照らされた老いた顔を、彼は長いこと見ていた。
そして、何も言わなかった。

 沈黙が続いた。
老人は待った。待つのが得意な男である。戦場で伏兵を三日待ったことがあると、昔、笑って話したことがあった。
三日は、待たなかった。灯りの油が目に見えて減った頃、老人は膝に手をついて立ち上がり、よろけた右足を格子を掴んで支えた。
「……そうか」
その一言に、責める色はなかった。
「お前は、そういう男だった」
老人は袖を直す。武人の、几帳面な直し方である。
「明後日、都から人が来る。護送の役人だ。それまで、お前はここにおる」
「……はい」
「今夜は、儂が当番を残しておく。……朝には、獄卒が戻る」
老人は、床の上の棗を見た。
ひとつだけ、沈曉の掌の中にある。残りは、床に置かれたままだった。
「食え。腹が減ると、人は良いことを考えん」
老人は灯りを取り、立ち上がる。
立ち上がってから、もう一度、格子の内を見た。
「儂は、あと幾年も生きん」
灯りの向こうで、老人の目が細くなった。
「儂が死んでも、お前は、その顔のままでおるのだろう。……儂の父も、儂の兄も、儂の妻も、みな儂より先に逝った。お前だけが、儂より後まで残る」
沈曉は、目を伏せた。
「若い頃は、有難いことだと思っておった。神仙に近い人が、この世におってくださると」
老人は、背を向けた。
「今は、恐ろしい」
三歩、歩いた。
それから、足を止めた。
「陳霖」
背を向けたまま、老人は言った。
「儂は、お前を憎んだことがない。十年、一度もない。……それが、いちばん腹が立つ」
足音が、遠ざかった。
石段を上る音が、右足の半拍だけ遅れて、上がっていった。
やがて、扉の閉まる音がして、牢は闇に戻った。

 沈曉は、掌を開いた。
棗が、ひとつ。食べずに、床の上の他の棗の隣へ、そっと置いた。それから壁に背を預けた。
言葉は、幾つもあった。あの晩に何があったか。誰と何を言い争ったか。何を作り、何を焼いたか。運ばれてきた者たちの一人ひとりに、彼が何をしたか。
全部、この老人に言うことはできた。言えば、この男は信じただろう。信じて、抱えただろう。墓まで持っていくと言ったのは嘘ではない。この老人は、嘘をつかない。
だから、言わなかった。
言えば、この老人が持つ。持てば、この老人が探される。帝は老いている。老いた者は、待てない。待てない者は、拷問を使う。
三十五人目を、作らない。
彼は目を閉じた。牢の水が、滴っている。

 その時。
廊下の、闇の中で。
音が、した。
ごく小さな音である。誰かが息を吸い、吸った息を止めそこねた音だった。
沈曉は、目を開けた。
闇は、闇のままである。何も見えない。灯りは、老人が持って上がった。
彼は、動かなかった。
その闇を、見ていた。
闇の中で、誰かが、息を殺している。

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