天理の石 — 第21話
第二十一話 追跡
湯治場を出て、三日が過ぎた。
街道を離れ、山沿いの道を歩いている。人の少ない道である。楊文が選んだ。追手が来ないことを、この男は喜ばなかった。喜ばずに、来ることを前提に歩き方を決めた。
夏が、深い。
蝉が鳴き、道は白く乾き、樹の陰だけが涼しい。二人は日の高いうちに歩き、暑い刻限に休み、日が落ちてからまた歩いた。夜目は沈曉の方が利く。先に立つのは、彼の役目になった。
言葉は、少なかった。
少ないが、途切れてはいない。水はあるか。あと二里で沢がある。足は。大丈夫です。そういう会話が、日に何度か行き交う。それだけで、二人は歩けた。
四日目の夕方だった。
沢で水を汲んでいた沈曉が、手を止めた。
水面に映る樹の影が、動いている。風のせいではない。彼は杓を置き、立ち上がった。立ち上がる音を聞いて、楊文が剣に手をかけた。
「何か来るのか」
「……はい」
「幾つだ」
「三つ」
沈曉の目は、沢の上流にあった。
匂いがする。生き物の匂いではない。乾いた紙と、焦げた朱と、それから、覚えのある甘い腐臭。丹房で薬を煮詰めすぎた時の匂いに、少し似ていた。
樹の間から、それが出てきた。
人の形をしている。着物を着て、草鞋を履き、腕が二本、脚が二本ある。そこまでは人である。
顔が、なかった。
顔にあたる場所に、皮膚がある。目も、鼻も、口もない。のっぺりとした面が、こちらを向いていた。向いているのに、見ていない。見る器官が、そこにはない。
二体目が、その後ろに出た。三体目が、沢の対岸に立った。
どれも同じ姿である。同じ背丈、同じ着物、同じ立ち方。三つとも、息をしていない。夕日が三つの影を長く伸ばした。影は、正しく落ちている。
「……なんだ、これは」
楊文の声が、掠れた。
「幽鬼か」
「違います」
沈曉は、一歩前へ出た。
「幽鬼は、生きていた者です。これは、生きていたことがない」
最初の一体が、動いた。
走らない。歩幅も変えない。それなのに、間合いだけが縮む。棠梨村の格子の内で、夜の男が見せたのと同じ動き方である。
楊文が前へ出た。
抜き打ちに横へ薙ぐ。手応えは、あった。腕が一本、肩から飛んだ。
血は、出ない。
落ちた腕は地面で紙のように縮れ、じきに灰になった。それを見た楊文の顔が歪んだ。
剣は、止まらない。返す刀で胴を薙ぐ。
斬った、と思った。
斬れていない。
胴は裂けたのに、体は止まらなかった。裂けた胴のまま、そのものは腕を振った。片腕である。振り下ろされた掌が、楊文の肩を掠め、衣が裂けた。
肉には、届かなかった。
楊文が半歩下がったからではない。半歩下がったところへ、掌が来ていた。楊文はもう半歩、下がった。
それも読まれていた。
三度目の腕が、真上から落ちてきた。
「――ぐっ」
楊文は剣を頭上へ立てた。刃で受ける。掌が刃に当たり、そこで止まった。
圧が、来る。膝が沈んだ。
人の力ではない。人の重さでもない。藁で出来た腕が、鉄の重さを持っている。
沈曉は、その時、走っていた。
三歩で間合いへ入る。彼は剣を抜かなかった。抜く代わりに、袖の中から白い符紙を出す。牢から返された、朱を塗っていない紙である。
彼は指を噛んだ。
噛んだ指で、走りながら紙に一筆を引く。血の一画である。書き終える前に、彼はもう腕を振り上げていた。
紙が、放たれた。
空中で紙が止まる。止まって、そのものの首の後ろへ吸いつくように貼りついた。
貼りついた瞬間、圧が消えた。
膝を沈めていた楊文が、たたらを踏んで前へ出る。目の前で、そのものが崩れた。糸を切られたように、着物と、藁と、幾枚もの紙が、地面へ落ちた。
藁の中から、朱で字を書いた紙が零れ出ている。
沈曉は、それを見た。
見た瞬間、彼は動いた。楊文の襟を掴んで、後ろへ引く。引いた場所を、二体目の腕が薙いだ。空気が鳴った。
「後ろです」
「言うのが早ぇ!」
「言う前に引きました」
二体目は、二体目だけが違った。
速い。歩幅が変わっている。走る動きを覚えている。斬られた仲間を見て、覚えたのだ、と沈曉は思った。
覚える。
人でないものが、覚える。
「楊文殿」
沈曉は、印を組みながら言った。
「胴を裂いてください。中の紙を、外へ」
「注文が多いんだよ、あんたは!」
楊文が跳んだ。
跳んで、上から斬り下ろす。剣は肩から胸へ入り、そこで止まった。
体重で、押し切る。裂けた。裂けた胴の中から、朱の紙が幾枚も宙へ散った。
その紙の間へ、沈曉の左手が入った。
掴む。三枚まとめて掴んで、引き抜く。
引き抜かれた瞬間、そのものは動かなくなった。動かないまま、まだ立っている。立ったまま、腕を持ち上げようとした。持ち上がらない。指の先が、震えるように動いた。
沈曉は、その面に掌を当てた。
当てて、静かに、押し倒した。
倒れたそれは、地面で藁になった。着物だけが、人の形を保っていた。
三体目は、動かなかった。
沢の対岸に立ったまま、二体が崩れるのを見ていた。見る器官がないのに、見ていた。
やがて、それは身を翻した。
樹の間へ、音もなく消える。楊文が追おうとした。沈曉が、袖を掴んで止めた。
「行かせてください」
「なんでだ! 一体くらい捕まえりゃ」
「三つ目は、見に来ただけです」
沈曉は、消えた方角を見送った。
「二体を斬るのに、私たちが何をしたか。それを持ち帰らせます」
「……持ち帰らせて、いいのか」
「よくは、ありません」
彼は、沢に膝をついた。
噛んだ指を、水で洗う。血が糸を引いて流れ、すぐに透明になった。
「よくありませんが、追えば、もう二十体いるかもしれません」
楊文は、剣を下ろした。
下ろして、剣を見た。刃が、少し欠けている。藁を斬ったはずの刃が、鉄でも斬ったように欠けていた。
沈曉は、紙を拾った。
朱で書かれた字を、夕日に透かして見る。
長いこと、そうしていた。
「読めるのか」
「読めます」
「なんて書いてある」
「……順を、間違えています」
沈曉は、紙を裏返した。
「これは、人を留めるための符です。人を、人でないものに留める。本来なら、生きた者にしか効かない」
彼は指で、字の一画をなぞった。
「これは、生きていない者に打っている。留めるべき顔が、初めからない。だから、顔がありません」
「なら、中身は」
「藁です」
「藁が、あんなに重いか」
沈曉は、答えなかった。
答えずに、地面に落ちた紙をもう一枚拾った。二枚目、三枚目。数えると、一体につき七枚である。七枚とも、書かれている字が違った。
「符は、器に力を与えません」
彼は、七枚を扇のように広げた。
「符は、力を借りてきて、器に留めます。……借りてきた先が、どこかという話です」
楊文の顔が、変わった。
「作るのに、幾人か要ります」
沈曉の声が、平らになった。
「一体につき、何人分か。……人でないものを作るのにも、人が要る」
楊文は、何も言わなかった。
そのまま、自分の斬った藁の山を見た。着物だけが人の形をしている。その袖から、乾いた藁が零れていた。
彼は、しゃがみ込んだ。
しゃがんで、藁を一掴み、掌に取った。何かを探すように、指の間で崩した。何も出てこなかった。
「……名前も、分からねえのか」
「分かりません」
「何人だったのかも」
「分かりません」
楊文は、藁を地面へ戻した。
戻し方が、丁寧だった。白澗観の墓に、副葬品を入れる時の手つきである。
沈曉は、紙を裏返し、もう一度、字の入りを見た。
筆の入りに、癖がある。
最初の一画を、この者は少し高いところから起こす。起こして、やや強く押さえ、それから引く。急がない。順に、あるべき場所へ収めていく。
白澗観の丹房の床に、同じ癖があった。
その癖を、彼は知っている。
彼自身の癖である。
その夜、二人は火を焚かなかった。
樹の下に座り、闇の中で乾いた肉を齧った。楊文は剣を膝に抱えている。眠るつもりはないらしかった。
「なあ」
「はい」
「玉雲観ってのは、何人いたんだ」
沈曉は、答えなかった。
「三十四人、あんたが殺したって、爺さんは言った。……それで、全部か」
沈曉は、闇を見ていた。
「観の全部か、って聞いてる」
「――」
「答えねえのか」
答えは、一つである。
三十四が、観の全部ではない。あの晩、あの山には、もう一人いた。麓へ薬を届けに行っていた者がいた。使いは持ち回りで、その晩はたまたま、その者の番だった。
行きたくないと言えば、誰かが代わったはずの、その程度の用である。
言わなかった。
そして、火の中を駆けてきた。
沈曉は、剣を上げた。上げて、振り下ろした。手が、そこで狂ったのか、狂わなかったのか、彼は十年、確かめていない。確かめる方法がない。彼はその後、一度も振り返らなかった。振り返らなかったのではなく、振り返れなかった。
あの子は死んだと、彼は思ってきた。
というより、そう決めていた。決めておかなければ、山を下りられなかった。
紙の、筆の入り。
彼の癖である。彼が四年かけて直そうとして、直しきれなかった癖である。それを見て育った者が、いま、その癖のまま符を書いている。
「……分かりません」
と、沈曉は言った。
楊文が、こちらを見た。闇の中である。顔は見えない。
しばらく、何も言わなかった。
それから、低く笑った。
「あんたはな」
声に、怒りはなかった。
「嘘は、つかねえんだ。俺は知ってる。あんたは嘘をつかねえ」
沈曉は、動かなかった。
「だから、分からねえって言った時は、分からねえんだと思ってた。……違うんだな」
楊文は、剣を抱え直した。
「あんたが分かりませんって言う時は、言いたくねえって意味だ。……今、それが分かった」
闇が、深い。
「いたんだな。生き残りが」
沈曉は、答えなかった。
答えないことが、答えだった。楊文は、それきり何も聞かなかった。
夜半、沈曉は目を開けたままでいた。
眠っていない。楊文も眠っていない。二人とも、それを知っていて、互いに眠ったふりもしなかった。
彼は、考えていた。
三年、円は縮んできた。縮ませてきた者は、円の中心に何がいるかを知らない。知らずに、そこに何かがいると信じて、外側から人を殺してきた。
なぜ、そこまでするのか。
殺すためなら、こんな回り道は要らない。彼を殺したいのなら、都から人相書きを配れば済む。実際、帝はそうしている。三年かけて円を縮めるやり方は、殺すための道ではなかった。
探すための道である。
見つけて、どうするのか。
答えを、彼は持っていない。ただ、一つだけ思い当たることがある。
あの晩、彼は何も言わなかった。
剣を振り下ろして、何も言わずに立ち去った。倒れた者が生きていたなら、その者は、十年、何も言われないままでいる。
言われないまま、待っている。
彼は、目を閉じた。閉じても、闇の色は変わらなかった。
翌日、道は山狭へ入った。
両側から岩壁が迫り、上を見上げれば、空が細く切り取られている。谷底の道は狭く、二人が並んで歩ける幅がない。楊文が先に立ち、沈曉が続いた。
水音がする。細い流れが道の脇を走っていた。
日が落ちるまでに、抜けきれなかった。
二人は谷の中で夜を迎えた。岩壁が熱を溜めていて、夜になっても暑い。楊文は岩に背を預けて座り、沈曉は立ったまま、上流の方を向いていた。
空に、星が出た。
細い空である。星も細く、川のように連なっている。
その時。
右手の岩壁の上に、灯りが点いた。
ひとつである。ぽつりと、青白い光が。
揺れていない。火なら揺れる。風があるからではない。火は、燃えるということそれ自体で揺れる。あれは、揺れなかった。
楊文が立ち上がった。
立ち上がった、その頭の上で。
左手の岩壁にも、灯りが点いた。
同じ、青白い光である。同じ高さに、同じ大きさで。
二つの灯りは、動かなかった。
揺れず、明るくもならず、ただ谷の両側から二人を見下ろしている。青白い。星の色に似ていた。星なら、あんな高さには出ない。
「符です」
と、沈曉が言った。
「岩に貼ってあります。二枚で、この谷を挟んでいる」
「挟んで、どうする」
「境を作ります。ここから先へは行けない、という境を」
楊文は、道の先を見た。谷は暗く、両側の岩壁が黒い。
「行けねえのか」
「行こうとすれば、分かります」
沈曉は、袖を探った。
紙は、九枚あった。牢の木箱から返されたものである。臨江を出てから、彼はこれを一枚も無駄にしていない。宿場で買い足そうとして、楊文に止められた。符の紙を買う旅人は、覚えられる。
朱もない。書くとすれば、血で書く。
彼は、九枚を数えた。
数える必要のない数だった。掴んだ厚みで分かる。それでも彼は、一枚ずつ指で送って、九まで数えた。数え終えて、一枚を指の間へ挟む。
残りを袖へ戻す時、その紙の縁が、少しだけ湿っていた。沢で洗った指の水である。乾かす暇はない。湿った紙は、力を通しにくい。
彼は、そのことを言わなかった。
「楊文殿」
「なんだ」
「今夜は、後ろへ下がらないでください」
楊文が、こちらを見た。
「下がると、私の符が届きません。あなたが下がった場所に、私は符を打てない」
「……前に出ろってことか」
「前に出てください。私が、後ろから塞ぎます」
楊文は、しばらく黙った。
それから、剣の柄を握り直した。
「あんた、それ、俺が死んだら困るって意味だな」
「……はい」
「初めて素直に言ったな、あんた」
楊文は、笑った。
最初の一体は、上から落ちてきた。
岩壁を伝って降りるのではない。落ちた。二丈はある高さから、真っ直ぐに。着地の音が、なかった。膝を折りもせず、そのまま立っている。
落ちた場所は、楊文の三歩前である。
三歩を、そのものは一歩で詰めた。
楊文の剣が、迎えた。
肩から胸へ、斜めに落とす。刃が入る手応えは、藁ではない。木を斬る手応えでもない。厚く湿った布を、幾重にも重ねて斬る感触だろう。
斬りながら、楊文は前へ踏み込んだ。
剣が抜けきる前に、体だけが敵の内側へ入る。斬った腕を引かない。引けば、次の敵に間に合わない。
背後で、沈曉が指を組んでいた。
組み終えた指の間から、白い紙が飛ぶ。噛んだ指の血で引いた一画が、飛びながら乾いた。乾ききらないうちに、紙は裂けた胴へ吸い込まれる。
貼りついた。
そのものが、崩れた。糸を切られたような崩れ方である。藁が宙に散り、その散った藁の中を、楊文は駆け抜けていた。
二体目が、正面から来ている。
楊文は止まらない。踏み込んだ足の運びを変えずに、二体目の懐へ滑り込む。相手の腕が、彼の背中の上を空振った。
剣が、下から上へ抜けた。
胴が裂け、中身が宙へ散る。散った紙の間へ、沈曉の符が入った。
二体目が、崩れた。
崩れた藁の匂いが、湿っている。夜露である。谷の底は、日が落ちると急に湿る。
楊文は、振り返らなかった。
沈曉も、見ていなかった。
見なくても、分かる。この男は、斬った後に必ず半歩前へ出る。出た分だけ、剣の抜けた場所に空隙ができる。空隙の高さは胸の高さ、角度は右斜め上。三度見れば覚えられる。彼は、白澗観の境内で一度、棠梨村の格子の前で一度、沢で一度、それを見ている。
裂けば符が来ることを、この男の方も知っている。だから深く裂き、斬った体が流れる。流れた体を、崩れる敵の重さが引き止める――はずのところで、その重さが消える。
後ろの男が、仕事を終えたからである。
言葉を、交わしていない。
交わす必要が、なかった。この一月と少し、二人は同じ火の傍で眠り、同じ道を歩き、同じものを食った。その間に体が覚えたものが、いま、そのまま出ている。
七枚。
彼は数を、頭の中で減らした。
三体目と四体目は、同時に来た。
左右から挟む形である。谷底の道は狭く、下がる場所がない。下がるなと、この男に言われたばかりでもある。
楊文は、左を選んだ。
右の一体の足の運びが、わずかに遅い。
そちらを後回しにしたのだろう。
左へ踏み込み、斬り上げる。
斬った瞬間、右の掌が来た。
避けない。避ければ、間合いが崩れる。楊文は肩を入れた。
掌が肩に当たった。骨が鳴る。鳴ったが、折れない。折れる代わりに、体が半間、宙を飛んだ。
飛びながら、彼は剣を離さなかった。
背中から落ちる。落ちる先に、何かがある。
沈曉が、立っていた。
彼は楊文の背中を、左手で受けた。受けた腕が沈む。沈んだところで踏み止まり、押し戻す。押し戻しながら、右手の符を投げた。
符は、右の一体の面へ貼りついた。
崩れる。藁が、二人の頭上へ降った。
「――すまん」
「いえ」
「あんた、そこにいるって、なんで分かった」
「あなたが、そこへ飛ぶからです」
楊文は、剣を構え直した。構え直す手が、遅い。息が上がっている。掌を二度、握り直した。
五枚。
五体目からが、おかしくなった。
沈曉が、前へ出た。
庇うためではない。楊文の右に立ち、敵の進路を塞ぐ位置を取った。道は狭い。そこに人が立てば、避けるか、押しのけるか、どちらかを選ばねばならない。
そのものは、どちらも選ばなかった。
沈曉の脇を、体を斜めにして通り抜けた。触れさえしない。触れずに、楊文へ向かった。
沈曉は、追いすがった。
背後から袖を掴む。掴まれたそれは、掴まれたまま歩いた。振り払いもせず、立ち止まりもせず、袖を引かれる力ごと引きずって、前へ進んだ。
沈曉は、手を離した。
立ったまま、自分の掌を見る。何も起きていない。彼はそこにいて、敵は彼を通り抜けた。まるで、道の途中の樹のようだった。
六体目も、同じである。沈曉の前を通り、彼を見もせずに、楊文へ向かう。七体目も、そうした。
沈曉は、剣を抜いた。
抜きざま、指の間の紙を刃に添わせる。裂いた胴の、字の芯へ、刃ごと紙を通した。斬るだけでは、これは止まらない。止めるには、中の字を断つしかない。どこに何が納まっているかを、彼は知っていた。
斬られたものが崩れる。崩れながら、その面は最後まで、楊文の方を向いていた。斬られたことに、それは気づいてもいないようだった。
これを操っている者は、こう命じたのである。
あの若い方を、殺せ。
もう一人には、触れるな。
彼は、理解した。理解して、そのことを口に出さなかった。
楊文は、四体目を斬っていた。
斬って、五体目を受け、六体目に肩を掴まれた。掴まれた腕を捻り、剣の柄で顎を打つ。顎はない。打った柄が、面の皮膚をへこませた。へこんだまま、戻らない。
その顔が、楊文を見上げた。
見る器官がないのに、見上げた。
「……なんだ、こいつら」
楊文が、初めてそれを言った。
「俺ばっかりだ」
沈曉は、答えない。
「あんたの方が強いだろうが。なんで、あんたに行かねえ」
沈曉は、符を一枚、指の間に挟んだ。
四枚。
「なんでだ」
「……先に、動く方から狙うのでしょう」
嘘ではない。全部でもない。
楊文は、それを聞いて、何か言いかけて、やめた。やめて、剣を握り直した。この男は、いま、嘘と沈黙の違いを知っている。知った上で、聞かないことを選んだ。
選ばれたことに、沈曉は気づいていた。
残りは、三体である。
三体が、横一列に並んだ。並んで、同時に来た。
道は狭い。三体が並べる幅ではない。並べない幅を、そのものたちは並んで来た。岩壁に体を擦りつけ、片方が半身になり、それでも横列を崩さない。
楊文は、前へ出た。
前へ出ながら、初めて、後ろへ声を投げた。
「右!」
沈曉の符が、右へ飛んだ。
「上!」
次の符が、上へ。岩壁を蹴って跳んだ一体の、腹へ吸い込まれる。
二枚。
崩れる二体の間を、楊文が抜ける。着物と藁が視界を塞ぎ、その向こうから、最後の一体が来た。
楊文は、剣を上段に構えた。
息が、続かない。それでも彼は構えた。構えて、振り下ろした。
真っ二つになった。
なったが、止まらなかった。
半分になった体の、下半分が動いた。脚だけが、地を蹴った。蹴って、楊文の膝を掬った。
楊文が、倒れた。
倒れた体の上へ、上半分が落ちてくる。腕が、両方とも、楊文の首へ伸びた。
沈曉は、走っていた。
袖に残る紙は、二枚。うち一枚は、沢の水を吸ったあの紙である。力を通さない紙は、ないのと同じだった。
使える符は、一枚。
指の間に挟んだまま、走った。走りながら、間に合わないことを知った。符は、投げてから貼りつくまでに一拍かかる。湿った紙なら、一拍半。その間に、あの腕は喉へ届く。
彼は、符を投げなかった。
投げずに、体を入れた。
楊文と、落ちてくる上半身の間へ、背中から滑り込む。滑り込みながら、両腕で楊文の頭を抱え込んだ。
衝撃が、来た。
腕が、彼の背を打った。骨を打つ音がした。打った腕の指が、彼の肩を掴む。掴んで、抉った。
沈曉は、動かなかった。
動かずに、抱え込んだ腕の中で、指を組んだ。組んだ指の間に、最後の符がある。
彼は、それを敵の面へ押し当てた。投げるのではない。押し当てた。
押し当てた瞬間、紙が鳴った。
貼りつくよりも先に、紙の方が裂ける。指の間で、真っ二つになった。
それでも、術は通った。
肩を掴んでいた腕から、力が抜けていく。抜けきる前に、その指は一度、深く食い込んだ。藁が降り、着物が落ち、面の皮膚が乾いた葉のように縮れて散った。
谷が、静かになった。
水音だけが、残った。
沈曉は、動かない。抱え込んだ腕の中で、楊文が身じろぎした。
「……重い」
「はい」
「どけよ」
「はい」
沈曉は腕を解き、起き上がろうとして片手をついた。
掌が滑る。血である。彼の血だった。肩の傷は深くない。深くはないが、血は出る。
彼は、自分の指を見た。
二本の指の間に、紙が挟まっている。裂けた紙である。半分になった符が、彼の指の間で、まだ震えていた。その紙を、彼は長いこと見ていた。
九枚あった。乾いた紙は、いま、指の間のこの二片きりである。数えるものが、もうない。
谷の両側で、青白い灯りが消えた。
消える時、音はしなかった。境が解けたのである。行こうと思えば、行ける。誰も止めない。
楊文が、身を起こした。
起こして、沈曉の肩を見た。血が、袖を伝って落ちている。
「……あんた」
「かすり傷です」
「そういうことを言ってんじゃねえ」
楊文の声が、震えていた。
「なんで、体を入れた」
沈曉は、答えなかった。
答える言葉を、持っていなかった。あの一拍で、彼は考えていない。
それをどう説明すればいいのか、彼は知らない。
楊文は、彼を見ていた。
それから、自分の剣を拾った。刃が、根元まで欠けている。もう使えない剣だった。
彼は、それを鞘へ収めた。
収める手が、震えていた。