天理の石 — 第35話
第三十五話 別れ
白澗観までは、三日かかった。
昼の道で、楊文は喋らなかった。喋る質の男が、喋らない。言葉が戻るのは、日が落ちて火が入ってからだった。沈曉は、そのことに触れなかった。
山門が見えたのは、三日目の昼である。
焼けては、いない。
白澗観は、焼かれてはいない。あの夜、堂の中で人が死んだだけである。柱も、壁も、屋根も、半年前と同じ場所にあった。
ただ、無人だった。
門は、開いたままである。閉める者がいない。開いた門の内側に、落ち葉が吹き溜まっていた。夏の終わりの落ち葉ではない。去年の秋の葉が、そのまま重なり、腐り、土に還りかけている。
楊文は、門の前で足を止めた。止めて、しばらく動かない。
沈曉も止まり、半歩下がった場所で待った。
扁額が、落ちていた。
門柱の間に、伏せて倒れている。金具が錆びて、抜けたのだろう。半年の雨と日を、そのまま浴びている。
楊文が、それを起こそうとした。
両手をかけ、持ち上げる。持ち上げかけて、彼の手が止まった。
沈曉は、その理由を見た。
板が、割れている。中央から斜めに、大きく。「白」の字の途中で、割れ目が走っていた。裂けた木の縁が、灰色になって毛羽立っている。
楊文は、それを元の位置へ戻した。伏せたまま、そっと。
掲げる場所が、もうない。
「……師匠が、書いたやつだ」
彼は、それだけ言った。
「下手くそだって、みんなで笑ってた」
沈曉は、答えなかった。
答えずに、その割れた板を見た。字は、確かに、上手いとは言えなかった。だが、書いた者の手の速さが、そこに残っている。急がずに、順に、あるべき場所へ収めていく手ではない。もっと大らかで、少し雑な手だった。
その手は、もう、この世にない。
楊文が、庭へ入った。
落ち葉が、足首まで積もっている。歩くたびに、乾いた音と、湿った音が交互にした。
彼は、堂の裏へ回った。
物置の戸を開け、中から箒を出す。竹の箒である。柄が、握り込まれて黒ずんでいた。細い手が握った跡だった。
楊文は、それを持って戻り、庭の隅から掃き始めた。
沈曉は、門の内で立っている。
手伝おうか、と言おうとして、言わなかった。
朝と夕、二度。
門前と、境内と、堂の周りを。この観で、それは、いちばん年下の弟子の役目だった。号をもらう前の少年が、半年前まで、毎日それをしていた。
楊文は、黙って掃いた。
半年分の落ち葉である。半刻で終わる仕事ではない。日が傾き始めても、彼は掃き続けた。
屈んで落ち葉を寄せる時、この男の左手が、一度、腹へ行った。行って、すぐ離れた。
沈曉は、堂の裏へ回った。
物置に、箒はもう一本あった。竹の細いのが、壁に立てかけてある。彼はそれを持って、庭の反対の隅から掃き始めた。
楊文は、断らない。断りもせず、礼も言わなかった。
二人は、日が落ちるまで掃いた。
掃き終わった庭は、広かった。誰もいない庭が、こんなに広いということを、楊文は初めて知ったような顔をしている。
翌朝、裏山へ登った。
半年前は、暗いうちに水を汲んで上った道である。同じ道が、今朝は長い。
朝靄の中に、水の音がする。白澗の谷川である。山の名になった細い流れが、墓地の下をめぐって、絶えず低く鳴っていた。この観の主は、その音を聴く者、という号を持っていた。号の主が逝った後も、水は同じ音で流れ続けている。
墓は、そこにある。半年前、楊文が掘った穴の上に、土饅頭が並んでいた。
十五。
数は、変わっていない。夏草が伸びて、輪郭を曖昧にしている。楊文は、草を抜き始めた。一つの墓の周りの草を抜き、次の墓へ移り、また抜く。
沈曉は、墓地の外に立っていた。境の石を、彼は越えない。
半年前、彼はここへ入った。手伝いを断られてもなお、土を運んだ。その時の彼は、自分が誰であるかを、この場所に対して言わずに済んでいる。
今は、言えない。言わずに入ることも、もうできない。
彼は、境の外で待った。
楊文は、草を抜き終え、いちばん端の墓の前に座った。線香に、火を点ける。煙が、まっすぐに上がった。風のない朝である。
彼は、口を開いた。
「師匠」
声は、低かった。
「仇は、討ちました」
沈曉は、境の外で、それを聞いていた。
「玉雲観の焼け跡でした。李慕言って男です。二十五でした。……俺と、同い年でした」
線香の煙が、揺れた。
「なんでこんなことになったのかも、分かりました。俺の口からは、うまく言えません。……ただ、あんたたちを殺した理由が、あったんです。理由があったから、余計に、腹が立ちます」
彼は、そこで言葉を切った。
切って、しばらく黙っていた。
「俺が、斬りました」
線香が、燃えている。
「一太刀でした」
それだけだった。
彼は、次の墓へ移った。
周敬の墓の前で、楊文は長く座った。
「師兄」
沈曉には、その名しか聞こえない。
あとは、声が低すぎた。何を話しているのかは、分からなかった。ただ、時々、楊文が笑うのが見える。笑って、それから、黙った。
次の墓へ。また、次の墓へ。
楊文は、一つずつ名を呼んだ。十五の名を、彼は全部覚えている。呼んで、座って、何かを話して、立ち上がる。
最後の一つは、小さな墓だった。
号のない少年の墓である。
楊文は、そこで、いちばん長く座った。
何を話したのかは、聞こえなかった。ただ、立ち上がる時、彼は自分の膝を払い、袖で顔を拭った。その顔で、こちらを振り返った。
沈曉は、その顔を見た。
楊文は、墓地の中から、こちらを見ている。
境の石を挟んで、二人は向かい合った。
沈曉は、動かなかった。動く資格が、自分にあるとは思っていない。半年前、彼は何食わぬ顔でこの場所に立ち、土を運んだ。その手が、この人たちを殺した知識を持っていることを、誰にも言わずに。
楊文は、こちらを見ていた。
それから、言った。
「あんたも、来いよ」
沈曉は、動けなかった。
「言ってねえんだ」
楊文は、墓の方を見た。
「あんたのことは、一言も言ってねえ。名前も、何をした人かも。……俺の中でも、まだ片付いてねえからだ。片付いてねえもんを、こいつらに預けるわけにいかねえ」
彼は、こちらへ向き直った。
「けど、隣に立たせないのは、違う」
沈曉は、境の石を見た。
石は、ただの石である。誰が置いたものでもない。半年前、楊文が「ここからが墓だ」と言った、それだけの石だった。
彼は、足を上げた。
境を、越えた。
二人は、並んで立った。
十五の土饅頭の前である。夏草が抜かれ、線香が燃え、煙が十五、まっすぐに上がっている。
沈曉は、何も言わなかった。
言うべき言葉を、彼は持っていない。詫びれば、この人たちを利用することになる。名乗れば、隣の男の半年を踏みにじることになる。
だから、彼は立ち、頭を下げた。
深く、長く、下げた。上げるまでに、しばらくかかる。
楊文は、それを見ている。何も言わずに、線香をもう一本、足した。
周敬の墓標の前に、何かが置いてあった。
半年前には、なかったものである。
沈曉は、それを見た。
紙が、一枚。石の下に押さえられている。楊文が屈み込んで、拾い上げた。
写経の手本だった。
罰の写経に使う手本である。この人が書いた字を、弟子たちが写した。一枚だけ、誰かが供えていったらしい。麓の村の者だろうか。あるいは、この観を訪れた誰かだろうか。
紙は、雨に濡れていた。
濡れて、乾いて、また濡れたのだろう。墨が滲み、字が輪郭を失っている。読めるところと、読めないところがあった。
楊文は、その紙を長いこと見ていた。それから、元の場所へ戻す。石を、上に置き直した。
置き直す手つきが、丁寧だった。
谷川の音が、続いている。
滲んだ字は、雨に打たれるたび、少しずつ薄れていくだろう。
薄れていく字を、石が押さえている。置いた者は、名を書かなかった。
この山を覚えている者は、まだ他にもいた。
昨日掃いた庭に、また落ち葉が落ちている。
二十枚ばかりである。半年ぶんを掃き出した翌日にしては、少ない。それだけに、かえって目についた。無人の観にも、木は葉を落とす。
日が、西の稜線にかかっていた。
裏山の方から、谷川の音が届いている。玉雲観からの道中で聴いてきた渓流とは、違う音である。細く、低く、切れ目がない。この観の名になった水の音だった。
楊文が、堂の縁に腰を下ろした。
沈曉も、少し離れた場所に座る。
腰を下ろすのに、片手を地につかなければならなかった。
そのことを、楊文は見ていない。見ていないふりの角度である。
二人の間に、小さな火が焚かれた。
夜露を防ぐためだけの火である。道中で焚いてきたものより、ずっと小さかった。
「続きを」
楊文が、口を開いた。
「聞かせてくれるんだろう」
「はい」
沈曉は、掃き清められた庭を一度、見渡した。
これとよく似た庭を、彼はかつて、毎朝掃いていた。年数は数えていない。数えるための場所ではなかった。
「祭酒を継ぐまでの話を、いたします」
望曉と名乗ってから、数十年が過ぎた。
任される務めは増え、観の中で彼の言葉に耳を傾ける者も、少しずつ増えていった。経を修め、功徳を積み、若い弟子の指導にもあたるようになった。
「けれど、師は、いつも私より一歩、遠い場所におりました」
彼は、そう言った。
「学ぶべきことの多くを、私はもう修めておりました。それでも、隔たりは埋まりませんでした。……あの人は、私よりずっと遠くを見ておりました」
「遠くって、どこだ」
「天です」
楊文は、火を見た。
「あの人はその頃、既に、この世の理を越えた場所に片足をかけていたのだと思います。……私が気づいたのは、あの人が去る、少し前でした」
秋の朝だった。
いつものように祭酒の間へ呼ばれ、いつものように座った。何の変哲もない朝である。銀杏が色づき始めていた、ということだけを、彼は覚えている。
「お前に、渡すものがある」
師は、そう言った。
懐から出てきたのは、一枚の銭である。すり減って角が丸く、模様も消えかけていた。それでも、光にかざせば、その頃はまだ、辛うじて年号が読めた。
師は、それを彼の掌に置いた。
「これは儂が若い頃から持っておる」
置いた手を、師はすぐには離さなかった。
「お前が長く生きるなら、いつか読めなくなるだろう。……読めなくなった時、お前は、自分が人でなくなっていることに気づかぬかもしれん」
沈曉は、そこで一度、言葉を切った。
火が、爆ぜた。
「その時は、これを見よ。見て、人であったことを、思い出せ」
楊文は、動かなかった。
やがて、彼は目を伏せた。
「あんたが、あの銭を大事にしてる理由が」
伏せたまま、そう言う。
「分かった気がする」
「頂いた時は、意味が深くは分かりませんでした。……分かったのは、ずっと後です」
銭は、いま懐にある。彼は手を入れなかった。入れなくても、あの重さがどこにあるかは分かっている。
「あの人は、その日、もう一つ言葉を残しました」
沈曉は、火を見たままだった。
「薪は火のためにあり、火は人のためにある」
声は、大きくならなかった。
言い終えて、彼は黙った。楊文も、何も言わない。谷川の音が、その間を埋めた。
「この言葉を、私は忘れませんでした」
やがて、彼はそう言った。
「忘れなかったからこそ、あの夜、私は剣を振るいました」
楊文の顎が、僅かに動いた。
何かを言いかけて、やめた。やめて、火に手を伸ばし、薪の位置を直した。
「その日の夕刻」
沈曉は、続けた。
「師は、境内の中央に座を組みました。……支度は、何もありませんでした。いつものように座り、いつものように、目を閉じただけです」
銀杏が、黄金の色に染まっていた。風のたびに、葉が一枚、二枚と落ちた。師の肩にも、膝にも、分け隔てなく降った。師は、それを払わなかった。
弟子たちが、遠巻きに集まった。声を上げる者は、いない。
「消えた、のか」
楊文が、小さく尋ねた。
「はい」
沈曉は、答えた。
「風が、一度、強く吹きました。……吹き終えた後には、座っていた場所に、何も残っておりませんでした」
あの日の風の匂いを、彼はまだ覚えている。乾いた、澄んだ、秋の風だった。
一つだけ、残っていたものがある。
降り積もった銀杏の葉が、座の形に、丸く払われずに残っていた。人ひとりぶんの、小さな空白である。
その空白が風に埋められて消えるまで、弟子たちは誰も、そこを踏まなかった。
「泣かなかったのか」
楊文が、聞いた。
沈曉は、少し考えた。
「泣きませんでした。……悲しむべき別れだとは、思わなかったのです。あの人は、望んだ場所へ辿り着きました。それを見送ることに、悲しみは似合わないと思いました」
「あんたらしいな」
楊文が、微かに笑った。
「その、爺さんは」
言いかけて、口を閉じる。
押すのは一度だけで、押した後は黙って待つ男である。待って、何も来ないと分かると、彼はそれ以上、押さなかった。
「その日から、玉雲観の祭酒は、私になりました」
沈曉は、火に目を戻した。
「多くの弟子を迎え、多くの弟子を送り出し、観を守り続けました。……けれど、私は、一人も直弟子を取りませんでした」
楊文が、こちらを見た。
「師のように、誰か一人を選んで、その者だけにすべてを注ぐことを、私はしなかったのです」
「なんでだ」
「師が私に注いだものは、あまりに大きなものでした」
彼は、言葉を選んだ。
「あの重さを、私が他の誰かに同じように注げるとは、思えませんでした。中途半端に選び、中途半端に注げば、選ばれなかった者にも、選ばれた者にも、傷が残ります。……それで、誰も選びませんでした」
火が、少し傾いだ。楊文が、薪を寄せる。
「代わりに、私はすべての弟子に、等しく接しました。……深くは、踏み込まずに」
「一人も、いなかったのか」
楊文が、重ねて尋ねた。
「あんたの手元を、盗み見てた奴とかは」
沈曉の指が、僅かに動いた。
「――一人、おりました」
彼は、答えた。
「幼い頃から、私の手元を、戸の陰から見ていた子です。……気づいておりました。気づいていて、何もしませんでした」
「なんで」
「教えれば」
彼は、目を伏せる。
「その子は、私の形になります。師が、私にそうしたように。……それをその子に望んでよいのか、私には分かりませんでした」
沈黙が、落ちた。
火だけが、音を立てている。
「今なら、分かります」
やがて、沈曉は続けた。
「教えるべきでした。……教えなかったことが、あの子の十年を、どれほど空白にしたのか。今なら、分かるのです」
楊文は、何も言わなかった。
言えることが、ないのだろうと沈曉は思った。あの子の名を、二人とも、今夜は口にしなかった。
「私は」
火が、小さくなっていく。
「今も、誰かを直弟子として迎えることを、考えたことがありません。……これから先も、そうするつもりはありません」
「なんでだ」
「もう、迷いたくないのです」
沈曉は、答えた。
「教えるべきか、教えざるべきか。……あの迷いを、もう一度、繰り返したくありません」
楊文は、その横顔を見ていた。
見て、それから、薪の山へ手を伸ばした。
一本を掴む。掴んで、持ち上げたところで、手が止まった。
彼はそれを、火にくべなかった。膝の横に置いて、また火を見た。
燠が、赤いまま沈んでいく。赤みが薄れ、灰の白が上に浮いてきた。
どちらも、動かなかった。
谷川の音が、続いている。この山の水音を聴いて生きた人たちは、もう一人もいない。その庭で、生きている二人が、燃え尽きる火を見ていた。
空に、星が出ていた。
七つの年に山門をくぐった日から今日までが、今夜、初めて誰かに渡された。渡してしまえば軽くなる、と思っていたわけではない。実際、軽くはならなかった。
持ち方だけが、変わっている。