天理の石 — 第18話
第十八話 岸
霧の中を、舟が下っていた。
白い幕は水面に届くほど低く、舳先の先の水さえ、二間先で見えなくなる。世界が舟一艘ぶんに切り詰められて、その小さな世界の縁を、黒い水が音もなく流れていた。
櫓の音だけがする。楊文は艫に立ち、水を掻いている。漕ぎ方は荒かった。舟の扱いは知っていても、川の呼吸までは知らない男の漕ぎ方である。舳先が幾度も流れに取られ、そのたびに櫓が余計に軋んだ。
沈曉は舳先に座っていた。
膝の上に、剣が横たえてある。その脇に、布包みが一つ。掌で押さえたまま、彼は動かなかった。
街の灯りが、遠ざかっていく。
霧が濃く、岸は見えない。ただ、時折、白い幕の向こうに橙色の光が滲んだ。松明である。岸を幾つも動いてはいるが、どれも上流に留まったまま、こちらへ伸びてこない。
舟を出す音は、静かな川では遠くまで届く。
桟橋の板を踏む音も、縄を解く音も、櫓が水を打つ最初の一撃も。役所からあの桟橋まで、走って三百歩ほどだった。兵はその間、松明を灯して通りへ出ている。川へ回るのに、どれほどかかるものでもない。
この舟は、まだ河口に着いていない。下流の渡し場を押さえれば、それで済む。網を張るのに、兵は十人も要らない。臨江城の川筋は、あの老人の兵が三日かけて覚えた道だった。
誰も、来ない。
沈曉は掌の下の布包みを、少しだけ強く押さえた。
この十年、彼は幾度も追われる想像をした。夜中に戸を叩かれる。市の雑踏で肩を掴まれる。眠っているところを縄にかけられる。どの想像にも、必ずあの老人の顔が付いていた。
その老人が、追ってこない。
牢の錠は、手入れが行き届いていた。獄卒はいなかった。卓の上には、鍵が一つ置いてあった。
あの老人は、囲む時、必ず一箇所だけ薄く空ける。空けた先が、いちばん深い袋である。
違う、と沈曉は思った。
あれは袋ではない。あの老人は袋を作らなかった。作らずに扉を開け、自分は姿を消した。捕らえはした、逃げられたのは已むを得ぬ。そういう落とし所を、あの男は自分で作ったのである。
勅命を、あの男は破っていない。破らずに、抜け道を通した。
四十年、そうやって軍法と人の間を歩いてきた男だった。脱走兵を診てくれと言われて、生かした男である。曲げたことを一度も悔いていないと、あの男は言った。
沈曉は目を閉じた。閉じても、川の音は変わらない。
――儂は、お前を憎んだことがない。十年、一度もない。
櫓が、軋んだ。
どれほど下ったか、霧が薄くなり始めた。
夜が明けようとしている。空の色が、上から順に灰へ変わっていく。両岸に葦の原が現れ、水鳥が幾羽か、舟の音に驚いて飛び立った。
楊文は、櫓を漕いでいる。
背中しか見えない。牢を出てから、この男は一言も発していなかった。命令が二つ。持て、と、行くぞ。それだけである。
何か言うべきだ、と沈曉は思った。
思って、探した。
あの晩、牢の外の闇で息を殺していたのが誰かを、彼は知っている。知っていて、声をかけなかった。老人が去った後、格子の内から呼ぶことはできた。名を呼ぶことも、詫びることも、せめて出て行けと言うこともできた。
しなかった。
声を出せば獄卒に聞こえる、という理屈はある。
理屈だけが、ある。
声をかけて、何を言うのか。
言うべきことは、一つしかない。あの晩に何があったかを言うことである。それを言えないのなら、他の何を言っても嘘になる。
十年、そうしてきた。
その結果が、この舟だった。
沈曉は口を開き、そして閉じた。
言葉が出てこない。棠梨村の火の傍でも、同じことが起きた。この男を正確に殴った後、続く言葉を探して、見つからなかった。あの時は火に薪を足そうとして、手が止まった。
今は、足す火もない。
彼の目は、膝の上の剣にあった。
葦の原が、切れた。
小さな洲がある。流木の溜まった、人の来ない場所だった。楊文が櫓を回し、舟の頭を岸へ向ける。
舳先が、砂に乗り上げた。
軽い衝撃で、膝の上の剣が滑った。取り落としかけて掴む。掴んだ拍子に、布包みが手から落ちた。
包みが、砂の上に転がった。結び目が緩み、中身が半分、覗いた。
銭が一枚。年号の読めない、すり減った古い銭だった。
そして、その下に、もう一つ。
沈曉は、素早く包みを拾い上げた。拾い上げて、結び直した。動きに無駄がなかった。無駄がなさすぎた。彼が何かを急いで隠す時、その手はいつもより正確になる。
顔を上げると、楊文が見ていた。
艫に立ったまま、櫓を握ったまま、こちらを見ている。夜明けの光が川面から跳ね返って、その顔を下から照らしていた。
目が、合った。
楊文は、何も言わなかった。
言わずに櫓を舟底へ置き、砂の上へ飛び降りた。舟の舳先を掴み、力任せに岸へ引き上げる。沈曉が手を貸そうとした時には、舟はもう乗り上げていた。
楊文は舟の縁に腰を下ろし、懐に手を入れた。
朝の川は、夜の川と別の顔をしている。霧の名残が水面を這い、流れの筋が幾本も、光の帯になって下っていた。その明るさの中で、この男の顔だけが、まだ夜の側にあった。
出てきたのは、鉄の鍵である。
鉄は、掌の上にあった。夜明けの光に、鈍く光る。牢の錠に差した鍵だった。差して、回して、あっけないほど簡単に開いた錠の、鍵だった。
楊文は、腕を上げた。
川へ投げるつもりだと、沈曉は思った。思って、口を開いた。
「――待ってください」
声が、出た。
牢を出てから、彼が発した最初の言葉である。
楊文の腕が止まり、そのまま動かなくなった。やがて、ゆっくりと下ろされた。
「なんでだ」
声は、掠れている。一晩、櫓を漕いで、一言も喋らなかった男の声だった。
「なんで、止める」
沈曉は、答えなかった。
答えられなかった。あの鍵を誰が置いたかを言えば、その男が何をしたかを言うことになる。その男が何をしたかを言えば、なぜそんなことをしたかを言うことになる。
言えば、四十年が出てくる。粥の話が出てくる。桃の花の話が出てくる。
沈曉は、口を閉じた。
楊文は、しばらく待った。待って、それから、鍵を懐へ戻した。
戻す時、指が一度、その鉄を握り直した。
「……あんたは、いつもそうだ」
楊文は立ち上がり、岸の上の方へ歩いていった。流木を集め始める。火を熾すつもりらしかった。
沈曉は、舟に座ったままでいた。
夜が、明けた。
葦の穂が朝日に光り、水面が白く割れる。夏の朝である。臨江の街は、もう見えない。霧の向こうに、上流の方角があるだけだった。
沈曉は舟から下りた。剣を提げ、布包みを懐へ入れる。入れた場所は、いつもの場所だった。十年、同じ場所にある。銭と、もう一つ。
砂の上に、楊文が集めた流木が積んであった。火はまだ点いていない。楊文は火打ち石を探して荷を探っている。荷は、宿に置いてきたはずだった。何も出てこないことに、この男は途中で気づいたらしい。
手が、止まった。
その手を、楊文はそのままにしていた。それから、流木の山を蹴った。
符紙なら、懐に戻っている。
一枚あれば、火は点けられることを、沈曉は知っていた。知っていて、立っていた。
差し出した火を、この男がいま受け取れるかどうか、彼には分からなかった。指は袖の中で動かなかった。あの術の系譜から出た火で、この男の湯を沸かすことが、今朝は、ひどく厚かましいことに思えた。
木が崩れて、砂の上に散った。
楊文は、散った木を拾い集めた。一本ずつ、丁寧に。集め終えて、また積み直す。積み直してから、その場に座り込んだ。
沈曉は、離れたところに立っていた。近づくことも、離れることも、できなかった。
葦の原を、風が渡っていく。水鳥が啼き、川が流れ、朝の光が二人の影を砂の上に長く伸ばした。影は、離れている。
この一月と少し、二人は幾つの火を挟んで座ってきただろう。街道の野営で、棠梨村の土間で、林の中で。火は言葉の代わりに爆ぜて、沈黙の置き場になってきた。
今朝、二人の間にあるのは、火のない木である。
昼が過ぎるまで、二人は動かなかった。
楊文は流木の傍に座り、川を見ている。沈曉は舟の脇に立ち、それから座り、また立った。日が高くなると、洲の砂が焼けるように熱い。葦の陰へ移ることを、どちらも言い出さなかった。
時が、動かない。
こういう時間を、沈曉は知っていた。誰かが何かを言うのを待っている時間だった。牢で、あの老人が待っていた。棠梨村の火の傍で、この男が待っていた。待たれているのは、いつも彼だった。
言うべきことは、この十年、少しも変わっていない。
変わったのは、言わないことの重さだけである。以前は、黙っていれば、それで済んだ。誰も彼に問わなかったからだ。今は、黙るたびに、隣の男の中で何かが減っていく。
減っていく音が、聞こえる気がした。
水は、飲んだ。川の水である。
楊文が両手で掬って飲み、それから沈曉の方を見た。見て、それきり、また川へ目を戻す。沈曉は膝をつき、同じように掬って飲んだ。半日ぶりの水が、喉に痛い。
腹の話は、誰もしなかった。
日が傾く頃、楊文が立ち上がった。葦の原へ入り、やがて戻ってくる。手には菱の実が幾つか握られていた。泥だらけの、痩せた実だった。
彼はそれを二つに分け、片方を砂の上へ置いた。沈曉の足元である。置いて、自分の分を齧りながら、流木の傍へ戻っていった。
沈曉が、その実を拾い上げるまでには、しばらくかかった。
日が落ちた。
葦の原が、灰色になっていく。川風が出て、昼の熱が急に引いた。楊文は積み直した流木の前に座り、火のない木を見ている。
楊文は、火打ち石を持っていない。
昼のうちに、洲の石を二つ拾って、幾度も打ち合わせていた。火花は散らなかった。散らないことが分かってからも、この男は、しばらく打ち続けた。
沈曉は、それを見ていた。
声をかけることは、できた。私が熾します、と言えば、それで済む。言わなかったのは、この男が石を打つ手を止めなかったからである。止めない手を、彼は止められなかった。
日が落ちて、楊文は石を置いた。
沈曉は、その傍に立った。
立って、懐から符紙を出した。牢の木箱から返された紙だった。一枚を抜き、指の間に挟んだ。
朱はない。書く必要もなかった。
彼が指を組むと、紙の端が縮れた。
その先に、赤い点が生まれる。点は広がって紙を舐め、下の枯れ葉に移った。細い炎が、流木の隙間で立ち上がる。
楊文の目が、それを追った。火が木に移り、爆ぜて、洲の砂を照らすまで、この男は瞬きをしなかった。
「……そういうのが、できるのか」
「はい」
「じゃあ、昼に言えよ」
沈曉は、答えなかった。
楊文も、それ以上は言わなかった。言わずに、火に手をかざした。日が落ちてから、川風は思いのほか冷たい。かざした手の甲に、火の色が乗った。
沈曉は灰になった符の残りを砂に埋め、それから火の傍へ座った。
座る場所を、彼は一度、迷っている。
いつもなら、火に背を向ける。十年、そうしてきた。理由を人に説明したことはない。火を見ていると、見たくないものが見える。それだけのことである。
今夜、彼は火の向こう側へ回らなかった。楊文と、火を挟んで向かい合って座った。
二度目である。一度目は、白澗観の弔いの夜だった。
火が、大きくなった。
葦の穂が風に鳴り、川が暗く流れている。上流の方角に、まだ街の灯りが滲んでいた。臨江城である。この距離まで下っても、あの街の灯りは空を白く染めている。
楊文は、膝の上で手を組んでいる。
火を見て、時々、上流の方を見る。追手が来ないことに、この男も気づいている。気づいていて、何も言わない。
「腹が減った」
と、楊文が言った。
その一言が、丸一日ぶりの声だった。
「明日、下の村まで下ろう。銭はねえが、俺は働ける」
「……はい」
「あんたは、働くな。目立つ」
沈曉は、火の方へ目を落とした。
楊文が火に木を足す。足した木が湿っていて、白い煙が上がった。煙は風に流れ、沈曉の方へ来る。彼は目を細めたが、避けはしなかった。
「なあ」
楊文の声が、変わった。
「三十四人ってのは、本当か」
火が、爆ぜた。
沈曉は、火を見ていた。逸らせば、逸らしたことになる。彼は火を見たまま、答えた。
「本当です」
「あんたが、殺した」
「はい」
「玉雲観の、祭酒だったのか」
「はい」
「不老不死の薬を作ってて、それを独り占めしようとして、皆殺しにした」
沈曉の指が、膝の上で動いた。
「……それは」
「違うのか」
違う、と言うことはできる。
言えば、では何があったのかと問われる。問われて、答えられない。
世間の言う物語は、彼にとって都合のいい嘘だった。十年、その嘘に守られてきた。
「――」
沈曉は、口を閉じた。
「答えねえのか」
「……はい」
「なんでだ」
答えは、なかった。
楊文は待ち、それから大きく息を吐いた。
息が火に触れ、炎を一度だけ傾がせる。
「あの爺さんにも、答えなかったな」
「はい」
「四十年、あんたを敬ってたって言ってた。憎んだことがないって。……それでも、答えなかった」
「はい」
「じゃあ、俺に答えるわけがねえよな」
楊文は、笑った。笑い方が、いつもと違った。息だけの笑いである。
笑いが消えると、彼は膝を抱えた。
「牢の外にいたのは、俺だ」
「……はい」
「知ってたな」
「はい」
「声も、かけなかったな」
「はい」
楊文は、火を見ている。
「あんたは、あの晩、俺が来ることを知ってた。俺が全部聞いてることも知ってた。……それでも黙ってた。あの爺さんが行っちまってからも、朝まで、一言も」
沈曉は、答えなかった。
「怖かったか」
火が、爆ぜた。
「俺が、あんたを斬りに来たかもしれん、とは思わなかったのか」
「――」
「思わなかったんだな」
楊文は、そこで顔を上げなかった。
「思わなかったから、あんたは座ってたんだ。俺が入ってきても、逃げなかった。剣も取らなかった。……あんた、俺が斬るなら斬れ、と思ってたろう」
沈曉の膝の上で、指が動いた。
それを、楊文は見ていない。
「……勝手だな、あんたは」
声に、力はなかった。
火が、燃えている。
沈曉は待っていた。次に来る言葉を、彼は幾つも用意している。十年、それらの言葉に備えて生きてきた。
人殺し。裏切り者。俺の門派を返せ。
どれが来ても、頷くつもりでいた。頷いて、この男が去るのを見送る。その後のことは、考えていない。
楊文は、火を見ている。長いこと、見ていた。
それから、言った。
「あんた」
「はい」
「ずっと、あんな顔で寝てたのか」
沈曉の呼吸が、止まった。
止まったことに、彼自身が驚いた。
「川原で、火の番をした晩がある。覚えてるか。あんたが、悪い夢を見てた晩だ」
楊文は、火を見たままである。
「声は出さねえんだ。あんたは。……ただ、息が浅くなって、額に汗が出る。俺は起こすかどうか迷って、結局起こさなかった。薪を足して、朝まで起きてた」
沈曉の手が、膝の上で止まった。
「翌朝、あんたは何も言わなかった。俺も言わなかった。薪だけが、妙に減ってた」
火が、爆ぜた。
「棠梨村でもだ。治療の三日、あんたはほとんど寝なかった。仕事のためだと思ってた。……三日目の晩、あんたの手は震えてた」
楊文は、初めて顔を上げた。
火を挟んで、二人の目が合った。
「あの晩から、俺は数えてる。あんたが眠った夜を」
声は、静かだった。
「一月と、少しだ。俺の知る限り、あんたはまともに眠っちゃいない。……十年か」
楊文は、そこで言葉を切った。
「十年、あんたは、あんな顔で寝てたのか」
沈曉は、答えられなかった。
喉の奥に、何かが詰まっている。それが何かを、彼は知らない。十年、そこにあったものかもしれなかった。
この男は、火の番をしていた。
自分が悪夢を見ている間、この男は薪を足し、額の汗を拭き、朝まで起きていた。翌朝、何も言わなかった。冷えたんだ、ゆうべは、と言った。春の夜に、冷えるはずがない。
彼は、それを知っていた。
知っていて、礼も言わなかった。言えば、次の夜から、この男は自分を起こすようになる。起こされれば、何を見ていたのかを聞かれる。聞かれれば、答えられない。
だから、知らないふりをした。
一月と少し、この男の親切に、彼は毎日、知らないふりで応えてきた。
火が、燃えている。
楊文は、また火の方を向いた。
「許すとは、言わねえ」
声は、低かった。
「俺の門派は、十五人死んだ。周敬師兄は、罰の写経の手本を書く人だった。小竹は、この春に号をもらうはずだった。師匠は、その号を誰にも言わずに逝った。……あんたが生きてたから、あいつらは死んだ」
沈曉は、聞いていた。
「それは、変わらねえ。何を聞いても、変わらねえと思う」
楊文の手が、膝の上で握られた。
「だから、許すとは言わねえ。まだ分からねえ。一年経っても分からねえかもしれん。……ただな」
言葉が、切れた。
そこで、楊文は火を見ている。
「一つだけ、分かることがある」
彼は、顔を上げなかった。
「あんたを、独りにしたら駄目だ」
火が、爆ぜた。
「それだけは、分かる」
沈曉は、動けなかった。
この男が何を言ったのか、意味を取るのに幾らかの時間が要った。
許さない。だが、独りにしない。
その二つが、同じ口から出ている。
彼は生涯で、そういう言葉を聞いたことがない。十年、彼が備えていた言葉は、すべて去る側のものだった。
言うべきことが、あるはずだった。礼を言うのか。詫びるのか。去れと言うのか。どれも違う気がして、彼は口を開き、そして何も言わなかった。
喉の奥のものが、まだそこにある。
彼にできたのは、頷くことだけだった。一度、深く。
楊文はそれを見て、頷き返した。それきり黙って、火へ木を足した。
夜が、更けた。
楊文は火に木を足し終えると、その場に横になった。横になる前に、一言だけ言った。
「明日は、歩くぞ」
「はい」
「返事だけは、いつも早いな。あんたは」
やがて、鼾になった。横になると同時に眠る男である。この一晩と一日、この男が眠っていないことに、沈曉は今になって気づいた。
彼は、火の番をした。
薪はある。楊文が集めた流木だった。蹴って散らし、また拾い集めた木だった。沈曉はそれを一本ずつくべ、炎が小さくなるたびに足していく。
火は、明るい。
彼は背を向けずに、それを見ていた。見ていると、見たくないものが見える。今夜も見えた。焼け落ちる梁。倒れる影。斬るという動作の、腕に残った重さ。
見えたが、彼は目を逸らさなかった。
火の向こうで、楊文が寝返りを打った。
沈曉は、その顔を見た。眠っている顔である。この男は、明日も隣を歩くのだろう。許さないまま、歩くのだろう。
彼は、川の上流を見た。
葦の穂の向こう、暗い空の一角が、白く滲んでいる。臨江城の灯りだった。あの街の地下に、水の滴る牢がある。牢の卓に、鍵を置いていった男がいる。
灯りは、まだ滲んでいた。
沈曉は、それを長いこと見ていた。