天理の石 — 第33話
第三十三話 報告
石段を下りきると、老人はそこに立っていた。
供はない。馬は、少し離れた木に繋いである。裴松は、二人が近づくのを待っている。待ち方に、構えがなかった。
沈曉は、その前で足を止めた。
言うべきことを、彼は探した。
「終わりました」
裴松は、頷いた。
「そうか」
それから、山の上を見た。石段の先に、焼け跡がある。焼け跡の隅に、土を盛ったばかりの場所がある。
老人は、それを長く見た。
見る目に、色がなかった。
「……葬ってくれたか」
「はい」
「深さは」
「獣の、届かない深さに」
裴松は、また頷く。
それだけ聞くと、彼は石段に足をかけた。
「一度、上る。……骸を、引き取る」
土を、掘り返した。
楊文が手伝おうとして、裴松が首を振る。老人は、独りで土を掻いた。右足を庇う姿勢で膝をつき、指で土を掻く。鋤を使えばよいものを、使わなかった。
骸が、出た。
裴松は、それを両腕で抱え上げた。抱え方に、迷いがない。
沈曉の目が、その手つきを追った。十年前、この老人は、焼け跡でこれと同じことをしている。半死の少年を、こう抱え上げた。
その腕の形が、十年経っても、少しも変わっていない。
骸は、軽かった。軽いことを、老人の腕の沈み方が示している。
楊文は、少し離れて立っていた。
斬った男の骸を、育ての親が抱いている。その光景を、彼は逸らさずに見ていた。剣を握った指が、一度だけ動いた。動いて、また止まった。
裴松は、それを山門の外まで運び、木陰に下ろした。下ろしてから、懐に手を入れた。
出てきたのは、木剣である。
子供の背丈に合わせた、短い木剣だった。柄の握りが磨り減って、木目が出ている。刃にあたる部分が、片側だけ黒ずんでいた。
沈曉は、それを見た。
「……その剣は」
「儂の屋敷の、櫃の奥にあった」
裴松は、木剣を骸の胸の上に置いた。
「あれが、都を出た朝、部屋を検めた。何一つ持って出ておらん。着物も、銭も、書き付けも。……櫃の中に、それだけあった」
老人は、木剣の位置を直した。
「十年、埃を被っておらんかった」
沈曉は、答えられなかった。
その木剣を、彼は知っている。玉雲観の稽古場で、子供らに持たせていたものである。誰の物と決まってはいない。使い終われば、棚へ戻す。戻さずに持ち帰る子が、時々いた。
持ち帰った子が誰だったのかを、彼は覚えていない。
そのことを、老人は問わなかった。問われなかったことを、沈曉は、罰のように受け取った。
裴松は、木陰に腰を下ろした。骸の傍らである。
老人は、しばらく黙っている。やがて、口を開いた。
「儂は、帝に報告する」
声は、平らだった。
「陳霖は死んだ、と書く。焼け跡で骸を検めた。丹は、なかった。……そう書く」
沈曉は、動かなかった。
「嘘は、書かん」
裴松は、木陰の外へ目をやった。
「陳霖という男は、十年前に死んだ。儂は、そう思うておる。……あの男は、老いなんだ。傷も残らなんだ。飯を旨いとも言わなんだ。今、そこに立っておるのは、朝が寒いと言い、階を上れば息を切らす男だ」
老人は、こちらを見なかった。
「陳霖ではない。別の男だ」
「――」
「丹も、なかろう」
老人の目が、初めてこちらを向いた。
沈曉は、その目を見返した。返す言葉を、彼は持っていたが、口には出さなかった。出さずに、頷く。
裴松は、それ以上聞かなかった。
「爺さん」
楊文が、前へ出た。
懐から、何かを出す。
鉄の鍵である。臨江の牢の、卓の上に置かれていた鍵だった。
楊文は、それを差し出した。
「借りたもんは、返す」
裴松は、鍵を見た。長いこと、見ていた。
それから手を出し、受け取った。
鍵を、袖の中へ入れる。
何も、言わなかった。
礼も、言い訳も、詰問もない。ただ、袖へ入れて、それきりである。
楊文は、少し待った。待って、何も来ないので、鼻を鳴らした。
「……ふん」
それだけ言って、後ろへ下がった。
沈曉は、その一部始終に立ち会った。
あの鍵は、誰が置いたのかを一度も語られなかった。語られないまま、掴まれ、握られ、川へ捨てられかけ、懐で半年を過ごした。今、それは何も言わずに元の袖へ戻っていく。
置いた者は、置いたと言わない。
返す者は、誰から借りたとも言わない。
日が、傾き始めた。
裴松が、立ち上がる。骸を抱え上げ、馬の背へ乗せた。乗せる手つきは、やはり丁寧である。
乗せ終えて、老人はこちらを向いた。
「陳霖」
「はい」
「昔、儂はお前を、桃の花のような人だと言うた」
沈曉は、その言葉を覚えている。
四十年ほど前の春である。都の外れの桃林で、若い将軍だった男が、そんなことを言った。花の盛りで、風が吹くたび、薄紅のひとひらが酒杯に落ちた。その花びらを、若い将軍は指で掬っては、惜しげもなく飲み干していた。言われた意味を、彼はよく分からなかった。分からないまま、はあ、と答えたきりだった。
「あの時は、褒めておった」
裴松は、目を細めた。
「散らんからだ。お前の桃は、いつまでも咲いておった。咲いたまま、動かなんだ。……儂は、それを美しいと思うた」
老人は、馬の首を撫でた。
「四十年、儂は歳を取った。妻も、兄も、戦友も、皆、先に逝った。……お前だけが、あの春の顔のままでおった」
撫でる手が、止まった。
「牢で会うた時、恐ろしいと言うたのを、覚えておるか」
「……はい」
「あの時、儂は分かったのだ。散らん花は、花ではない。……花は、散るからこそ、花なのだ」
風が、木陰を抜けた。
裴松は、沈曉の顔を見ていた。こめかみの白い筋を。石段を下りて、まだ整わない息を。
顔は、四十年前と変わらない。
その顔の上で、白い一筋だけが、老人の目を引き留めていた。
その見方を、沈曉は知っている。楊文が見るのと、同じ場所である。同じ場所を、この人は違う読み方で見る。老いを見る目ではない。戻りかけたものを見る目である。
彼の髪が本来どの色であるかを知る者は、この世に、この老人しか残っていなかった。
「今のお前を見て、儂は、ほっとしておる」
声が、少しだけ、揺れた。
「情けないことにな。友の老いを見て、ほっとしておる」
沈曉は、何も言えなかった。
言えないまま、その老いた顔を見ていた。四十年、この男は自分を敬ってきたという。憎んだことがない、とも言った。
「望曉」
裴松が、言った。
言いかけて、口を閉じた。それは、あの子が名乗った号である。もう、誰のものでもない。
老人は、言い直した。
「いや。沈曉」
初めて、その名で呼ばれた。
偽名である。彼が自分で選び、自分の夜明けを沈めた名だった。この十年、その名を呼んだ者は幾人もいる。誰も、その意味を知らずに呼んだ。
知っている者が、いま、それを呼んだ。
「お前はもう、老いてゆけ」
沈曉は、深く頭を下げた。
下げた頭を、しばらく上げない。上げた時、裴松はもう鞍に上がっていた。右足を庇う上がり方である。鞍の上で、老人は姿勢を正した。
馬が、歩き出す。
骸を乗せた馬が、南へ。都の方角へ、ゆっくりと下っていく。
裴松は、振り返らなかった。
その背中を、沈曉は見送った。見送りながら、この男とはもう会わないだろうと思ったことを、口には出さなかった。
馬の姿が、街道の彎曲の向こうへ消えた。
蹄の音が絶えた後も、沈曉は長く、その方角を見ていた。骸と、木剣と、老いた友を乗せて、馬は都へ下っていく。届けられる報せの一行で、十年が終わる。終わらせたのは、あの男の筆だった。
二人は、山道の分かれ目に立っていた。
南へ行けば、都である。北へ行けば、山を越えて、さらに北の山並みへ続く。
楊文が、北の方を見た。
「……白澗観は、あっちだ」
「はい」
「半年、誰も入ってねえ」
楊文は、それだけ言った。
行こう、とも、寄りたい、とも言わない。言わずに、荷を担ぎ直した。
沈曉は、その背中を見ていた。
この男が何を考えているのかを、彼は少しだけ分かるようになっている。分かっていて、聞かなかった。聞かずに、隣へ並ぶ。
二人は、北へ歩き出した。
夏の終わりの日が、二人の影を、街道の上へ長く伸ばしている。