天理の石 — 第17話
第十七話 牢破り
最初に走ったのは、通りだった。
宿を飛び出して、坂を上った。三つ目の道観まで、息を切らして走った。門番に聞いた。今日、こういう連れが来なかったか。背が高くて、丁寧な喋り方をする道士だ。
門番は、来ていないと言った。
二つ目の廟へ走った。ここには、昨日来たという。若い道士が、香を上げて帰ったと言った。それきりだと。
一つ目の小さな道観にも行った。歯の抜けた老人が、符を三十枚書いてもらったと嬉しそうに話した。楊文はそれを最後まで聞いた。聞き終えて、礼を言って、外へ出た。
どこにもいない。
日が、傾き始めていた。
坂を下る途中で、楊文は足を止めた。
兵が、いない。
この三日、この街で最も目についたものが、目につかない。門の方角にも、辻にも、屋台の脇にも。昨日まで二人ずつ立っていた場所に、誰もいなかった。
楊文は、その場に立ち尽くした。
兵が減るということは、探す必要がなくなったということである。
探し物が、見つかったということである。
背筋が、冷えた。
そのまま、彼は近くの茶館へ飛び込んだ。人の集まる場所である。噂の集まる場所である。
「今日、この街で何かあったか」
いきなり聞かれた小僧は、目を丸くした。
「捕り物だ。誰か捕まらなかったか」
「……ああ、東の方でなんか」
小僧より先に、卓の男が答えた。
「昼下がりだ。塀の間の道でな、兵が十何人で囲んどった」
「誰を」
「知らんよ。見に行った奴が言うには、道士だと。若い男だ」
男は茶を啜った。
「妙な話でな。その道士が、自分から剣を渡したそうだ。抜きもせずに。……兵が拍子抜けして、しばらく誰も動けなかったと」
楊文は、卓に手をついていた。
ついた手が、震えていた。
「どこへ、連れて行かれた」
「東の役所だろう。あすこの地下には牢がある」
男が言い終える前に、楊文は走り出していた。
役所の門は、閉まっていた。
楊文は叩いた。何度も叩いた。潜り戸が開き、兵が顔を出した。
「今日、道士を捕らえただろう」
「知らん」
「知らんはずがない。この街に牢はここしかない」
「知らん、と言っている」
「会わせてくれ。一目でいい」
「帰れ」
潜り戸が、閉まった。
楊文は、拳で門を打った。打って、それから、自分の拳を見た。皮が破れている。
打ったところで、開かない門である。
彼は、門の前に立っていた。日が落ちるまで、立っていた。役所の窓に灯りが点り、通りの人が減り、店の戸が閉まっていった。誰も、彼に声をかけなかった。
夜になって、楊文は役所の周りを歩いた。
三周した。
塀の高さを見た。木の位置を見た。裏手に回ると、荷を出し入れする裏門があり、その脇に、塀の低くなった場所があった。
塀の内に、犬がいた。
鎖に繋がれていない犬である。
楊文は塀に取りついたまま、考えた。それから懐を探り、乾いた肉を出した。棠梨村の包みの、最後の一切れである。
投げた。
犬は、それを咥えて隅へ引っ込んだ。
楊文は、塀を越えた。
中庭に下りて、身を伏せた。物置と厩の間を通り、母屋の裏へ回る。地下へ下りる扉は、すぐに見つかった。石段の下り口に、鉄の扉がついている。
錠前が、下がっていた。
楊文は、剣の鍔を当てた。
打った。
音が、思ったより大きく響いた。夜の中庭に、鉄の音が長く尾を引く。楊文は身を固くして、その場に伏せた。
誰も、来なかった。
二度目を打った。三度目で、錠は落ちた。
鳴りすぎる音に、誰も来ない。
顔を上げて、楊文は詰所を見た。
番の兵が、いない。
窓から見える卓の上に、碗が二つ置いてある。楊文は窓に近づき、指を入れて触れた。
まだ、温かい。
この三日、この街の兵は、蟻の這う隙もないほど道を固めていた。その兵が、今夜、この役所からいなくなっている。
楊文は、そのことを考えなかった。
考える余裕が、どこにもなかった。
彼は、扉を開けた。
石段を下りる途中で、灯りが見えた。
下から上ってくるのではない。下の廊下に、誰かがいる。話し声がした。
楊文は、身を伏せた。
伏せて、階段の途中の暗がりに入り、そこで息を止めた。
声は、二つである。一つは老人の声で、もう一つは、聞き慣れた声だった。
半日、宿の前で待ち、役所へ行って追い返され、通りで聞いて誰も知らないと言われた。だから今夜、忍び込んだ。生きているのかどうかさえ、分からずにいた。
生きている。声が、聞こえる。
楊文は崩れそうになる膝を、石段に手をついて支えた。そして、聞いた。
――陳霖。
と、老人が言った。
楊文には、その名の意味が分からなかった。誰のことを言っているのかも。
だが、次の一言で分かった。
生きていたのだな、と老人は言った。返事はない。
その沈黙の質を、楊文は知っていた。何かを言われて、答えないことを選んだ男の沈黙である。あの男は、いつもそうやって黙る。
陳霖。沈曉ではなく。
石段の暗がりで、楊文は膝を抱え、動かなくなった。
話は、続いた。
老人は、あの男の顔が変わっていないと言った。二十年前と、四十年前と、同じ顔だと。
楊文は、聞いていた。
聞きながら、頭の中で幾つかの物が音を立てて動いた。
字が綺麗な理由を、あの男は長く書いてきましたから、と言った。子供にどんくらいと聞かれて、たくさん、と答えた。棗の種を埋め、実がなるのは五年後で、通るのは自分ではない誰かだと言った。草鞋の値を知らず、年号の読めない銭を懐の奥へ仕舞った。
仙人の絵から抜け出してきたみたいな面だと、俺は言った。
楊文は両手で顔を覆い、覆ったまま聞き続けた。
勅命だ、と老人は言った。
十年前の大罪人、陳霖を探し出せ。
玉雲観は、王命で仙丹を作っていた。作り上げる寸前で、祭酒が仲間を皆殺しにし、成果を焼いて逃げた。三十四人だ、と老人は言った。
三十四。
楊文の頭の中で、地図が開いた。懐の中に、実際にそれはある。九つの印を打った紙である。円の中心を筆の柄で指して、そこに誰かがいると俺は言った。この術を知っている誰かだ。師匠か、仲間か、敵か。あるいは、術を教えた本人か。
四本目で、俺は止まった。
まともな道じゃ身につかん、と俺は言った。宿の暗がりで、眠たげな声で。犯人の師匠だったら、どうすると。俺は、それでも会いに行くと言った。会って、聞いて、頭を下げると。
隣で、聞いていた男がいる。
関係ないよな、と俺は言った。十年前の罪人が、今になって門派を襲う理由がない。俺たちの追ってるのは二十幾つの若い道士だ、と。
あの時、あの男は頷いた。
楊文は、石段に額を押しつけた。冷たい石が、額の熱を吸った。
老人が、三十四の内訳を言った。
焼け跡から出たのが三十三。もう一人は、山門の外で見つかった。年寄りの道士が、逃げようとして、そこで斬られていた。
その一人は、お前の手か、と老人は聞いた。
返事は、なかった。
楊文は、白澗観の境内を思い出していた。
十五人が、庭を歩いていた。あの男は前に出た。符を貼った。糸が切れたように崩れた。誰一人、斬らなかった。
斬らなかった。斬れる男である。斬れる男が、斬らなかった。
俺はそれを優しさだと思った。思って、この一月、幾度も考えた。埋葬の時、骸に傷が一つもなかったこと。周敬師兄の墨で汚れた指が、そのまま土に入ったこと。小竹の顔が、そのままだったこと。
あの男は、俺の兄弟子たちを傷つけずに還してくれた。
その手が、三十四人を殺した手だという。
丹を持っているか、と老人は聞いた。
返事は、なかった。
帝はそれを知りたがっている、と老人は言った。丹の在処を吐くまで、お前は死ねん、と。
楊文は、顔から手を離した。
闇の中で、目を開けていた。
あの男は、あの村で、阿石を三日で還した。二十七の結び目を、順に解いた。結んだ順が分かるのかと、俺は聞いた。あの男は答えなかった。
答えなかった。
答えられるはずがない。
結んだのは、あの人たちだ。
いや。
結び方を教えたのが、あの男だ。
なぜだ、と老人が言った。
なぜ、あんなことをした。
楊文は、息を殺した。
その問いを、待っていた。自分が聞きたかった問いを、他人の口から聞いている。答えろ。答えてくれ。何か言え。理由があるはずだ。あんたは、あんな男じゃない。
あんたは、俺の傷を縫った。
三日、寝ずに阿石を還した。
子供に字を教えた。棗の種を埋めた。月餅を両手で受け取った。
俺が油を売っていた話を聞いて、間に合う時などなかったと言った。あれは、俺を楽にするための嘘ではなかった。あんたは嘘をつかない。だから、正確に言って、俺を殴った。そのあと、火に薪を足しかけて、その手を止めた。
俺は、それを見ていた。
言え。何か、言ってくれ。
牢の水が滴り、沈黙が続いた。老人は待っていた。楊文も、石段の暗がりで膝を抱えて待った。
言え、陳霖、と老人は言った。誰にも言わん。儂が墓まで持っていく。お前が独りで持っていくことはない。
答えは、返らなかった。
その沈黙がどれほど長かったかを、楊文は数えなかった。数えられなかった。ただ、水の滴る音を幾度も聞いた。四度か、五度か。もっと多かったかもしれない。
滴るたびに、何かが終わっていった。
老人が、立ち上がる音がした。
そうか、と老人は言った。責める色のない声だった。お前は、そういう男だった、と。
護送の話をした。明後日、都から人が来る。
それから、老人は言った。儂は、お前を憎んだことがない。十年、一度もない。それが、いちばん腹が立つ。
足音が、こちらへ来た。
楊文は、石段の脇の窪みへ、体を押し込んだ。灯りが上ってくる。老人の右足が、半拍遅れて石を打つ。
灯りが、楊文の隠れた窪みの前を通った。
通り過ぎる時。
老人が、足を止めた。
楊文は、息を止めた。心の臓が、耳の奥で鳴っている。
老人は、一拍、そこにいた。
それから、また歩き出した。上がりきり、扉が開き、閉じた。
牢が、闇に戻った。
三尺先に格子があり、その内にあの男がいる。名を呼べば届く距離だった。
何と呼ぶのか。
あんた、と呼んできた。一月と少し、そう呼んで隣を歩いた。名を呼んだことは一度もない。呼ぶ必要がなかった。二人しかいなかったからである。
沈曉、と呼ぶのか。陳霖、と呼ぶのか。どちらの名も、口の中で形にならなかった。
楊文は掌で口を押さえた。
掌の下で息を吸い、その息を止めそこねた。
闇の中で、音が鳴った。牢の中で、誰かが目を開ける気配がした。
楊文は、動かなかった。
動けば、見つかる。見つかれば、あの男は何と言うだろう。何も言わないだろう。あの男は、何も言わない。十年、誰にも何も言わなかった。あの老人にも言わなかった。四十年、あの男を敬ってきたと言った老人にも。
なら、俺に言うはずがない。
楊文は、壁に手をついた。
立ち上がろうとした。
膝に、力が入らなかった。
もう一度、手に力を込めた。指が壁を掻き、掌が滑った。石壁に塗られた漆喰が、指の下で崩れた。
俺は、何をしに来た。
助けに来たのだ。
助けて、それから、どうする。
三十四人。焼かれた観。仙丹。円の中心。俺の門派は、円の中心にいる誰かを探していた男に滅ぼされた。その中心にいたのが、あの男だ。
俺の兄弟子たちは、あの男が生きていたから、死んだ。
周敬師兄。小竹。師匠。
名前を数えかけて、楊文は止めた。
数えてはいけない気がした。数えれば、それが本当のことになる気がした。
なるも何も、本当のことだった。
楊文は、壁に額を押しつけた。
泣かなかった。泣き方を、忘れていた。十五の墓を掘った時にも、名を呼びながら土を掛けた時にも、泣かなかった。あの時から、涙は出てこない。出てこないまま、腹の底に溜まっている。
溜まったものが、今夜、また増えた。
増えて、行き場がなかった。
どれくらい、そうしていたのか。
顔を上げ、掌を壁から離した。
その掌が、白かった。
漆喰が、削れている。壁に、指の跡が残っていた。
五本の筋が、深く。
地下には時を知るものが何もない。ただ水の滴る音だけが、一定の間隔で続いている。
冷えていた。
夏の地下は、外の熱を知らない。汗の引いた背中に、石の冷たさが染みてくる。震えているのが寒さのせいなのか、そうでないのかを、楊文は考えなかった。
頭は、何も考えていなかった。
考えようとすると、逃げた。三十四人と、周敬師兄の墨で汚れた指と、円の中心と、月餅を両手で受け取った男とが、一枚の絵に収まらない。収めようとするたび、絵の方が壊れた。
やめてしまうと、脈絡のないものばかりが浮かんできた。
白澗観の山門で、あの男が最初に言った言葉である。案内して欲しい、とあの男は言った。頼んだのは、俺の方ではなかった。案内してくれと言われて、俺は当たり前の顔で頷いた。命の恩人が、俺の山を見たいと言っている。断る理由がどこにある。
境内で、真っ先に前へ出た背中。
十五の骸に灯りを掲げて、屈み込んでいた夜。
あの晩、あの男は堂の中で何をしていたのか。俺は壁際で眠っていた。眠りに落ちる前に見たのは、灯りを提げて骸の間を歩く背中である。朝、起きたら、みんなの顔に布が掛かっていた。俺は、あの男が掛けてくれたのだと思った。
思って、礼を言った。ありがとうな、と言った。
あの男は、何も言わなかった。
なぜ、あの男は白澗観へ来たのか。俺が案内したからだ。俺が道端で倒れていたからだ。倒れていた場所は、あの男の家から半里も離れていない。円の中心の、すぐ傍である。
俺は、円の中心で倒れた。
中心にいた男が、俺を拾った。拾って、背負って、傷を縫って、三日寝かせて、それから俺の山へついてきた。ついてきて、俺の兄弟子たちを鎮めた。誰一人斬らずに。
あれは、詫びだったのか。
考えて、楊文は膝に額を押しつけた。
そんなはずはない。詫びるなら、言葉がある。あの男は、詫びなかった。詫びずに、ただ、やった。
夜明けの少し前に、石段の上の扉が軋んだ。
風だろう、と楊文は思った。思って顔を上げると、廊下の端で灯りが揺れている。一つきりの灯りだった。老人が持って上がったのは、もう一方である。
楊文は立ち上がった。膝はまだ言うことを聞かない。壁に手をつき、階段を三段下りて、四段目で崩れかけた。
崩れる前に、止まった。
止めたのは、頭ではなかった。頭はまだ、どこにも辿り着いていない。体だけが先に立ち直り、階段を下りきっていた。
廊下の灯りの下に、卓がある。
獄卒が使う卓だった。書き付けを置き、飯を食い、居眠りをするための卓である。その上に、鉄の鍵が一つ置いてあった。
灯りの真下だった。他には何もない。書き付けも、碗も、居眠りをする獄卒もいない。卓の脇に椅子があり、その背に、脱ぎ捨てた上衣が掛かっていた。誰かが、ついさっきまでここにいて、ついさっきいなくなった、という形の残り方である。
楊文は鍵を掴んだ。
鉄が、掌に冷たい。ずしりと重い。房の錠に合う大きさである。この牢に鍵が幾つあるのかは知らないが、この一本を卓の真ん中に置いていった者がいる。
誰が置いたのかを、考えなかった。
考える場所が、頭の中に一寸も空いていなかった。ただ、掌の重みが、そのまま胸のあたりへ落ちてくるようだった。
いちばん奥の房である。
格子の前に立った時、中の男は目を開けていた。壁に背を預けたまま、こちらを見ている。夜明け前の、灯りの届かない闇だった。顔は輪郭しか見えない。
それでも、目は合った。
楊文は格子に手をかけた。
そのまま、動けなくなった。
言うべきことは幾つもあった。何をした。誰なんだ、あんたは。なんで言わなかった。俺の門派は、あんたが生きていたから。
どれも喉で閊えて、口から出ない。房の中の男も、口を開かなかった。
鍵を持つ手が、震えていた。
この男は、俺が来ることを知っている。昨夜、俺が息を止めそこねた音を、この男は聞いた。聞いて、何も言わなかった。老人が石段を上っていってからも、朝まで、ずっと。
俺が石段の窪みで膝を抱えていた間、この男はそこに座っていた。
声をかけることは、できたはずである。楊文殿、と、この男は呼ぶ。棠梨村で抜糸をした時、そう呼んだ。実務の時だけ名を呼ぶ男だった。
呼ばなかった。
俺が出ていくのを待っていたのか、入ってくるのを待っていたのか、それは分からない。分かるのは、どちらだろうと、この男は黙っていただろうということだけである。四十年敬ってきたという老人にも、この男は何も言わなかった。ならば、俺に言うはずがない。
言うはずがない、と思った途端、腹の底で何かが煮えた。
その名前を、楊文は知らない。怒りに似ていた。似ていて、少し違った。あの男が黙っていることに腹を立てているのか、黙らせているものの重さに腹を立てているのか、それとも、黙っている男を助けに来た自分に腹を立てているのか。
どれでもよかった。
「……くそ」
錠に鍵を差し、回した。
あっけないほど簡単に開いた。軋みもしない。手入れの行き届いた錠である。格子の戸を引くと、それも音を立てなかった。
沈曉は、板敷きの上で壁に背を預けたままでいた。開いた戸を見て、それから楊文を見て、口を開いた。
「――」
「話は後だ」
楊文の声は、自分でも思わぬほど低かった。
「全部、後だ」
沈曉は口を閉じ、立ち上がった。立ち上がるまでに、少し時間がかかった。半日、飲まず食わずで座っていた男の立ち方である。
楊文は手を貸さなかった。貸そうとして、腕が上がらなかった、というのが正しい。
この一月と少し、この人が立ち上がるところを幾度も見てきた。野営の朝、水を汲みに行く時。棠梨村の小屋で、日の出前に格子へ入っていく時。どれも同じ速さで、同じ静かさだった。
今、その手は、壁についている。
床の上に、棗が幾つか置いてあった。老人が置いていったものだろう。沈曉はそれを見下ろし、跨いで、房を出た。一つも欠けていない。一昼夜、何も食っていない男が、跨いで出た。
廊下を戻る途中で、楊文は足を止めた。
卓の脇に、木箱がある。持ち物を入れておく箱だった。蓋を開けると、薬の包みと、符紙と、朱の小壺と、剣が入っている。柄を布で巻いた、飾りのない剣である。
その隣に、小さな布包みが一つ。
楊文は蓋を開けたまま、それを見た。
握り拳より小さい。中身は、二つか三つ。市で古銭を見た日のことを、楊文は覚えている。年号の読めない銭を、この男は懐の奥へ仕舞った。仕舞う手つきが、妙に丁寧である。形見だろうと思って、聞かなかった。
あの時は、形見だと思った。
今は、何だと思えばいいのか。
楊文は剣と包みを掴み、薬と紙の束は袖の中へ押し込んだ。朱の小壺だけが、掴み損ねて箱の底に転がった。拾い直す間が、惜しかった。
「持て」
受け取る時、沈曉の手は布包みの方へ先に伸びた。掌の中へ収めてから、剣を取った。
楊文は、それを見ていた。見ていて、何も言わなかった。言うべきことが多すぎる。それを、この男は一つも言わない。ならばこちらも言わない。今は、言わない。
「行くぞ」
石段を上がり、扉を開けると、外はまだ暗かった。夜明け前の、いちばん暗い刻限である。中庭は静まり返り、犬は隅で寝ていた。乾いた肉を咥えていった犬である。楊文が横を通っても、顔を上げなかった。
物置と厩の間を抜け、裏門の脇の、塀の低い場所へ向かう。沈曉が後ろについてきた。足音がしない。牢を出てから、この男は一言も発していない。
塀に取りついた時、背後で声が上がった。
母屋の方から松明が幾つも出てくる。誰かが叫び、別の誰かが応じ、灯りが中庭に散った。逃げたぞ、と誰かが言った。
早い、と楊文は思った。
半刻前まで、この役所には誰もいなかった。誰もいなかったから、俺は入れた。その誰もいなかった役所に、今、二十人からの兵がいる。まるで、外で待っていたようだった。
考える暇はない。楊文は塀の上へ体を引き上げ、腕を伸ばした。
「掴め」
沈曉がその手を取った。引き上げながら、楊文はこの人の軽さに一瞬、手元が狂った。何度も助けられ、何度も手当てを受け、境内では背中を預けた男である。その腕が、掴んでみれば、これほど細い。
二人は塀の外へ落ち、走った。
夜明け前の路地は、狭く、暗く、下り坂である。楊文は道を覚えていた。三周した役所の周りと、そこから川までの道を、昨日のうちに頭へ入れてある。辻を三つ、右、左、右。石畳が濡れて滑る。
沈曉は、遅れなかった。
半日水を飲んでいない男が、剣を提げて、遅れずについてくる。背後で役所の門が開き、松明が通りへ流れ出す音がした。楊文は、一度も振り返らなかった。
川霧が、出ていた。
夏の臨江の朝の霧である。坂を下りきると、それは壁のように立っていた。桟橋の板が霧に濡れて、足の下で鳴る。繋がれた舟を選んでいる暇はない。手近な一艘の縄を解き、飛び乗って、櫓を掴んだ。
押し出すと、舟はすぐに霧の中へ入った。
街の音が、遠くなった。
岸の松明が、幾つか動いている。声も聞こえる。ただ、どれもこちらへは近づいてこない。舟を出す音は、静かな川では相当に響いたはずだった。
楊文は櫓を漕いだ。
漕ぎながら、岸の方を向いていた。
あの老人の馬が、追ってくると思っていた。四十年あの男を敬っていたと言い、憎んだことがないと言い、それが腹立たしいと言った老人である。逃がすはずがない、と楊文は思った。
馬蹄の音は、しなかった。
岸の松明は乱れたまま、川下へは伸びてこない。霧が濃く、対岸は見えず、上流の街の灯りだけが白く滲んでいた。
沈曉は舳先に座り、川面を見ている。
二人とも、何も言わなかった。
櫓が軋み、水を掻き、また軋んだ。その音のほかに、追ってくるものは何もなかった。