天理の石 — 第19話

第十九話 湯

2026.08.04 4,650字 ・ 約8分
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 二日、二人は川沿いを歩いた。
銭がない。荷もない。あるのは剣が二振りと、薬の包みが幾つかと、符紙だけである。楊文は道々、その日の飯を稼いだ。渡し場で舟の荷を上げ、荷車の車輪を直し、坂で立ち往生した牛を押した。人の手が要る場所を見つける嗅覚が、この男にはある。
沈曉は、手伝おうとした。
最初の渡し場で、俵に手をかけたところを止められた。
「あんたは、座ってろ」
「私も」
「あんたが俵を担いでるところを、人が見る。見た人間が、覚える。……座ってろ」
正しい理屈だった。正しかったので、沈曉は座った。
座って、半日、荷の上がるのを眺めた。
妙な心地である。
人が働いているのを、何もせずに見ている。彼は十年、こういう時間を過ごしたことがない。村では薬を包み、符を書き、水を汲んだ。誰かが病めば、夜中でも起きて出た。働くことは、目立たないための手段だった。働かない者の方が、村では目につく。
ここでは、逆だった。
沈曉は膝の上で手を組み、その手を見た。何もしていない手である。この手が何をしてきたかを知っている者が、いま、川の縁で俵を担いでいる。
彼は目を上げ、その背中を見た。
楊文は、よく働いた。荷役の男たちと同じ速さで担ぎ、同じ数だけ休み、同じ冗談に笑った。半日で、渡し場の全員がこの男の名を覚えた。
覚えられる、ということを、この男は恐れない。
昼になると、楊文が饅頭を二つ持って戻ってくる。片方を渡し、自分の分を齧りながら、渡し場の親父の悪口を言った。悪口の中身は、俵の積み方が下手だ、という話である。
「あの積み方だと、下の段が潰れる。潰れた米は値が落ちる。値が落ちれば、あの親父が損をする。……なのに聞かねえ」
「言ったのですか」
「言った。三度言った」
「それは、嫌われます」
楊文が、口の動きを止めた。
止めて、沈曉を見た。沈曉は饅頭を食っている。真面目な顔で、正確な速さで食っている。
「……あんた、今、俺をからかったか」
「いえ」
「いや、からかったろ、今」
「事実を申し上げました」
楊文は、しばらく黙った。
それから、饅頭の最後を口へ入れて、立ち上がった。立ち上がる時、笑いを噛み殺しているのが、後ろ姿でも分かった。

 三日目の昼、川が山に近づいた。
谷が狭くなり、湯の匂いがした。硫黄である。街道沿いに小さな湯治場があった。宿が三軒、飯屋が二軒、湯を引いた浴堂がひとつ。病人と、湯治の年寄りと、通りがかりの旅人が、その狭い通りを行き来している。
石畳が濡れて、その下から湯気が細く立っていた。腰の曲がった婆が、湯を汲んで運んでいく。杖をついた男が、木の椅子に腰かけて日を浴びている。誰も急いでいない土地だった。
楊文は、迷わずそこへ入った。
「泊まるぞ」
「追手が」
「来ねえよ。三日、誰も来てねえ」
楊文は、それを言った後で、少し口を閉じた。
来ないことを、この男も考えている。考えて、答えを出していない。出さないまま、宿の軒を見上げた。
「泊まるんだ。……気まずい時ほど、普通のことをするもんだ。師匠が言ってた」
「聴瀾どのが」
「ああ。喧嘩した弟子には、飯を食わせて、湯に入れて、寝かせるんだ。次の朝に話す。……次の朝には、半分くらい、どうでもよくなってる」
沈曉は、碗の縁を指で辿った。
「あんた、湯に入ったのはいつだ」
彼は、思い出そうとした。
思い出すのに、時間がかかった。棠梨村を出てから、川で体を洗ったことは幾度かある。湯に浸かった記憶は、その手前で途切れていた。
「答えるな。分かった」
楊文は、宿の帳場へ向かった。

 浴堂は、狭かった。
石を組んだ湯船が一つ。湯が濁っていて、底が見えない。天井が低く、湯気が籠もり、隅で年寄りが二人、湯に浸かったまま象棋を指している。盤は湯船の縁に置かれていた。
楊文は、遠慮なく浸かった。
浸かって、呻いた。長い、獣のような声である。年寄りたちが振り返り、また盤に戻った。
「あんたも入れ」
沈曉は、湯の縁に座っていた。
座って、湯を見ている。動かない。
「入れよ」
「……はい」
肩まで沈むと、彼は目を閉じた。
閉じて、動かなかった。湯の熱が、体の芯まで届くのに時間がかかる。届いた場所から順に、何かが緩んでいった。
湯の面に、鎖骨が浮いている。
目を開けると、楊文が自分の左肩を見ていた。
斜めに走った傷は、赤みを引いて、白い筋になっている。沈曉が縫った傷である。三つ余計に縫った、と言った傷だった。
この男の体には、他にも跡がある。膝の古い擦り傷。右の前腕の、細く長い一本。指の付け根の、稽古で潰れた皮の厚み。どれも、そこに残っていた。
沈曉は、湯の中の自分の腕を見た。
何もない。
あの晩、抗われて、幾度も刃を受けた。
その場所を、彼は覚えている。左の前腕。肩。脇腹。どれも骨に届く手前で止まったが、血は流れた。流れて、塞がって、消えた。
跡が、残らない。
それは、記録が体の外にしかないということである。数える以外に、彼がそれを持っておく方法はない。
楊文が、湯に肩まで沈んだ。
それきり、何も言わなかった。

 湯を出ると、日が傾いていた。
通りに、市が立っている。湯治場の市である。売っているものは限られていた。豆腐、菜、川魚、それから、串焼きの屋台がひとつ。
楊文は、串を四本買った。
二本を沈曉に渡し、自分の二本を齧りながら歩く。串焼きの隣に、蒸した饅頭を売る屋台があった。餡が入っているという。
楊文は、そこで足を止めた。
止めて、二つ買った。一つを、沈曉に渡す。
「銭が」
「二日ぶん稼いだって言ったろ」
「串焼きだけで、足ります」
「足りるかどうかを、俺は聞いてねえ」
沈曉は、饅頭を受け取った。
両手で受け取った。
楊文は前を向いて歩き出し、振り返らなかった。
通りの端に、子供が座っていた。
膝を抱え、足首を押さえている。腫れていた。母親らしい女が、湯を汲んだ桶を提げて、困った顔で立っている。
沈曉は、足を止めた。
止めて、それから、楊文を見た。
楊文は、その子を長く見た。それから、顎で示した。
「診てやれ」
「目立ちます」
「腫れは今日中に引かせろ。……見てて、寝覚めが悪い」
沈曉は膝をつき、子供の足首に触れた。触って、押して、位置を確かめる。動きに一切の迷いがない。骨は無事で、筋を違えているだけだった。
薬の包みを開き、膏薬を塗り、布で巻いた。巻き終えるまでに、女が三度、礼を言った。銭を出そうとするのを、沈曉は断った。
断ろうとしたところで、後ろから声がした。
「もらっとけ」
「……はい」
銭は、饅頭一つ分だった。

 宿の部屋は、二階だった。
窓を開けると、湯気が谷から立ち上っている。夏の夕暮れである。楊文は買ってきた酒の甕を床に置き、椀を二つ並べた。
「飲め」
「たしなむ程度です」
「たしなめ」
同じやり取りを、この旅で何度したか分からない。
注がれた酒を、沈曉は口に含んだ。安い酒である。喉が焼ける。彼は顔色を変えずに飲み干し、椀を置いた。
楊文が、その手元を追った。
「あんた、酒に強いのか」
「……分かりません」
「分からんとは」
「酔ったことが、ないので」
楊文の手が、止まった。
そのまま、動かない。それから、酒を注ぎ足した。今度は、沈曉の椀に並々と注いだ。
「なら、今日は酔え」
「無理かと」
「試せ」

 夜が更けても、沈曉は酔わなかった。
二杯目も、三杯目も、彼は同じ顔で飲んだ。楊文は幾度か横目で確かめ、そのたびに首を振り、自分の椀に注ぎ足した。
窓の外で、湯治客が誰かの快気を祝っている。三年動かなかった腕が、動いたのだという。銅鑼が鳴り、拍手が起こり、また誰かが酒を注いだ。
「治る人間ってのは、いるんだな」
楊文は、天井を見て言った。
「はい」
「治らねえ人間もいる」
「はい」
「あんたは、どっちだ」
沈曉は、答えなかった。
楊文の方が先に舌が回らなくなり、床に転がって、天井を見ていた。
「……あのな」
「はい」
「俺は、あんたを許してねえ」
「はい」
「言っとくが、明日も許してねえと思う。明後日も、たぶんだ」
「はい」
「それでいいのか、あんたは」
沈曉は、答えなかった。
答えないことが、答えだった。楊文は、天井を見たまま笑った。
「……ま、いいや」
それから、鼾になった。
沈曉は、椀を片付けた。空の甕を隅へ寄せ、楊文の脱ぎ散らかしたものを畳み、灯りの芯を切った。
窓を、閉めなかった。
湯の匂いが、部屋に入ってくる。谷の下で、まだ人の声がしていた。盤を挟んでいた年寄りたちが、今度は酒を飲んでいるらしい。誰かが笑い、誰かがそれを叱り、また笑った。
沈曉は、窓の傍に座った。
この一日、彼は何もしていない。俵も担がず、車輪も直さず、牛も押さなかった。湯に入り、串を食い、饅頭を食い、酒を飲んだ。
十年、こういう一日を持ったことがない。
持ってはならないと思っていた。持てば、そこに輪郭ができる。輪郭ができれば、人が覚える。人が覚えれば、いつか、その人が死ぬ。
彼は、窓の外へ目をやった。
湯気が、谷から上がっている。
悪くない、と思った。
思ってしまってから、彼は自分の指を見た。指は、いつも通りである。何も変わっていない。変わっていないのに、その一日が体のどこかに残っていた。
残らないはずの体に、である。
人が病めば、治る者と治らない者がいる。あの男は、そう言った。あんたはどっちだ、とも聞いた。
答えは、持っていない。
彼の体は、病まない。傷も残らない。老いもしない。治るも治らないもなく、ただ、そこにある。
そのあるだけのものが、今日、湯に浸かって、饅頭を食って、悪くないと思った。
それが何を意味するのかを、彼は考えなかった。
考えれば、答えが出る。答えが出れば、それは望みの名前を持つ。

 翌朝、楊文は宿の井戸端で頭から水を被っていた。
二日酔いである。呻きながら、それでも湯へ入ると言って聞かなかった。朝の浴堂は、年寄りが三人いるきりで、静かだった。
湯から上がると、体が軽い。
沈曉は、通りへ出た。日が高くなりかけている。湯治場の朝は遅く、店はまだ半分しか開いていない。
彼は、目を細めた。
朝の光が、湯気を通して白い。
「……悪くない」
声に出ていた。
出したつもりが、なかった。
隣で、楊文が振り返った。布を首にかけたまま、この男は沈曉を見ている。
それから、笑った。
声を立てて笑った。腹の底から、遠慮のない笑い方である。井戸端の年寄りが振り返り、通りの犬が耳を立てた。
「なんだ、それは」
楊文は笑いながら言った。
「なんだ、それは。悪くない、だと」
「……何か」
「いや。いい。……いいんだ」
楊文は布で顔を拭い、拭いた顔がまだ笑っていた。
この旅で、沈曉が聞いたことのない笑い方だった。棠梨村の市で聞いた屈託のない笑いとも違う。あれは、面白いから笑う声である。今のは、そうではない。
何と呼べばいい笑い方なのかを、彼は知らなかった。
知らないまま、隣に立っていた。

 その夜、沈曉は眠らなかった。
眠らないのは、いつものことである。彼は窓辺に座り、谷の湯気を見ていた。楊文の鼾が、部屋を規則正しく満たしている。
夜半、蹄の音がした。
街道を、馬が駆けてくる。一頭である。速い。湯治場の宿の前を通り過ぎ、街道の宿駅で止まった。馬を替える音がして、人の声がして、それから、また蹄の音が遠ざかっていく。
北へ、向かっていた。
都の方角である。
沈曉は、窓の外を見ていた。この街道を走る早馬は、役所の急ぎの報せを運ぶ。臨江城で、報せを出す用事があったのだろう。
何の報せかは、分からない。
馬の音は、遠ざかり、聞こえなくなった。谷の湯気が、月のない空へ上っていく。
沈曉は、長いことそこに座っていた。

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