天理の石 — 第25話

第二十五話 灯り

2026.08.04 4,309字 ・ 約8分
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 行商の話を聞いた夜、沈曉は眠らなかった。
眠れなかったのではない。眠らずに、竈の前に座っていた。楊文が寝返りを打ち、鼾をかき、明け方に一度目を覚ました時も、同じ場所に同じ姿勢で座っていた。
考えていたのは、灯りのことである。
焼け跡に、灯りが点る。ひと月、夜ごとに。点いては、消える。
術ではない。
術者が焼け跡で何かを企てるなら、灯りは点けない。人目を引く火を焚く者は、術を知らない者である。
あるいは、知っていて、なお点ける理由がある者だった。
実験でも、ない。
実験には、続きが要る。続けるなら、灯りは夜通し点る。点いては消える灯りは、仕事の灯りではない。
では、何か。
沈曉は、竈の灰を見ていた。
答えは、初めから持っている。持っていて、認めるまでにひと晩かかった。
あれは、合図である。
誰に宛てた合図かは、考えるまでもない。玉雲観の焼け跡で灯りを点ける意味を持つ者は、この世に一人しかいない。そして、その灯りの場所が丹房の跡だと聞き分けられる者も、一人しかいない。点ける側と、読む側。手紙は、二人の間にしか成立しない。
呼ばれている。
十年、誰にも呼ばれなかった男が、呼ばれていた。
声ではない。文でもない。あの男は、書き付けを残さない。
それを、彼から学んだのだろう。言葉を使わない男が、言葉を使わずに、宛先の分かる手紙を書いた。
夜ごと、火を点しては、消して。
待っている。
沈曉は、灰に目を戻した。見ながら、自分の胸のどこかで、扉がもう一枚、静かに開くのを聞いた。

 翌朝、彼は集落へ下りた。
紙屋はない。雑貨屋の棚に、粗い紙が数帖あった。彼はそれを手に取り、指で厚みを確かめ、透かして見た。三帖のうち、いちばん目の詰まったものを抜いた。
朱も、あった。安物である。彼はそれを買い、砥石も買った。棚の隅の小さな木箱も、ひとつ求めた。摘み溜めた薬草と膏薬を仕舞う、薬箱の代わりである。
「まけようか」
と、店の婆が言った。
「いえ。結構です」
「あんた、そういや前もそう言ったね」
沈曉は、言い値で払った。
その銭は、楊文の財布から出ている。今朝、要る分だけ持っていけと持たされたものだった。
紙と朱を包んで店を出ると、鍛冶屋の前に楊文が立っていた。
中古の剣が、束にして立てかけてある。研ぎ直したもの、直しきれなかったもの、柄の巻きが解けたもの。楊文はそれを一本ずつ抜き、振り、戻していた。
三本目だけ、少し長く振った。
「これは」
「安いよ。安いなりだ」
鍛冶屋の親父が、鞴の手を止めもせずに言った。
「刃は使える。ただし、押しちゃいけねえ。引いて斬れ」
楊文は、それを鞘に納めた。
「なまくらだな」
「なまくらだ」
「……ねえよりましだ」
沈曉が、その言葉に顔を上げた。
雨の廃屋で、この男が最後に言った言葉である。次のは、いいやつを買う、とも言った。
その男の顔に、覚えている様子はない。
覚えていなくて、いいのだった。

 小屋へ戻る坂道で、二人は並んで歩いた。
沈曉の息が、途中で上がる。楊文が歩を緩め、緩めたことを、口に出さなかった。
小屋の前で、荷を下ろした。
沈曉は、紙を広げて風を通し、朱を溶く支度をした。楊文は、砥石で剣を研ぎ始めた。石を濡らし、刃を当て、規則正しい音を立てる。
その音を、沈曉は聞いていた。
薬研の音に、少し似ていた。
「あんた」
楊文が、手を止めずに言った。
「あの灯りは、なんだ」
沈曉は、朱を溶く手を止めた。
しばらく、黙っていた。楊文は研ぎ続けている。答えを待つ顔ではない。答えが出るまで研いでいるつもりらしかった。
「合図です」
「誰の」
「……焼け跡で、灯りを点ける者の」
「誰宛てだ」
沈曉は、答えなかった。
石の音が、止まった。
楊文は剣を膝に置き、こちらを見ている。
その目に、驚きはなかった。この男は、もう答えを持っている。持っていて、こちらの口から聞こうとしている。
「あんた宛てだな」
「……はい」
「呼んでるのか」
「はい」
「じゃあ、あの灯りを点けてるのは」
沈曉は、朱の器を置いた。
置いてから、初めてその言葉を口にする。
「玉雲観で、生き残った者です」
風が、林を渡った。
楊文は、動かない。剣の腹を掌でひと撫でし、それから、また研ぎ始めた。石の音が戻ってくる。
彼は、何も聞かなかった。
誰なのか。何歳か。あんたとどういう間柄か。どれも聞かずに、研いでいる。式に襲われた夜、この男は一度だけ、生き残りの有無を聞いた。答えないことが答えだと知って、それきり聞いていない。
今度も、聞かない。
そうすることで、この男は、こちらの背中を押している。

 その日の夕方、沈曉は符を書いた。
三十枚である。書き上げる頃には、指が強張っていた。強張りを揉みほぐしながら、彼は符を数える。三十。束ね、油紙に包んだ。
夜、荷をまとめた。薬箱。符。朱。剣。それだけである。
まとめ終えて、彼は竈の前に座った。
楊文は、向かいで寝ている。腹の傷は塞がった。歩けるようになった。走れば、まだ引き攣れる。剣を振れば、痛むはずだった。
この男を、連れて行くことはできない。
合図を送ってきた者は、この男を殺そうとした。あの谷で、式はこの男だけを狙った。理由を、沈曉は知っている。知っていて、この男には言っていない。
置いていく。
臨江の宿で、彼は同じことをした。路銀を机に置いて、出た。あの時、この男は宿を飛び出し、犬に干し肉をやり、塀を越えて、牢へ来た。
今度は、来られないところへ行く。
沈曉は、荷の紐を結んだ。結び終えて、その手を、長く見た。
言うべきか。
言えば、この男は来る。来れば、死ぬかもしれない。言わなければ、この男は独りで残される。残されて、また塀を越えるかもしれない。
どちらも、選べなかった。
どちらかを選ぶことが、選ぶという行いであることを、彼は近頃、覚えた。惜しくなること。恐ろしくなること。それらは、選択を難しくする。難しくなったことを、彼は悪いこととは思わなかった。
彼は、口を開いた。
寝ている男に向かって、ではない。誰にともなく、そう言った。
「玉雲観へ、行きます」
声は、小さかった。
小さいが、確かに言った。誰かに行き先を告げたことは、この十年、一度もない。十年前のあの夜すら、告げていない。玉雲観を出た彼には、行き先というものがなかったからである。
今度は、ある。
言い終えて、彼は火の始末をした。

 翌朝、まだ暗いうちに、沈曉は戸を開けた。
その先に、楊文が立っていた。
剣を提げている。研ぎ上げたばかりの、なまくらである。荷は、もう背負っていた。
沈曉は、動かなかった。
「……いつから」
「昨日の晩からだ」
楊文は、山の方を見ていた。
「あんたの荷造りは、静かすぎるんだ。物を置く音がしねえ。……臨江でも、そうだったんだろうな。俺が見てりゃ、気づけた」
彼は、それだけ言った。
言い訳も、詰問も、しなかった。
「行くなら、二人だ」
沈曉は、その言葉を受けた。
受けて、返す言葉を探した。危険です、と言うことができた。あなたが狙われています、と言うこともできた。私の罪です、あなたは関わりない、と言うこともできた。
どれも、この男には効かない。
それを、彼はもう知っている。
沈曉は、頷いた。
楊文が先に歩き出し、三歩で振り返った。
「先に言っとくが」
「はい」
「俺は、あんたを許してねえ」
「はい」
「けど、置いてかれるのは、もっと腹が立つ」
それきり、この男は前を向いた。

 街道へ出た。
夏の終わりの朝である。稲がもう首を垂れ始めていた。空が高い。北へ向かう道は、乾いて白かった。
旅程は、十日あまりになる。
二人は、歩いた。宿場に泊まり、渡しを越え、日に日に北へ上っていく。道は、いつか臨江へ向かった道と、途中まで同じである。同じ道を、今度は追われずに歩いていた。

 思い出は、向こうから来た。
呼んだ覚えのないものが、道端の何でもないものに乗って、届いた。
三日目の夕方、山寺の軒で鈴が鳴った。
風鐸である。沈曉は、その音に足を緩めた。玉雲観の風鐸は、東の軒の一つだけ、音が濁っていた。鋳の悪い鐸で、直そうという話が幾度も出て、そのたびに流れた。あの音で目を覚ます者が、幾人かいたからである。濁った音を、観はそのままにした。
彼も、そのままにした。
五日目の朝、宿場の子供が、往来で石を数えていた。
石段を思い出した。
三百と六段。上の段ほど低く刻んであることを、彼はある子供に話したことがある。数え直しに三度付き合い、三度目に、三百と六、合ってますか、と聞かれた。
合っています、と彼は答えた。
それだけだった。よく数えました、と言うべきだったのかもしれない。偉い、と言うべきだったのかもしれない。どちらの言葉も、あの時、彼の中から出てこなかった。
褒め方を、彼は知らなかった。
合っているものを合っていると言うことしか、できなかった。
七日目、薬屋の店先で、棚の並びが目に入った。
玉雲観の薬房の棚を、並べたのは彼である。使う順、乾く順、毒の遠近。誰かが善意で並べ替えるたび、彼は黙って元へ戻した。戻していると、いつからか、並びが崩れなくなった。
薬房には、いつも視線があった。
量りを使わずに薬を量っていると、戸の陰から、それが見ていた。振り返ると、消えた。逃げていく足音が、軽かった。
彼は、知らないふりをした。
知らないふりは、彼のいちばん得意なことだった。見られて困る仕事ではない。呼んで教えてやればよかったのかもしれない。呼び方も、教え方も、彼はうまく知らなかった。知らないまま、量り続けた。戸の陰の視線は、何年も、そこにあった。
思い出は、そこで途切れる。
その先を辿れば夜に着く前に、彼はいつも思い出すことをやめた。やめられるようになるまでに、十年かかった。
楊文は、隣を歩いている。
思い出の間じゅう、この男は何も聞かなかった。ただ一度だけ、渡しを待つ川岸で、聞いた。
「どんなとこなんだ。玉雲観ってのは」
沈曉は、川面を見た。
「……静かな、山でした」
「それだけか」
「風鐸の、多い観でした。朝は、鐘より先に鳥が鳴きます。冬は、石段が凍ります」
言葉が、思ったより続いた。
そのことに、彼自身が少し驚いて、口を閉じた。楊文は、ふうん、とだけ言った。それ以上は聞かず、それきり川の方を向いていた。

 十日目の午後、峠に出た。
峠から北を見ると、山並みが幾重にも重なっている。近い山は緑で、遠い山は青く、いちばん遠い山は、午後の光の中で灰色に霞んでいた。
沈曉は、足を止めた。
そのまま、灰色の稜線を見る。
なだらかに上り、途中で一度沈み、それから鋭く立ち上がって、また落ちる。落ちた先が、また上る。彼はその形を目で辿った。辿るまでもなかった。
百年、彼は毎朝、その稜線の下で目を覚ましてきた。
石段は、三百と六段ある。

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