天理の石 — 第34話
第三十四話 罪
三日の道のりである。
玉雲観から白澗観まで、街道を使わずに山伝いに歩けば、そのくらいかかる。裴松と別れた日の午後から、二人は北へ向かって歩き続けていた。
昼の道で、楊文はほとんど口を利かなかった。
喋る質の男が、喋らない。山を下りてからのこの男は、ずっとそうである。沈曉も、何も言わなかった。斬った男の重さを、この男はこの男のやり方で、歩きながら量っているのだろう。昼は、二人分の足音と鳥の声だけで過ぎていった。
言葉が戻るのは、日が落ちて、火が入ってからだった。
初日の野営は、渓流のほとりである。
日が沈むと、谷は急に冷える。水音が絶えず、火の傍にいても、その音だけは耳に届いた。沈曉は薪をくべ、楊文は魚を焼いている。串に刺した山女魚が脂を弾かせ、皮を焦がしていく。
「あんた」
楊文が、串を火から少し離しながら言った。
「聞いていいか」
「はい」
「ずっと、気になってたんだが」
楊文は、魚をひっくり返した。
「不老不死ってのは、どうやったらなれるんだ」
沈曉は、薪を折る手を止めた。
「あんた、丹は使ってねえんだろう。……ここ半年で、俺はそのくらい分かった。あんたが本気で嫌ってるのは、丹そのものだ。自分の身に使ったこともねえ」
その通りだった。
「修行で、なりました」
短く、それだけ答えた。
楊文はしばらく黙っていた。魚から目を離さず、皮の焦げ具合を確かめている。それから、串を地面に突き立てた。
「修行、で」
「はい」
「どんな修行だ」
単純な問いである。単純な問いほど、答えるのに時間がかかる。十年、彼はこの手の問いに答えずに生きてきた。答えないことが、彼の作法だった。
今夜は、少し違う気がした。
三十四人のことは、もう語っている。焼け跡で膝を折って、十年ぶんの言葉を渡した。出し惜しむものは、それほど多くない。そう思っている自分に、彼は少し驚いていた。
「長い、話になります」
「構わねえ。道のりは、あと二日ある」
楊文が、焼けた魚を一本、差し出した。受け取った指に、まだ熱の残る串の感触が伝わる。
彼は、自分の指を見た。
節が細く、皮膚が薄い。骨の形が皮の下に透けている指である。剣を握れば、力の入る場所と入らない場所がはっきり分かるほど、頼りない造りをしていた。
この体は、生まれつき、こういう体だった。
「私の生まれは、貧しい村でした」
沈曉は、口を開いた。
「北の、山間の村です。田は少なく、痩せていて、作物は年によって、まるで実りませんでした。……その年も、実りませんでした」
火が、爆ぜた。
「私が、七つの年です」
その年、彼の家には四人の子供がいた。上に兄が二人、下に妹が一人。父は日雇いの木こりで、母は機を織って銭を得ていた。それでも、口が四つも五つもある家では、食い扶持の足りない年が必ず来る。
冬の初め、母は彼の手を引いて山を登った。麓から二刻ほど歩いた先に、小さな道観がある。
母は、何も言わなかった。
言わずに、山門の前で彼の襟元を直した。直す必要のない襟だった。それでも母の指は、二度、三度と同じ場所を撫でつけた。それから、彼の手を、山門の内側にいた道士の手へ渡した。
渡す手が、少しだけ震えていた。
「陳霖、と申します」
母が初めて口を開いたのは、そこでだった。
「この子の名です。……どうか、よろしくお願いいたします」
深く、頭を下げる。
下げた頭を、彼は長く見ていた。
丸くなった背が、山を下りていくのを見ていた。
振り返らなかった。
振り返れば、連れて帰ってしまいそうだったのだろう。彼がそう思うようになったのは、ずっと後のことである。
「泣かなかったのか」
楊文が、火の向こうから尋ねた。
「泣きませんでした。……泣くという行いを、その時の私は、まだよく知りませんでした。悲しいということが、どういう形をしているのか、七つの子供には分からなかったのです」
山門の内は、石段だった。
三百と六段である。
「七つの子供が、あれを独りで上ったのか」
「独りでは、ありません。手を引かれていました」
「手を引かれて、な」
楊文の声に、何かが混じった。憐憫でも同情でもない、もっと静かな何かだった。
百段ほど上ったところで、息が上がった。もともと、そういう体である。手を引く若い道士が、歩を緩めてくれた。
「途中で、一度、休みました」
沈曉は、続けた。
「振り返ると、麓の村が小さく見えました。……煙が、幾筋か上がっていました。夕餉の支度をする家の、竈の煙です。あの中の一筋が、私の家のものだったはずです」
冬の夕暮れの、藍色に沈み始めた谷である。煙はまっすぐに昇り、途中で夕風に折れて、山の陰へ流れていった。
「見ていて何を思ったのかは、もう覚えていません。ただ、その景色だけは覚えています」
「上りきった時は」
「振り返りませんでした」
「なんでだ」
「……上を、見ていたからです」
彼は、そこで初めて微かに笑った。
「境内の向こうに、大きな堂が見えました。屋根の反りが、美しかった。……その屋根を見上げて、私は道士の袖を引いたのです。あれは何ですか、と」
楊文の口元が緩んだ。
「聞いたのか。初日から」
「はい」
「あんたらしくねえな」
「今とは、違う子供でした」
その夜、彼は雑用係の房に入れられた。
同じ房に五人。皆、彼より一つか二つ年上だった。彼はいちばん体が弱く、いちばん年下である。
最初の幾月かは、水汲みと、竈の火の番と、庭掃きで過ぎた。
「道理で、な」
楊文が、焚き火へ目をやった。
「あんた、火の世話が妙にうまい。薪の足し方に迷いがねえ。火が細る半歩前に、手が動いてる。……最初の仕事だったわけだ」
沈曉は、火を見た。見て、僅かに頷いた。
百年以上前に覚えた手つきが、この指にまだ残っている。そのことを、彼はこれまで考えたこともなかった。
「水汲みは、いちばん重い仕事でした」
彼は、続けた。
山の冬は、麓のそれより厳しい。夜明け前、井戸の水面に薄氷が張る。桶に水を汲み、天秤棒で担いで、境内の隅々まで運ぶ。肩に食い込む棒の痛みより、指先の凍える痛みの方が、いつも先に来た。
最初の数日、彼は幾度も転んだ。水をこぼしては、また汲みに戻る。手のひらの皮が破れ、天秤棒の跡が肩に赤く残った。
「兄弟子たちには、笑われました。亀の子でも、もっと速く歩くと」
「あんた、それで腐ったのか」
「いいえ」
沈曉は、首を振った。
「言い返しました。亀の子は、水を運びません、と」
楊文が、小さく噴き出した。
「それで」
「余計に、笑われました」
声に、ほんの微かな温度が混じった。
「悪い笑いではありませんでした。……その日から、房の兄弟子たちに、亀、と呼ばれるようになりました」
「けど、あんた」
楊文が、口を挟んだ。
「棠梨村じゃ、毎朝、誰より早く起きて水を汲んでたろう。天秤棒で、二往復。……嫌いなんじゃなかったのか」
沈曉は、少し間を置いた。
「……いつからか、嫌いでは、なくなりました」
その理由を、彼は言わなかった。楊文も、聞かなかった。
「力の要らない仕事も、一つだけ回ってきました」
彼は、話を継いだ。
「兄弟子たちの写経の、墨を磨る仕事です。硯に水を落とし、墨を立てて、同じ速さで回し続ける。……単調な仕事を、他の者は嫌がりました。私は、嫌いではありませんでした」
磨りながら、彼は兄弟子たちの写す経を横目で追った。見て、文字の形を覚えた。誰に教わったわけでもない。
ある日、余った紙の切れ端に、見よう見まねで経の一節を書いた。磨り残しの墨と、穂先の割れた古筆である。誰もいない昼下がりの房で、息を詰めて最初の一画を下ろした。
「紙の上に、黒い線が生まれます」
沈曉は、火を見たまま言った。
「生まれた線が、乾いて、動かなくなる。……その静かさに、私は見入りました」
拙い字だった。それでも、形は整っていた。見つけた兄弟子が驚き、その紙を師伯へ見せた。師伯は黙って、それから彼を呼んだ。
叱られるのだと思った。習ってもいない字を勝手に書いたことを、咎められるのだと。
師伯は、叱らなかった。
その日のうちに、彼を祭酒の前へ連れて行った。
「それが、師との、初めての出会いでした」
楊文が、身を乗り出した。
「どんな人だったんだ」
「静かな方でした」
祭酒の間に通された時、幼い彼はまず部屋の広さに驚いた。壁一面に経典の巻物が並び、香の匂いが静かに満ちている。緊張で足が竦んだ。
「私を見て、しばらく何も言いませんでした。ただ、私の手を取って、掌を見ました」
師の掌は乾いていて、少し冷たかった。その掌が、幼い彼の指を一本ずつ、確かめるように触れていった。
「それから、私の目を見て、こう尋ねました。……水は好きか、と」
「水」
「はい。……妙な問いだと、その時は思いました。答えました。桶に汲む水は、嫌いです、と」
沈曉の口元が、僅かに緩んだ。
「師は、笑いました。あの人が私の前で笑ったのは、それが最初だったかもしれません」
そして、もう一つ尋ねた。好きなものは、何だ、と。
「字を書くのが好きです、と答えました。なぜ、と問われて、私はうまく答えられませんでした。墨の匂いが好きだとか、筆の運びが面白いとか、そういう理由ではなかったのです」
彼は、少し間を置いた。
「何もなかった場所に、何かが立ち上がっていく。……それが、好きだったのだと思います」
楊文は、何も言わなかった。
火に薪を足した。
「師は、しばらく私を見ていました。見てから、師伯に言いました。この子は、しばらく儂が預かる、と」
その一言が、彼の生涯を変えた。
当時の彼には、その重さが分からなかった。ただ、水汲みをしなくてよくなるのだと聞いて、単純に喜んだ。その顔を見て、師がもう一度、微かに笑ったことを、彼は覚えている。
翌朝、彼は初めての稽古に呼ばれた。
師は彼を石段の前に立たせた。三百と六段。見上げれば、頂が霧に隠れて見えない段である。
「上り下りを、十度。休まず、続けなさい」
師は、それだけ言った。
「訳を、尋ねたのか」
「いいえ。……訊いても答えは返らないだろうと、子供心に分かったのです」
初日、彼は二度上ったところで崩れ落ちた。膝が笑い、息が上がり、目の前が白くなった。座り込んだ彼を、師は助け起こさない。傍らに立って、こう言った。
「立てるまで、待つ」
「待ったのか」
「はい。……急かしもせず、案じる素振りも見せず。ただ、立てるまで、そこに立っていました」
三度しか上れなかった日の翌日は、四度上れた。その次の日は、五度。
石段を上る朝は、日の出前から始まる。上りきれば、また下りる。一歩ごとに、吸う長さと吐く長さを段の高さに揃える。
幾月か続けるうち、体の内側に、それまで感じたことのない道筋があることに気づき始めた。目を閉じたまま、初めて歩く廊下の壁を指先でなぞっていくような感覚だった。何もなかった場所に、道が確かにあると分かってくる。
「きつかったろう」
「はい」
沈曉は、正直に答えた。
「幾度も、逃げ出したいと思いました。……一度だけ、愚痴を言いました。なぜ私だけ、これほど厳しいのですか、と」
「なんて、返ってきたんだ」
その日の師の声を、彼は今も覚えている。怒りも苛立ちもない、事実を告げるだけの声だった。
「――お前の体は、脆い。脆いまま歳月を重ねれば、この修行の半ばで朽ちる。……厳しゅうしておるのではない。急いでおるのだ」
その言葉を、幼い彼はうまく理解できなかった。
「私の体が、他の者より先に朽ちる恐れがあった、ということです。……師は、それを見抜いていました。遠回りをする時間が、私にはなかったのです」
その夜、彼は逃げ出したいという思いを胸の奥へ仕舞った。翌朝、また石段の前に立った。
「その頃から、口数が減りました」
沈曉は、続けた。
「息を無駄にしないことを、覚えたのです。……言葉も、笑いも、体力を使います。使わずに済むものは、使わずに済ませる。それが、いつからか当たり前になっていきました」
菓子を盗み食いし、亀の子と呼ばれて言い返していた子供は、そうして少しずつ、口の重い人間になっていった。
「今のあんたは」
楊文が、ぽつりと言った。
「そうやって、できたのか」
沈曉は、答えなかった。
答える代わりに、目を伏せた。その先で、渓流の水面が火明かりを受けて揺れている。砕ける光が、絶え間なく形を変えていた。同じ流れは、二度と同じ形をしなかった。
「その先の話は」
やがて、楊文が言った。
「聞かせてくれるのか」
「長い話です」
「構わねえ」
楊文は、そう言って火に薪を足した。新しい炎が、二人の顔をまた赤く照らし始める。
「明日の夜に、いたしましょう」
沈曉は、そう言って目を閉じた。
瞼の裏で、火の残像がゆっくりと薄れていく。百年以上前の話を、彼は今夜、初めて声に出した。出してみると、記憶は思っていたより近くにあった。遠ざけていたのは、彼自身だったのかもしれない。
その夜、彼は久しぶりに幼い日の夢を見た。
夢の中で、彼はまだ水を運んでいる。桶が重く、幾度も転ぶ。そのたびに、遠くで誰かが笑っていた。
二日目の夜は、尾根の窪みで火を焚いた。
風が弱い。夜の底が、いちばん深くなる刻限だった。月はなく、星ばかりが恐ろしいほどの数で頭上に散らばっている。地上の火が小さくなるほど、天の火は数を増していくように見えた。
薪を足す手を、二人とも止めていた。残り火を見つめながら、待っている。
「師の許で修行を積み、二十歳になった年、私は道号を選びました」
沈曉は、ようやく口を開いた。
「望曉、と名乗りました。夜明けを望む、という号です」
「あんたが、自分で選んだ号だな」
「はい」
彼は、それ以上のことを言わなかった。
「その頃には、師の直弟子として、観の中でも一目置かれる立場になっていました。師は、いずれ私に観を任せるつもりでいたのだと思います。……実際、師が仙籍に入られた後、私は玉雲観の祭酒を継ぎました」
「仙籍に入る、ってのは」
「天へ、登られたということです」
沈曉は、静かに答えた。
「その話は、また、別の折に」
楊文は、頷いた。それ以上は尋ねなかった。
「祭酒を継ぐより、ずっと前の話をいたします」
沈曉は、続けた。
「二十歳を過ぎた頃、私は、麓の村へ薬を届ける遣いを任されていました。……その中に、一軒、よく寄る家がありました」
土間の匂い。竈の煙。子供たちのはしゃぐ声。
その家の娘は、彼が薬箱を提げて訪れるたび、井戸端まで駆けてきて水を汲んでくれた。差し出す仕草に、他意はない。受け取る手が、一度、遅れた。
「私は、その家の温かさに惹かれました。……共に育てば、そういう暮らしが、私にもあったのかもしれない。そう思うようになったのです」
「それで、どうなったんだ」
「何も、ありません」
沈曉は、首を振った。
「山へ戻って、師にそのまま打ち明けました。あの家の暮らしが、羨ましいのです、と」
「叱られたか」
「いいえ」
彼は、火を見た。
「羨むこと自体は、恥ではない。人であれば、当然の心だ。……師は、そう言いました」
「けれど、続けてこう言われました。その羨みを、そのまま欲に変えれば、修めた道はそこで終わる。欲しいものを手に入れて満ち足りる生と、欲しいものを手放して極める生とは、両立しない。お前が選ぶのは、どちらだ、と」
「答えたのか」
「答えられませんでした。……幾日か迷って、山に残る、という答えを出しました」
沈曉の声は、静かだった。
「けれど、それは欲を捨てた答えではありませんでした。私は、あの家の温かさより、自分がここまで積み重ねてきたものを手放したくなかったのです。……それも、また一つの欲でした」
楊文は、黙って聞いている。
「師は、こう言いました」
彼は、少し間を置いた。
「欲を消すことは、できない。消したと思う心こそが、いちばん深い欲だ。……ただ、欲の向く先を、選び続けることはできる。お前は今、選んだのだ、と」
火が、小さく音を立てた。
「それから、私は村へ通い続けました。あの家にも通いました。ただ、羨む気持ちは、少しずつ別のものに変わっていきました」
「別のもの、ってのは」
「あの家族が、健やかであるように、と願う気持ちです」
沈曉は、微かに目を伏せた。
「欲しがることをやめて、願うことに変えたのです」
彼は、そこで一度、言葉を切った。
「昨夜、水汲みのことを聞かれました」
「ああ」
「桶の水が、誰かの薬を煎じる水になり、誰かの傷を洗う水になる。……それを知った日から、桶の重さの意味が変わりました。嫌いでなくなったのは、その頃です」
楊文は、口を挟まなかった。
火に薪を一本足した。
沈曉は、膝の上で両手を組んだ。
「祭酒となってから、私は長い歳月を玉雲観のために使いました。……その中で負ったもののうち、あの夜のものほど重いものは、他にありません」
火が、ぱち、と鳴った。
「今夜、もう一度、話しておきたいのです。……焼け跡で李慕言に語った時とは、少し違う話を」
楊文は、身じろぎもせずに聞いている。
「私は、三十四人を、殺しました」
「知ってる」
楊文は、短く答えた。
「師は、幾度も教えました。功徳とは、命を活かすことにある、と。奪うことでは、ない、と」
彼は、静かに拳を握った。
「理解していて、なお、あの夜、剣を振るいました。……あの法がこの世に放たれることの方が、はるかに大きく道理に背く。私は、そう判断しました」
「今も、そう思ってるのか」
楊文が、静かに尋ねた。
沈曉は、目を閉じる。
「思っています」
長い沈黙の後、彼は答えた。
「あの法を知る者が一人でも多く生き残っていれば、いつか必ず、誰かの手で再現されます。……欲があり、材料があれば、答えには必ず辿り着かれる。それを、私は、李慕言という一人の証によって思い知りました」
「あんたが、正しかった、ってことか」
「正しかった、とは、言えません」
沈曉は、首を振った。
「無実の者を、幾人も道連れにしました。……工程の一部しか知らなかった者たちです。あの者たちの死は、私の判断が正しかったかどうかとは関わりなく、確かに間違いでした」
彼は、深く息を吸った。
「正しさと、間違いは、あの夜、同時に私の手の中にありました。……二つを切り離すことは、今もできません」
楊文は、黙っていた。
「あの夜より前、私は百年以上生きてきました」
沈曉は、続けた。
「その間、罪と呼べるものを負わなかったわけではありません。……けれど、それらはいずれも、時と共に薄れていきました。功徳を積み、悔い、償えば、罪の重さは少しずつ軽くなっていくものだと、私は信じていました」
「あの夜の分は」
楊文が、静かに問うた。
「軽くならなかったのか」
「はい」
沈曉は、答えた。
「十年、経ちました。十年という歳月は、私にとって瞬きほどの長さです。……それでも、あの夜のことだけは、少しも薄れませんでした」
彼は、火の傍で右手を開いた。
細く、白い指である。星明かりの下で、その手はただの手にしか見えない。それがいちばん恐ろしいのだと彼は思う。
「剣を握るたび、感じます。あの夜、この手が何をしたのかを。……三十四人の、体温を」
声が、そこで僅かに震えた。
「他の罪は、時が癒してくれました。あの夜の罪だけは、時が経てば経つほど、重くなっていくのです」
闇の中で、指が微かに震えていた。
震えを、彼は隠さなかった。
楊文は、長い間、何も言わなかった。
やがて、口を開いた。
「あんたは、あの夜、正しかったのか、間違ってたのか、まだ決めてねえのか」
沈曉は、少し考えてから答えた。
「決めています」
「どっちだ」
「あの選択は、間違っていなかった。……今も、そう思っています」
「なのに」
楊文の声に、微かな戸惑いが混じった。
「なのに、重くなっていくのか」
「はい」
沈曉は、静かに頷いた。
「間違っていなかった、ということと、道理を外れていない、ということは、別のことだからです」
楊文は、黙り込んだ。
「あの夜、私は選ぶべき道を、正しく選びました。……けれど、選んだ瞬間から、私は道理の外に出てしまったのだと思います。師が生涯をかけて教えてくれた道——人のために生き、命を奪わず、活かす道。その道から、私はあの夜、踏み外しました」
彼は、目を伏せる。
「踏み外した先に、正しい判断があった。それだけのことです。……道を外れて、なお、正しくあろうとしました」
師の教えを守るために、師の教えそのものを裏切った。
その捻れを、彼は十年、誰にも語らずにきた。
「あの日から、私はもう、師の弟子ではいられなくなったのだと思っています」
声が、そこで初めて微かに掠れた。
楊文は、じっとその横顔を見ている。
「師匠が、生きていたら」
彼は、静かに尋ねた。
「なんて、言ったと思う」
沈曉は、長い間答えなかった。
火が、また一つ小さく爆ぜた。火の粉が闇へ昇って、すぐに見えなくなった。
「分かりません」
彼は、ようやくそう答えた。
「叱られたのか、それとも、何も言わずにただ見ていたのか。……多くを語らない人でした。あの人が何を思うかを、私は今も、正確には分かりません」
「なのに、あんたは」
楊文が、続けた。
「師匠の教えを、今も大事に持ってるんだな」
「はい」
沈曉は、頷いた。
「持っています。……道理を外れた者が、道理を語る資格はないのかもしれません。それでも、あの人の教えだけは手放しませんでした。手放せば、あの夜の私が正しかったことさえ、意味を失う気がしたのです」
夜が、静かに深まっていく。
楊文は、火に最後の薪をくべた。小さな炎が、また少しだけ大きくなった。
「あんたは」
楊文が、ぽつりと言った。
「重いもんを、ずっと独りで背負ってきたんだな」
沈曉は、答えなかった。
代わりに、火を見つめた。橙色の光が、細い指の輪郭を静かに縁取っている。
背負ってきた、という言い方を、彼は自分では使ったことがない。背負うというのは、下ろす日があることを前提にした言葉である。彼は、下ろすつもりのないものしか抱えてこなかった。
呼ばれてみると、その重さは、少しだけ背負えるものの形をしていた。
「明日には、白澗観に着きます」
彼は、話をそこで区切った。
「師の話の続きは、着いてから、いたしましょう」
「ああ」
それきり、二人は火を見つめていた。
夜が、少しずつ白み始めていた。